第3話
第3話
夢を見ていた。
いや、夢と呼ぶには、あまりにも生々しかった。暗闇の中を落下しているのか、浮遊しているのか、それすら分からない。ただ、身体の輪郭が溶けていく感覚だけがあった。指先が土になり、血管が水脈に変わり、骨が岩盤と融け合っていく。恐怖はなかった。むしろ──懐かしかった。母の腕の中にいた頃の、あの絶対的な安心感に似た何かが、全身を包んでいた。
大地が、呼吸している。
規則的な律動が身体の奥底を揺らしていた。心臓の鼓動よりも深く、潮の満ち引きよりも緩やかな、途方もなく巨大な生命の脈拍。その波に揺られながら、私の意識は少しずつ浮上していった。
瞼の裏に光が滲んだ。
「──お嬢様!」
ランベールの声が、水底から聞こえるように遠い。次の瞬間、現実が奔流のように戻ってきた。背中に硬い感触──床に倒れている。こめかみが脈打つように痛み、口の中に鉄の味がした。唇を噛んだらしい。
「お嬢様、お気を確かに。お嬢様──」
薄く目を開けると、ランベールの蒼白な顔が視界を覆っていた。その背後に、書斎の天井画──天文図の星々が、薄闇の中でかすかに光を帯びて見えた。いや、光を帯びているのではない。天井の向こうにある夜空の星の位置が、あの天文図と正確に重なっていることが「分かる」のだ。
どれくらい気を失っていたのか。窓の外は既に暗い。
「……ランベール。私は、どのくらい」
「丸一日でございます。お嬢様が倒れてから──」
丸一日。私は書斎の床で、一昼夜を過ごしたことになる。起き上がろうとして、両腕に力を込めた。身体は鉛のように重かったが、不思議と痛みはない。むしろ、五感が研ぎ澄まされたような透明な感覚がある。
その時、気づいた。
足の裏から、何かが伝わってくる。
石床を通して、その下の土壌を通して、さらにその下の岩盤を通して──大地の全てが、微細な振動となって私の身体に流れ込んできていた。昨日のような激流ではない。穏やかな、しかし絶え間ない囁き。
書斎の直下、地表から三尺の深さに粘土層がある。その下に砂礫層が続き、五間ほど掘ると帯水層に届く。東に向かって地下水が流れ、集落の井戸へと繋がっている──いや、繋がっていた。水脈が途中で断ち切られている。岩盤の亀裂が、三年前の戦で崩落した防壁の振動で生じたものだと、足の裏が教えてくれた。
「……聞こえる」
「お嬢様?」
「土が、話している」
ランベールの顔に困惑が走った。当然だ。私自身、自分の言葉が信じられなかった。だが事実として、大地の構造が手に取るように分かる。この丘の地盤が周囲よりも安定しているのは、深層に硬い花崗岩の基盤があるからだ。母がこの場所に居館を建てた理由が、今なら分かる。ここは地脈の結節点──大地の力が集まり、交差する場所なのだ。
机の上の魔導書は、開かれたままだった。ゆっくりと身を起こし、椅子に手をかけて立ち上がる。膝が少し震えたが、足の裏から伝わる大地の脈動が、不思議と身体を支えてくれるように感じた。
書物の頁に目を落とす。母の筆跡が、燐光を帯びた文字で綴られていた。
『地脈術──大地の記憶を読み、大地の力を導く古い術。ヴァルディアの血統に宿る、大地との対話の技法』
頁を繰った。普通の書物とは違う。文字を目で追うのではなく、指先で頁に触れるたびに、内容が直接頭の中に流れ込んでくる。母はこの書物自体に術を編み込んでいたのだ。読む者がヴァルディアの血を持つ場合にのみ開示される、暗号化された知識体系。
『地脈とは、大地を巡る魔力の流路である。血管が血を運ぶように、地脈は魔力を運ぶ。地脈術の使い手は、この流れを感知し、導き、時に組み替えることができる』
母の文章は簡潔で、感情を排した学術的な筆致だった。けれど、所々に挟まれた覚書には、別の声が滲んでいた。
『この術は、破壊には向かない。大地を裂くことはできても、裂いた大地は術者自身を蝕む。地脈術の本質は育成と再生にある──壊すのではなく、繋ぎ直すこと。断たれた水脈を修復し、痩せた土壌に力を巡らせ、崩れた地盤を組み替えること。ヴァルディアの祖はそうやって、荒野に最初の畑を拓いた』
指先が頁の上で止まった。次の段落は、母の筆跡が少し乱れていた。急いで書いたのだろう。
『セラフィーナ。あなたがこれを読んでいるなら、私はもういないのでしょう。伝えたいことは山ほどあるけれど、時間がない。一つだけ──この術を、人を害するために使わないで。あなたの足元にある全てが、あなたの力であると同時に、あなたの責任です。大地は覚えている。注がれた血も、流された涙も、全て。カルデアの地脈は今、深く傷ついています。けれど死んではいない。どうか──』
文章はそこで途切れていた。
最後の文字の端が、紙の上で擦れたように滲んでいる。書きかけの言葉を残して、母は筆を置かざるを得なかったのだ。
涙は出なかった。代わりに、胸の奥に硬い結晶のようなものが生まれるのを感じた。悲しみでも怒りでもない、もっと透明で、もっと強い何か。
「ランベール」
「はい、お嬢様」
「この館の地下に、水脈が通っています。東に向かって流れ、集落の共同井戸に繋がっている──いえ、繋がっていたはず。三年前の戦のとき、防壁が崩落した衝撃で岩盤に亀裂が入り、水脈が途中で断たれた。今、井戸は涸れかけているのではありませんか」
老執事の目が大きく見開かれた。
「……仰る通りでございます。二年ほど前から水量が激減し、今は底に僅かに溜まる分を汲み上げるのがやっと。しかしお嬢様、なぜそれを──」
「聞こえるの。この土地の声が」
私は机の上の魔導書を丁寧に閉じた。表紙の紋様が、触れた指に応えるように一度だけ淡く光って消えた。
「母上が遺してくれたもの。地脈術──大地の力を読み取り、導く術。ヴァルディアの血に受け継がれるもの。母上がカルデアを手放さなかった理由が、ようやく分かりました」
窓辺に歩み寄り、夜の闇に沈むカルデアの集落を見下ろした。数えるほどの灯りが、小さく頼りなく揺れている。あの灯りの一つ一つに、飢えた家族がいる。怯えながら夜を越す子供たちがいる。
足の裏から流れ込む情報を、意識的に広げてみた。書斎から丘の斜面へ、集落の地面へ、その下の土壌へ。痩せている。ひどく痩せている。だが母の書が記した通り、死んではいない。地脈は断ち切られたのではなく、滞っている。水路に泥が詰まるように、魔力の流路が塞がれ、大地は仮死状態に陥っているだけだ。繋ぎ直すことができれば──この土地はまだ、生き返る。
けれど同時に、別のものも感知していた。
北。集落から五里ほど離れた森の方角。地脈の流れが異常に乱れている地帯がある。まるで何かが地脈そのものを喰い荒らしているかのような、不規則で暴力的な脈動。その震源から放たれる魔力の残滓が、じわじわと南へ──こちらへ向かって染み出してきている。
「ランベール。北の森の魔獣は、いつ頃から増え始めましたか」
「三年前の撤退直後からですが……この半年で急激に。以前は森の奥に留まっていた種も、最近は集落の近くまで出没するようになりました。先月には、夜中に防壁の崩落箇所から狼型の魔獣が三頭侵入し、家畜小屋を襲いました」
「最後に大型の魔獣が確認されたのは」
「十日ほど前でございます。森の入口で、角猪の二回りは大きな──名も知らぬ獣が目撃されたと。狩人たちは恐れて、それ以来森には近づいておりません」
私は頷いた。足の裏が告げる情報と、ランベールの証言が符合している。北の森の地脈異常が魔獣を引き寄せ、あるいは変質させている。そして異常の規模は拡大し続けている。このまま放置すれば、遠からず魔獣の群れは森を溢れ出し、この集落を呑み込むだろう。
防壁は半壊。戦力は皆無に等しい。食料は一月分。水は涸れかけている。
数字だけを見れば、撤退が正解だ。あの宮廷で、もし他人の領地について同じ報告を受けたなら、私は躊躇なく「放棄」の二文字を進言していただろう。
だが──足の裏から伝わる大地の鼓動が、その判断を押し留めていた。
この土地は死んでいない。眠っているだけだ。そして今、私にはその眠りを覚ます術がある。
「ランベール。明朝、領民を集めてください」
「……何をなさるおつもりですか」
「まず、井戸を直します」
老執事が絶句した。無理もない。枯れかけた井戸をどう直すのか、説明する言葉を私はまだ持っていなかった。地脈術の理論は母の書から流れ込んできたが、実践は一度もしていない。果たして本当に使えるのか、使えたとして制御できるのか、確証はなかった。
それでも。
窓の外、北の闇から、低い遠吠えが響いてきた。一声ではない。幾つもの咆哮が重なり合い、夜の空気を引き裂いている。昨夜よりも近い。昨夜よりも多い。足の裏を通して、森の方角の地脈が激しく脈動しているのが感じ取れた。何かが蠢いている。何かが膨れ上がっている。
群れが、動こうとしている。
「……急がなければ」
呟きは、私自身への督促だった。大地の声が、刻一刻と切迫していく。