第3話
第3話
地が揺れたのは、夜明け前だった。
カイは眠れぬまま自室の寝台に横たわっていた。北の空のあの赤黒い光が瞼の裏に焼きついて離れず、目を閉じるたびに壁の警告文が脳裏を走った。だから揺れが来た時、体は即座に反応した。寝台を転がり降り、壁に手をつく。土壁から細かな砂が降り、梁が軋んだ。砂粒が唇に触れ、乾いた土の味が口の中に広がった。歯の隙間にまで砂が入り込み、噛み締めるたびにじゃりと鳴った。闇の中で、棚に置いた水差しが縁を滑り、床の石に砕ける音がやけに大きく響いた。水が足元に広がる冷たさを素足で感じながら、カイは壁に背をつけて身を低くした。揺れは長くはなかった。五つ数えるほどで収まり、あとには静寂だけが残った。
だが静寂は長く続かなかった。
集落のあちこちで戸が開く音がし、犬が狂ったように吠え始めた。一匹ではない。集落中の犬が、申し合わせたように北を向いて吠えている。カイは上着を羽織り、外へ出た。東の空はまだ白み始めたばかりで、山肌は灰青色の薄闇に沈んでいた。冷え切った朝の空気が肺を刺し、吐く息が白く短く散った。
北を見上げた瞬間、息が止まった。
ガルム山脈の最奥、封印山と呼ばれる峰の頂から、黒い柱が天を突いていた。煙ではない。煙であればこの距離では霞んで見えるはずだ。だがその柱は、夜明け前の薄闇の中にあってなお鮮烈な黒さで、空を裂くように真っ直ぐ立ち昇っていた。柱の周囲では昨夜の赤黒い光がいまだ明滅を繰り返し、山の稜線を不吉な色に縁取っている。
広場に村人たちが集まり始めた。寝間着のまま飛び出してきた者、子どもを抱えた母親、腰の長刀に手をかけた狩人たち。誰もが北の空を見上げ、言葉を失っていた。昨夜の祭りの名残——散らばった杯や供物の残り——が足元に転がっているのが、妙に生々しかった。
「——封印山だ」
最初に声を出したのはバルドだった。狩人頭の声にはいつもの乾いた余裕がなく、喉の奥に張りついたような響きがあった。
「あの山が動くのを、わしは見たことがない」
人垣を割って、ダグルが現れた。杖を突く音が広場の石に硬く響く。白髪の長老は北を見上げ、立ち尽くした。その顔から血の気が引いていくのが、薄明かりの中でも分かった。杖を握る手が震えている。カイは昨夜、この老人が穏やかに杯を傾けていた姿を思い出した。あの余裕は、もうどこにもなかった。
「厄災の、兆しだ」
ダグルの声は掠れていた。
「古い言い伝えがある。封印山の頂が黒く染まる時、大地に封じられしものが目覚める。魔王復活——千年前の厄災が、繰り返されるのだと」
広場がざわめいた。魔王という言葉を、この集落の者が口にするのは稀だ。寝物語に語られることはあっても、現実の脅威として語られたことは——少なくともカイが生まれてからは——一度もなかった。
「長老、それは古い御伽噺では」と若い狩人の一人が言いかけた。
ダグルが杖の石突きを地面に打ちつけた。硬い音が広場に響き、ざわめきが止んだ。
「御伽噺であれば、あの黒い柱は何だ」
誰も答えなかった。
バルドがダグルの傍に歩み寄り、低い声で何事かを耳打ちした。ダグルは頷き、広場の村人たちに向き直った。
「各戸は水と食糧を確認しろ。狩人衆は集落の外縁を巡回。山に入るな。何が起きているか分かるまで、誰も集落を出るな」
村人たちが散り始めた。動き出せば人は少し落ち着く。指示があれば、体は従う。だが目の奥に張りついた恐怖は、誰の顔からも消えていなかった。
カイは広場の隅に立ったまま、あの黒い柱を見つめていた。胸の奥で、昨日から断片のまま散らばっていた言葉が、初めて一枚の図を結ぼうとしていた。
崖の石碑——封ぜし地の門、鍵なくば開かず。
祈祷場の壁——地の底より這い出づるもの、封の綻びを待つ。この地に兆しあらば、山は鳴り、空は焼け、獣は狂う。
封ぜし地とは、封印山のことだ。あの山の地下に封じられたものがある。そして封が綻びた。兆しは三つ——山が鳴る。空が焼ける。獣が狂う。地の揺れ。北の空の赤黒い光。犬たちの異常な吠え声。三つとも、今朝この目で見た。
つまり、石碑と壁の警告は正しかった。千年の時を越えて刻まれた文字は、まさにこの日のために在った。そしてカイだけがそれを読めた。カイだけが、知っていた。
——沈黙は加担なり。
だが告げたのだ。昨夜、ダグルに。バルドに。そして取り合ってもらえなかった。
カイはダグルの元へ歩いた。長老は杖に両手を重ね、黒い柱を凝視していた。近づくと、老人の唇が微かに動いているのが見えた。祈りか、呪詛か。
「ダグル様」
「……何だ」
「昨夜お伝えした、祈祷場の壁の文字のことです」
ダグルの目がカイに向いた。昨夜とは違う目だった。拒むのではなく、縋るような色が混じっていた。
「壁にはこう刻まれていました。『地の底より這い出づるもの、封の綻びを待つ。この地に兆しあらば、山は鳴り、空は焼け、獣は狂う』。昨夜の空の色、今朝の揺れ、犬の異変——三つの兆しが全て出ています」
ダグルは何も言わなかった。カイは続けた。
「崖の石碑にも関連する文言があります。『封ぜし地の門、鍵なくば開かず。渡る者は還らず。されど還さねば、滅びは海を越ゆ』。封印は崩壊しつつある。壁の文字は、それを読める者に告げるために刻まれたものです」
長い沈黙があった。黒い柱は衰える気配がなく、空を侵し続けている。
「……お前の母も、同じことを言うた」
ダグルの声は、風に折れる枯れ枝のように細かった。
「二十年前だ。あの女もその文字を読み、封印が揺らいでいると訴えた。わしらは聞かなかった。あの時はまだ兆しが一つも出ておらなんだからな。だが今——」
ダグルの言葉が途切れた。老人の視線がカイの胸元——護符の鎖が覗く襟口——に一瞬だけ落ち、すぐに逸らされた。その仕草に、カイは気づいた。ダグルは護符のことも知っている。母のことを、自分が思っていたよりずっと多く知っている。問いが喉まで込み上げた。母はなぜ消えた。あなたは何を見た。何を黙ってきた。だがダグルの顔に刻まれた深い皺と、杖にすがる指の白さが、その問いを押し返した。この老人もまた、二十年のあいだ何かを背負い続けてきたのだ。
ダグルが言葉を切った。広場の東から、馬蹄の音が近づいていた。
村の門を潜って現れたのは、見知らぬ騎馬だった。大陸連合の紋章を胸につけた伝令兵——だが、その姿は伝令の威厳とはほど遠かった。鎧は泥にまみれ、馬は泡を吹いて荒い息をついている。伝令兵は鞍から崩れ落ちるように降り、膝をついた。
「ガルム山脈東麓の集落——全て、連絡が途絶えた。中央からの伝令網は遮断されている。辺境への増援は——来ない」
それだけ告げると、伝令兵は意識を失った。バルドが駆け寄り、抱え起こす。女たちが水を持ってきた。だが広場に広がったのは、介抱の慌ただしさではなく、深い沈黙だった。
辺境は孤立した。中央からの情報も、援軍も、もう届かない。
カイは北の空を見た。黒い柱はなおも聳え、空を二つに断っている。封印の崩壊は始まったばかりだ。石碑と壁の文字が正しければ、これはまだ序章に過ぎない。滅びは海を越える。ここだけの話ではない。
胸の護符に手を当てた。冷たい銀。だが昨日の石碑の前で感じた、あの微かな熱の記憶が指先に残っている。母もこの護符を持ち、同じ文字を読み、同じ警告を告げた。そして——どうなったのか。ダグルは語りかけて、途中で止めた。二十年前、母は何を見て、何を知り、どこへ消えたのか。問いたかった。だが今ではない。今はまだ、問うべき時ではなかった。
風向きが変わった。北から吹き降ろす風に、鉱物の焦げた匂いが混じる。硫黄とも鉄錆とも違う、嗅いだことのない刺すような臭気だった。鼻腔の奥が焼けるように痛み、喉の粘膜が反射的に収縮した。犬たちがまた一斉に吠え始めた。だが今度は吠え声ではなく、怯えた悲鳴に近い鳴き声だった。尾を巻き、腹を地面に擦りつけている。
そして——山の稜線の向こうから、それは響いた。
獣の咆哮。だが集落の誰もが知る猪や熊の声ではない。大気そのものを震わせるような、低く、長く、地の底から這い上がるような唸り。腹の奥に直接触れてくる振動。聞いたことのない声だった。この山脈に生きるどの獣のものでもない。
広場の村人たちが、一様に北を向いて凍りついた。子どもの泣き声だけが、静寂の中に細く響いていた。