第2話
第2話
守護祭の朝は、山鳩の声で明けた。
カイは夜明け前から祈祷場にいた。石床を掃き、燭台の蝋を取り替え、奉納用の薪を祭壇の左右に積み上げる。祈祷場はハグレの集落で最も古い建物だった。山肌を刳り貫いた半洞窟の構造で、入口だけが外気に開かれている。奥へ進むほど天井が低くなり、壁面は人の手で平らに削られた岩肌がむき出しになっていた。松明の煤が幾層にも積もり、岩の本来の色が分からないほど黒ずんでいる。空気は冷たく、集落の喧噪がここまでは届かない。
薪を積み終えると、次は篝火の支度だった。広場の中央に組む篝火は、守護祭の要だ。山の神に煙を届けるため、できる限り高く、長く燃やさねばならない。カイは薪を背負子に載せ、祈祷場と広場を三度往復した。三度目に広場に着いた時には息が上がり、額に汗が滲んでいた。背負子の紐が肩に食い込んだ跡が、上着の上からでも赤く残っている。
「おう、カイ。そこに置いてくれ」
篝火を組んでいたのはバルドだった。丸太を片手で持ち上げ、もう片方の手で位置を指し示す。カイが薪を下ろすと、バルドは一瞥もせずに組み上げ作業に戻った。狩人頭の手つきは淀みなく、一本ずつ噛み合わせるように積んでいく。風が吹いても崩れぬ組み方だ。こういう仕事にも技術がある。剣や弓と同じく、体で覚えた者だけが持つ確かさがあった。
広場には祭りの準備をする村人たちが集まり始めていた。女たちは供物の山羊乳酪や乾果を盆に並べ、男たちは門柱に山神の幟を結びつけている。子どもたちが走り回り、犬が吠え、普段は静かな集落が一年で最もざわめく朝だった。
カイはその喧噪の縁にいた。薪を運び、水を汲み、壊れた腰掛けの脚を木釘で打ち直す。誰かに指示されるまでもなく、裏方の仕事は体が覚えていた。去年もその前もそうだったからだ。
昼を過ぎると、祭りは本番を迎えた。
広場の中央に円陣が組まれ、奉納の儀が始まる。最初は長老による祝詞、次に子どもたちの歌、そして——剣術奉納。
トールが円陣の中に進み出た時、広場の空気が変わった。
背丈はカイより拳ひとつ分高い。肩幅は倍近い。山で鍛えた体は鎧を着けずとも十分に威圧的で、腰に佩いた長剣の柄を握ると、それだけで周囲の視線が集まった。陽光がトールの金褐色の髪を照らし、汗の粒が首筋で光る。
型が始まった。
一の型、正中斬り。長剣が頭上から垂直に振り下ろされ、風を切る音が広場に響いた。鋭く、重い。刃が空を裂く瞬間、見えない線が空間に刻まれるようだった。二の型、横薙ぎ。腰の回転で加速した斬撃が水平に弧を描く。三の型、突き。踏み込みの音が石のように硬い赤土に響き、剣先が見えぬ敵の胸を貫いた。
四の型に入ると、広場にどよめきが起きた。去年にはなかった型だ。長剣を逆手に持ち替え、低い姿勢から跳ね上げるように斬り上げる。跳躍を伴う五の型では、トールの体が一瞬宙に浮き、着地と同時に剣が地面すれすれを薙いだ。土埃が扇状に舞い上がり、陽の光に金色の幕のように輝く。
六の型が終わった時、拍手が広場を満たした。口笛を吹く者がいた。バルドが腕を組んだまま深く頷いた。隣にいた若い狩人が「あれはもう一人前どころじゃない」と唸る。トールは剣を鞘に収め、無表情のまま一礼した。だがその目の奥には、自分の腕が認められたことへの静かな充足があった。
カイは広場の隅の腰掛けに座り、拍手を送った。掌を合わせる音は、喝采の中に溶けて消えた。
祭りは夕刻へと流れていった。供物が下げられ、酒が振る舞われ、篝火に火が入った。炎は薪を呑み込み、赤い柱となって夜空に立ち上る。火の粉が風に乗って舞い上がり、星に混じって消えた。酒が回った男たちが肩を組んで歌い、女たちが笑い、子どもたちが篝火の周りを駆け回る。
カイは残飯の片づけを終え、人の波から外れた。酒は勧められなかった。正確には、誰もカイに杯を差し出すことを思いつかなかった。存在を忘れられているのではない。ただ、祭りの輪の中にカイの居場所が最初からないのだ。薪を運び、水を汲み、片づける。それが終われば用は済む。
足が祈祷場へ向かったのは、無意識だった。
祈祷場は無人だった。祭りの喧噪は入口の手前で途切れ、中は静寂だけが満ちている。松明は二本だけが残り、壁面に揺らめく影を落としていた。カイは奥へ進んだ。祭壇を過ぎ、さらに奥——普段は燭台の明かりも届かない最奥の壁。
ここの壁面にも文字が刻まれていることは、以前から知っていた。だが煤に覆われ、暗がりの中では読み取れなかったのだ。今日は祭りのために燭台の数を増やしていた。その光が、わずかに奥まで届いている。
カイは壁に近づき、袖で煤を拭った。黒い粉が布に移り、岩肌の灰色が露わになる。そこに——古代文字が刻まれていた。
一行目は読めた。定型の祈祷文だ。山の神への加護の祈り、よくある文言。二行目も同様。三行目——。
カイの指が止まった。
——地の底より這い出づるもの、封の綻びを待つ。この地に兆しあらば、山は鳴り、空は焼け、獣は狂う。
警告だった。
祈祷文の中に、それは異物のように埋め込まれていた。祈りの言葉に紛れ、注意して読まなければ見過ごすように。いや、古代文字を読める者にしか、そもそも気づけないように。
カイはさらに袖で煤を擦った。四行目が現れる。
——兆しを見たる者、告げよ。告げて信じられずとも、告げよ。沈黙は加担なり。
心臓が早くなった。昨日の石碑の文言が脳裏に蘇る。封ぜし地。渡る者は還らず。滅び。そして今、この壁は「兆し」について語っている。関連があるのか。あるとすれば、何の兆しだ。
カイは祈祷場を出て、広場に戻った。篝火はまだ燃えていた。酒宴は続き、笑い声が夜気に響いている。カイは長老を探した。村の祭事を司る最長老、ダグル。白髪を後ろに束ね、杖に体重を預けて座っていた。
「ダグル様。祈祷場の奥壁に——」
「ん? ああ、カイか。祭りを楽しんでおるか」
「壁に文字が刻まれています。古代文字です。それが警告で——」
ダグルの目が一瞬だけ細くなった。だがすぐに元の穏やかな表情に戻り、杯を傾けた。
「古代文字か。お前にしか読めん文字のことだろう。祭りの夜に持ち出す話ではないな」
「ですが、これは——」
「カイ」
ダグルの声は柔らかかったが、それ以上の言葉を許さぬ重さがあった。
「わしらはこの山で何代も暮らしてきた。文字が何を言うておろうと、山の神はわしらを守ってくださる。それを祝うのが今日の祭りだ。お前も篝火に当たって、少し休め」
取り合ってもらえなかった。
カイは他の大人にも声をかけた。狩人頭のバルドには「祭りの夜に怪談か」と笑われ、トールの父には「また石板の話か」と手を振られた。誰もがカイの言葉を、文字好きの少年の思い込みとしか受け取らなかった。
祈祷場に戻り、もう一度壁の前に立った。文字は変わらずそこにある。千年か、あるいはそれ以上の歳月を経て、警告は壁に刻まれ続けていた。だが読める者がいなければ、文字は模様と変わらない。そして読める者がいても、信じる者がいなければ——。
沈黙は加担なり。
カイは壁に背を預け、座り込んだ。松明の炎が小さくなり、影が濃くなっていく。広場からの笑い声が、岩の壁を通してくぐもった響きになって届く。
どれほどそうしていたか分からない。
広場の喧噪が途絶えたのは、夜が深く更けてからだった。篝火が燃え尽き、酔った村人たちが三々五々と家路につく気配がする。カイは祈祷場を出た。
広場には篝火の残り火だけがあった。赤い熾が地面に散らばり、最後の熱を夜気に放っている。空には星が出ていた。山の上の空気は澄み、星の光は平地より鋭い。
ふと、北を見た。
理由はなかった。首が動いたのは、風の向きが変わったからかもしれない。山の北側から吹き降ろしてくる風の匂いが、いつもと違った。焦げた匂いではない。もっと奥深い、鉱物が熱せられたような、胸の底が重くなる匂い。
北の空が、赤黒かった。
星が見えない。山の稜線の向こう、ガルム山脈の最奥部にあたる方角の空だけが、夜の闇とも夕焼けとも異なる不吉な色に染まっている。赤と黒が混じり合い、脈打つように明滅していた。雷光ではない。山火事でもない。あの色は——。
カイの手が無意識に胸元へ伸びた。護符に触れる。冷たい銀。昨日のような熱はない。だが指先が微かに震えていた。寒さのせいではなかった。
——地の底より這い出づるもの、封の綻びを待つ。この地に兆しあらば、山は鳴り、空は焼け、獣は狂う。
壁の文字が、頭の中で叫んでいた。
空は、焼けている。