第1話
第1話
剣が届かない。
A級ダンジョン「黒牙の坑道」第五層。松明の灯りすら呑み込む暗闇の中、湿った岩壁が冷たい空気を吐き出している。水滴が天井から落ち、どこか遠くで反響する音だけが静寂を縫っていた。そこへ——巨大な甲殻蟲が岩陰から這い出した。体長は成人の背丈を優に超える。節くれだった六本の脚が地面を抉り、鎌のような前脚が空気を裂いて振り下ろされる。風圧がヴェルクの前髪を跳ね上げた。大剣を構え直す時間はない。刃が届く距離ではなかった。
その刹那、リオンの詠唱が間に合った。
「——『加速付与(ヘイスト)』」
淡い緑の光がヴェルクの全身を包む。足元から立ち昇った燐光が筋繊維の一本一本に染み込むように浸透し、ヴェルクの動きが目に見えて変わった。剣速が跳ね上がり、蟲の前脚を斬り落とす。切断面から黄色い体液が噴き出し、酸の臭いが鼻腔を焼いた。返す刀で腹部の甲殻を割り、体液が飛び散った。リオンの外套にも飛沫がかかる。拭う暇はない。すでに次の術式を脳内で組み立てている。
「遅えぞリオン! もう少しで喰われるところだった!」
ヴェルクが怒鳴る。大剣を肩に担ぎ、振り返りもしない。蟲の体液で汚れた刃を一振りして払い、それきりだ。リオンは「すまない」とだけ返し、次の詠唱に入った。謝罪の言葉は舌に馴染みすぎていて、もう感情を伴わない。
「『魔力増幅(ブースト)』——エリーゼ、次の群れが来る」
坑道の奥から、甲殻が擦れ合う不快な音が近づいてくる。一匹や二匹ではない。地面を伝わる振動が足裏に伝わり、リオンは群れの規模を推し量った。少なくとも十。
「わかってる。余計な指図しないで」
魔導士エリーゼの杖先に炎が凝縮する。赤い光が坑道の壁を照らし、岩肌に刻まれた古い採掘跡が一瞬だけ浮かび上がった。リオンのブーストを受けた火球が坑道の奥へ吸い込まれ、甲殻蟲の群れを焼き払った。爆風が髪を揺らす。熱波が肌を叩き、焦げた外殻の臭いが鼻を突いた。坑道の天井から小石がぱらぱらと落ちてくる。
「ナイスだエリーゼ! さすがだな」
「当然でしょ。Aランク魔導士を誰だと思ってるの」
ヴェルクとエリーゼが笑い合う。火球の残り火が坑道の奥でちらちらと揺れ、二人の横顔を橙色に染めていた。盾役のガルドが「前方クリア」と低く告げ、パーティは奥へ進んだ。
リオンは最後尾を歩く。いつもの位置だ。
三人の背中を見ながら、術式の残滓で痺れる指先を握り締める。ヘイストとブーストの同時維持。それに加えて、ガルドの盾に常時かけている防御強化と、パーティ全員への微弱な回復促進。四つの支援術を途切れさせず維持するために、リオンの魔力は常に枯渇寸前で回っている。こめかみの奥が鈍く痛む。魔力の過剰消費による頭痛は、もう何年も日常の一部だった。
五年間、ずっとここにいる。「鉄壁の盾」の支援術師。鑑定石の判定はDランク、汎用型。パーティ内で最も低い等級。報酬分配も最低枠。それが当然のこととして、誰も疑問を持たない。
——今の戦闘も、ヘイストがなければヴェルクの剣は届いていなかった。ブーストがなければエリーゼの火球はあの群れを一掃できなかった。ガルドの盾が蟲の突進を弾けたのも、防御強化があったからだ。
わかっている。薄々、ずっと気づいている。
だが言ったところで何になる。鑑定石がDと出している以上、数字が全てだ。この世界では。
* * *
王都アルヴァス、冒険者ギルド本部。
石造りの広間は冒険者たちの喧噪で満ちていた。武具の金属音、酒杯がぶつかる音、依頼達成を祝う笑い声。壁に並ぶ依頼掲示板の前には人だかりができ、受付カウンターには報告待ちの列が伸びている。
帰還報告を終えた「鉄壁の盾」の四人が、受付カウンター横のテーブルに着く。ヴェルクが報酬の金貨袋をテーブルに置き、中身を数え始めた。金貨が触れ合う乾いた音が、リオンの耳に妙に鮮明に響く。
「黒牙の坑道第五層クリアで報酬は金貨八十枚。分配はいつも通りだ。俺が三十、エリーゼが二十五、ガルドが二十」
残りは五枚。リオンの取り分だ。
戦闘中ずっと四人にバフをかけ続け、デバフで敵の動きを鈍らせ、回復補助まで担った。それで全体の十六分の一。宿代と食費と消耗品の補充で、五枚はほぼ消える。貯蓄など、五年間で一度もできたことがない。
「異論はないな?」
ヴェルクの目がリオンを見る。確認ではなく、威圧だった。腕を組み、椅子の背もたれに体重を預けた姿勢。見下ろす角度まで計算されているようだった。
「——ない」
「よし。次の依頼だが、来週A級の——」
「あの、ヴェルクさん」
リオンは口を開いた。自分でも珍しいと思った。普段は黙って受け取る。だが五年だ。五年間、一度くらいは。喉の奥が渇いていた。心臓が嫌に速く打つのがわかる。
「報酬の件なんだが、少し見直しを——」
「は?」
ヴェルクの眉が跳ね上がる。ギルドの喧噪が一瞬遠くなった気がした。テーブルの上の金貨が、動かないのにかちりと鳴ったように聞こえた。
「お前、自分の立場わかってるか? Dランクの支援術師が、Aランクパーティに置いてもらえてるだけありがたいと思え」
「五年間の実績を——」
「実績?」
ヴェルクが鼻で笑った。エリーゼが目を逸らす。杖を持つ指先が微かに動いたが、口は開かなかった。ガルドは黙って壁を見ていた。厚い腕を組んだまま、まるでここにいないかのように。
「お前の実績って何だよ。剣を振るったか? 魔法で敵を倒したか? 盾で仲間を守ったか? ——バフかけて後ろに突っ立ってるだけだろうが」
周囲のテーブルからも視線が集まり始める。ギルドの冒険者たちが、こちらを見ている。好奇と嘲りの混じった目。見慣れた種類の視線だった。リオンは唇を引き結んだ。拳を膝の上で握ったが、震えてはいなかった。怒りですらない。もっと古い、名前のつかない感情だった。
「雑用は雑用らしくしてろ。文句があるなら他のパーティに行けばいい。——もっとも、Dランクの支援術師を欲しがるパーティがあればの話だがな」
笑い声が上がった。ヴェルクのものではない。周囲の冒険者たちだ。隣のテーブルの剣士が肘で仲間を突き、何かを囁いて笑っている。
リオンは何も言わなかった。言えなかったのではない。言っても届かないと、五年かけて学んでいた。
金貨五枚をポケットにしまい、席を立つ。椅子の脚が石の床を擦る音が、やけに大きく響いた。酒場の方から肉の焼ける匂いが漂ってくる。仲間たちの打ち上げに、リオンが呼ばれたことは一度もない。背後でヴェルクが「さて、飯にするか」と言うのが聞こえた。三人分の椅子が鳴る。リオンは振り返らず、ギルドの大扉を押し開けた。
宿に戻る道すがら、リオンは右手の甲を見た。鑑定石に初めて触れた日からある、薄い痣のような紋様。十五の年、故郷の村の鑑定式で浮かび上がったそれを、鑑定士は首を傾げながら「魔力の滞留痕」だと言った。気にするなと言われた。両親は安堵したように笑い、リオンもそれ以上訊かなかった。
——気にしていない。もう、何も。
夕暮れの石畳を歩く。王都の大通りは帰路を急ぐ人々で賑わい、露店の商人が声を張り上げている。すれ違う冒険者たちは仲間と肩を組み、今日の戦果を語り合っていた。リオンはその流れの端を、影のように歩いた。
宿の安い個室で装備を解いていると、扉を叩く音がした。開けると、ギルドの伝令係が封書を差し出す。まだ若い、リオンと同じくらいの年齢の青年だった。事務的な口調で告げる。
「『鉄壁の盾』のリオン・フェルド様宛、ギルド本部より年次査定の通知です」
受け取り、封を切る。ギルドの紋章が押された厚い紙。インクの匂いが鼻をかすめた。
——パーティ「鉄壁の盾」、年次総合査定。
現行ランク:A+。 査定結果:Aへの降格を勧告。
理由の欄には、こう書かれていた。
「直近六ヶ月間の任務達成効率の低下、及びパーティ構成員の個別貢献度に著しい偏りが認められるため」
——個別貢献度の偏り。
リオンは紙面から目を上げた。窓の外では王都の夕暮れが、屋根の連なりを赤く染めている。煙突から立ち昇る夕餉の煙が、茜色の空に溶けていく。どこかの家から子供の笑い声が聞こえた。日常の音だ。リオンの日常とは、どこか遠いところにある音だった。
この通知がヴェルクの手に届いたとき、何が起きるか。
考えるまでもなかった。A+からAへの降格。ヴェルクの誇りを最も深く傷つける結果。あの男は自分のランクを自分の価値そのものだと信じている。そしてパーティの中で最も「切りやすい」人間が誰か——それも、考えるまでもない。
リオンは通知書を畳み、荷物の底にしまった。
明日、ヴェルクがこの通知を読む。そのとき自分に何が告げられるのか、リオンにはもうわかっていた。わかっていて、逃げる気もなかった。
——逃げたところで、何も変わらない。Dランクの支援術師に、行く場所などないのだから。
窓の外で、鐘が鳴った。王都の日没を告げる、低い鐘の音。石壁に反響し、余韻が長く尾を引いた。リオンは灯りも点けず、暗くなっていく部屋の中で目を閉じた。右手の甲の紋様が、闇の中でほんの一瞬、淡く光った気がした。気のせいだろう。いつもそうだ。気のせいだと、自分に言い聞かせる。
鐘の余韻が消え、部屋は完全な静寂に沈んだ。