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無紋の剣が拓く果て

第1話 第1話

第1話

第1話

夜明けはまだ遠かった。

灰の辺境——大陸の東端に広がる痩せた大地は、朝露すら灰色に染まる。カイは納屋の戸を静かに押し開け、冷えた空気を肺に満たした。冬の名残を引きずるような冷気が気管を刺し、肺の底でじわりと広がる。吐く息が白く漂い、まだ眠りに沈む村の輪郭をかすめて消える。

手にした木剣は、亡き父が遺したものだ。柄に巻かれた革紐はすり減り、刃に見立てた面は無数の打痕で凹んでいる。だがカイにとって、これは世界でただ一つ、自分の手に馴染む道具だった。

村外れの広場に立ち、構えをとる。足を開き、腰を落とし、剣先を正面に据える。息を止め、振り下ろす。風を切る音だけが、灰色の朝に響いた。

一振り、また一振り。

同じ動作を、同じ場所で、もう三年繰り返している。守備隊に入ってからは雑務に追われる日々だったが、この朝の素振りだけは一日も欠かさなかった。才能のない人間に許された唯一の抵抗が、これだった。

百を数えたあたりで、東の稜線がわずかに白んだ。カイは額の汗を袖で拭い、木剣を肩に担いで詰所へ向かった。今日は紋章発現式がある。同期の五人が、ようやく魔力適性の判定を受ける日だ。

「おう、カイ。今朝も早いな」

詰所の前で、同期のセドが欠伸をしながら手を上げた。赤毛の大柄な青年で、守備隊の中では一番槍の腕が立つ。

「お前、緊張しないのか。今日で俺たちの適性が決まるんだぞ」

「緊張はしてる」

カイは短く答えた。嘘ではなかった。だが、セドが感じている緊張とは種類が違う。セドは自分の紋章がどの属性になるかを楽しみにしている。カイは、紋章がそもそも現れるのかどうかを怖れていた。

灰の辺境には古くからの言い伝えがある。この土地に生まれた者は魔力が薄い。大陸の中央や西方に比べ、紋章の発現率は半分以下。それでも大半の者には何かしらの紋が刻まれる。刻まれない者は——無紋と呼ばれ、正規兵にはなれない。

紋章発現式は、村の中央にある祠で行われた。

石造りの祠は灰の辺境で最も古い建造物で、壁面には風化した浮彫りが残っている。かつてこの地を治めた領主の紋章だという話だが、今では誰もその意味を読み解けない。

祠の内部は薄暗く、天井近くに穿たれた小さな採光窓から差し込む朝の光が、石畳の上に四角い白を落としていた。空気は冷たく、土と苔と、かすかに香の焼け残りが混じった匂いがする。壁際に並んだ蝋燭の炎が、五人の若者の影を石壁に揺らしていた。

村長と守備隊長が立ち会い、同期の五人が順に祭壇の前へ進む。祭壇に両手を置くと、適性のある者の肌には淡い光とともに紋章が浮かび上がる。火、水、土、風——属性は様々だが、光ること自体が才能の証だった。

セドが祭壇に手を置くと、右の前腕に赤い紋章が燃え上がるように浮かんだ。火の上位紋。周囲からどよめきが起こる。祠の蝋燭の炎が一斉に揺れ、セドの腕に刻まれた紋章と呼応するように赤く膨らんだ。石壁に映る影までもが赤い光を帯び、祠全体がほんの一瞬、炉の中のように熱を持った。

「やったぞ、カイ! 火だ、火の紋だ!」

セドが興奮して叫ぶ。カイは頷き、小さく笑った。その笑みが強張っていることに、セドは気づかなかった。

二人目、三人目と紋章が刻まれていく。四人目は光が弱かったが、それでも風の下位紋が薄く浮かんだ。残りはカイだけだった。

祭壇の石は冷たかった。

両手を置き、目を閉じる。胸の奥に意識を沈める。何かが応えてくれることを、三年間の素振りが無駄ではなかったことを、祈るように待った。

掌の下で石の粒子のざらつきを感じる。指先に意識を集め、もっと深く、もっと奥へと手を押し付けた。背後で誰かが息を呑む気配がした。時間が引き伸ばされたように、蝋燭の炎が揺れる微かな音まで聞こえた。

何も起こらなかった。

十数えても、二十数えても、掌の下の石は冷たいままで、肌のどこにも光は灯らない。祠の中が静まり返る。セドが何か言いかけて、口を閉じた。

「——無紋」

守備隊長の声が、祠の石壁に反響した。

その二文字が耳に届いた瞬間、胸の内側で何かが音もなく閉じた。予感はあった。覚悟もしていたつもりだった。それでも、宣告として声に出されると、空気の温度が一段下がったように感じた。視界の隅で、先ほどセドの腕に灯った赤い紋がまだ薄く脈打っているのが見えた。あの光は自分には永遠に届かないのだと、身体の芯で理解した。

「カイ。残念だが、正規兵への昇格は見送りとなる。引き続き、補助任務に就け」

それだけだった。同情も慰めもなく、ただ事実として告げられた。カイは祭壇から手を離し、一礼して祠を出た。背中にセドの視線を感じたが、振り返らなかった。

振り返れば、何かが折れる気がした。

詰所に戻る道すがら、カイは自分の両手を見つめた。剣胼胝だけが厚く盛り上がった、何の紋もない手のひら。三年間、毎朝剣を振り続けた手だ。その手が今、ひどく空っぽに見えた。

午後の見回りをこなし、夕暮れ近くになって、カイは村外れの鍛冶場に足を向けた。

老鍛冶師のゲルドは、村で唯一カイの素振りを笑わない人間だった。かつてカイの父とともに辺境軍に属していたらしいが、詳しいことは語らない。片足を引きずり、火花に焼かれた手で今も鉄を打つ。

鍛冶場の戸をくぐると、炉の熱気が頬を打った。外の灰色の冷気とは別世界のように、ここだけが赤い。炭の爆ぜる音、鉄が焼ける甘い匂い、壁に掛けられた工具がかちゃりと揺れる微かな金属音。カイの足は自然にいつもの隅へ向かった。

「聞いたぞ」

炉の火を見つめたまま、ゲルドが言った。カイは黙って鍛冶場の隅に腰を下ろした。背中を石壁に預けると、炉の熱が正面から、壁の冷たさが背中から同時に沁みてきて、その境目に自分の身体があることだけが確かだった。

「無紋だった」

「ああ」

ゲルドは鉄を打つ手を止めなかった。槌が鉄を叩く音が、規則正しく鍛冶場に響く。カイはその音をしばらく聞いていた。父が生きていた頃も、この鍛冶場にはよく来た。父とゲルドが酒を酌み交わし、カイは隅で槌の音を聴きながら眠りに落ちた。あの頃と同じ音だ。同じ火の匂いがする。

「爺さん」

「なんだ」

「俺は——剣を振る意味が、あるのかな」

言葉にした途端、喉の奥が詰まった。紋章がなければ魔力を纏えない。魔力を纏えなければ、魔物の外殻を斬ることはできない。辺境の守備隊ですら、無紋の兵は荷運びと見張りにしか使われない。剣を握る理由が、今日、正式に奪われたのだ。

ゲルドは槌を置いた。炉の火が老人の深い皺を照らす。

「カイ。お前の剣は、まだ何も斬っていない」

「……分かってる。だから——」

「違う」

ゲルドの声は低く、だが鉄を打つときのように確かだった。

「お前の剣は、まだ何も斬っていない。それはな、これから先、何を斬るかをお前自身が決められるということだ」

カイは顔を上げた。ゲルドは炉の火を見つめている。その横顔に、父と同じ頑固さを見た気がした。

「紋のある奴は、紋に従って剣を振る。火の紋なら火の剣、風の紋なら風の剣。だが無紋の剣は、何にも縛られん。今はそれが弱さに見えるだろう。だがな——」

ゲルドはそこで言葉を切り、鍛冶場の奥に目をやった。壁にかけられた古い剣が一振り、炉の明かりを受けて鈍く光っている。カイはその剣を見たことがなかった。柄は黒ずんだ革で巻かれ、鍔には読めない文字が刻まれている。刃は錆びてはいないが、長い年月を経たことを示す鈍い銀色をしていた。

「時が来れば分かる。今日のところは帰って寝ろ。明日も朝は来る」

カイは立ち上がり、鍛冶場を出た。外気が汗ばんだ肌を冷やし、炉の熱がまだ頬に残っている。西の空は茜色に染まりかけていたが、その下端に、灰の辺境では見たことのない色が一瞬だけ混じった。

赤黒い光が、地平線の際をちらりと舐めた。

カイは目を細めた。見間違いかと思い、もう一度西の空を見上げる。茜色の夕焼けが広がるばかりで、先ほどの光はもうどこにもない。

風が変わった気がした。灰の辺境に三年間吹き続けた乾いた風とは違う、重く湿った、どこか錆びた鉄の匂いを含んだ風。

カイは知らず、腰の木剣の柄を握りしめていた。

明日も朝は来る。ゲルドはそう言った。だがこの夕暮れの空の端に走った赤黒い閃きが、カイの胸に小さな棘のように刺さって抜けなかった。

——まだ何も斬っていない剣を、握ったまま。

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