第1話
第1話
石板の文字が読めたところで、腹は膨れぬ。
カイはその言葉を、今日だけで三度聞いた。一度目は朝の井戸端で隣家のおかみから。二度目は薬草を納めた村長の家の下男から。三度目は——たった今、広場の隅で石板を覗き込んでいた自分を見咎めた、狩人頭のバルドからだ。
「また読んどるのか、その落書きを」
バルドの声には嘲りすら薄かった。呆れ果てた者だけが持つ、乾いた響き。カイは黙って石板から手を離し、立ち上がった。膝についた砂を払う。山岳集落ハグレの広場は石畳ではなく踏み固めた赤土で、乾いた季節には風が吹くたび細かな塵が舞い上がる。赤土の粉は衣の繊維に入り込み、何度叩いても完全には落ちない。この集落に暮らす者の服が一様にくすんだ赤茶を帯びているのは、染めたからではなく、この土地そのものに染められたからだ。
「明日は守護祭だ。祈祷場の掃除はもう済んだのか」
「済みました」
「薪は」
「積んであります」
「なら帰れ。石板を撫でても銅貨は降ってこん」
バルドは背を向けた。その広い背中には革の胴着に覆われた筋肉があり、腰には猪を一撃で仕留める長刀が下がっている。歩くたびに長刀の鞘が腿を打ち、乾いた革の音が広場に響いた。この集落で生きるとは、そういうことだ。獣を狩り、薪を割り、石壁を積んで風を防ぐ。腕の力と足腰の頑健さがすべてであり、文字を読む才など何の足しにもならない。
カイは十六になる。同い年の少年たちはとうに一人前の狩人として山に入り、剣術の鍛錬では模擬戦の組み合わせにすら入れてもらえなくなった。最後に組んだのは半年前、トールとの稽古だ。三合で叩きのめされ、木剣が手から吹き飛んだ。受け身も取れず、背中から地面に倒れ、しばらく息ができなかった。トールは「もう少し腰を落とせ」と言ったが、その目には同情があった。同情だけは、嘲笑より堪える。
広場を離れ、集落の外れへ向かう。午後の陽が山肌を赤銅色に染め始めていた。ハグレは大陸の北東端、ガルム山脈の中腹に張りつくようにして在る集落だ。家々は山の斜面に段をなして並び、屋根は風に剥がされぬよう石の重しが載せてある。空気は薄く、冬でなくとも朝晩は指先が痺れる。街道からは徒歩で三日。大陸の中央で何が起きようと、この村に届くのは季節が一つ過ぎた後だ。
カイは集落の裏手から獣道に入った。薬草採りの帰路にいつも通る道だ。今日の分はもう納めたが、陽が落ちるまでにはまだ間がある。足は自然と、あの場所へ向かっていた。
崖際の石碑。
集落から歩いて半刻ほど、山肌が切り立った崖の縁に、人の背丈ほどの石碑が一本だけ立っている。誰が建てたのかも分からない。村の長老ですら「ワシが子どもの頃にはもう在った」としか言わない。表面は苔と風化で荒れているが、刻まれた文字だけは不思議と鮮明だった。まるで石が削れるより速く、文字そのものが石に食い込み続けているかのように。
広場の石板と同じ文字だ。古代文字——カイ以外の誰にも読めぬ文字。
母が教えてくれたのだと、ずっと思っていた。幼い頃、寝物語の代わりに文字の形を指でなぞってくれた記憶がある。母の指は細く、薬草を擂るために指先だけが硬くなっていた。その硬い指先が、暗がりの中でカイの掌に一画ずつ文字を描いた。だが母は五年前に病で逝き、文字の意味を問う相手はもういない。残されたのは、母が首に掛けてくれた護符だけだ。掌に収まる銀の楕円。片面には古代文字が一文字だけ刻まれ、裏面には嵌め合わせの溝がある。「対になるものがどこかにある」と母は言った。どこに、とは教えてくれなかった。
石碑の前にしゃがみ込む。苔を指で除けると、見慣れた文字列が現れる。苔の下から湿った土の匂いが立ち上り、指先が緑に染まった。カイはそれを声に出さず唇だけで読んだ。
——封ぜし地の門、鍵なくば開かず。
意味は分かる。だが「封ぜし地」が何を指すのか、「鍵」が何であるのかは分からない。ここまではいつもと同じだ。
違ったのは、その下だった。
苔の奥に、今まで気づかなかった文字列がもう一行あった。風化が進み、かろうじて形を留めている程度だが、カイの目には読める。
——渡る者は還らず。されど還さねば、滅びは海を越ゆ。
指先が冷えた。意味を噛み砕こうとしたが、言葉が頭の中で像を結ばない。渡る。還らず。滅び。海を越える。断片だけが散らばって、一枚の絵にならなかった。
その時、胸元がわずかに熱を帯びた。
カイは襟元に手を入れ、護符を引き出した。銀の表面に変化はない。古代文字の刻印も、嵌め合わせの溝も、いつもと同じだ。だが確かに——ほんの一瞬だけ、護符が温かかった。体温とは違う、内側から灯るような熱。指の腹に残った苔の冷たさとの落差が、錯覚ではないと告げていた。
気のせいか。
指先で護符の表面をなぞる。冷たい銀の感触が戻っている。カイは石碑の新しい一行をもう一度読み、立ち上がった。意味は分からない。だが書き写しておこうと思った。集落に戻れば紙と炭筆がある。もっとも、書き写したところで読めるのは自分だけだが。
崖の縁から見下ろすと、ハグレの集落が夕陽に染まっていた。屋根の石が橙色に光り、炊事の煙が幾筋も立ち上っている。煙の匂いが風に乗ってかすかに届く。干し肉を炙る脂の匂いと、山芋を蒸す甘い湯気が混じり合った、夕餉の匂いだ。明日は守護祭だ。山の神に一年の無事を感謝し、次の一年の加護を願う。カイの仕事は薪の番と残飯の片づけ。去年もその前もそうだった。
獣道を下りながら、足元の小石を蹴った。石は斜面を跳ねて、枯れ草の中に消えた。
集落の入口でリーナが待っていた。
幼馴染と呼ぶには、最近は少し距離ができている。リーナは薬師の家に生まれ、薬草の知識では大人にも引けを取らない。村の女の中では珍しく、自分の足で山を歩き、自分の目で薬草を見分ける。カイが採ってきた薬草の質を最も正確に値踏みできるのも彼女だった。
「遅い。また崖の石碑か」
カイは答えなかった。答える必要がなかった。リーナは腕を組み、集落の門柱に背を預けたまま、夕陽に目を細めている。風に揺れた髪が頬にかかるのを、指先で耳の後ろへ払った。
「明日の守護祭、トールが剣術奉納をやるって」
「聞いた」
「去年より型が二つ増えたらしい。バルドが太鼓判を押してた」
カイは曖昧に頷いた。トールの剣の腕は集落一だ。同い年の中ではとうに頭一つ抜けている。太鼓判を押されるのは当然だろう。
「カイ」
リーナの声の調子が変わった。世間話の軽さが消え、芯だけが残ったような響きだった。カイは足を止めた。
「お前はいつまでここにいるつもりだ」
風が吹いた。山の上から降りてくる、冷たく乾いた夕暮れの風だ。カイの襟元を掠め、護符の鎖を揺らした。
リーナの目はまっすぐだった。嘲りではない。同情でもない。ただ問うている。ここに在り続けることが本当にお前の望みなのかと。
カイは口を開きかけ、閉じた。
答えが見つからなかった。ここにいたいわけではない。だが、ここ以外のどこに行けるというのか。石板を読める。古代文字が分かる。それだけだ。剣は振れず、弓は引けず、獣を追う脚もない。この山を降りたところで、平地の街で文字を読む仕事などあるのか。あったとして、それは母の護符と何か関係があるのか。
分からない。何も分からない。
「……分からない」
声に出したのは、そのまま正直な答えだった。
リーナはしばらくカイを見つめ、小さく息を吐いた。失望ではなかった。予想していた答えを受け取っただけの、静かな顔だった。
「守護祭が終わったら、少し考えろ。お前が読めるあの文字——あれが本当にただの癖なら、私は何も言わない。でももし違うなら」
リーナは言葉を切り、背を向けた。
「石碑の前でしゃがんでるだけじゃ、何も始まらない」
足音が遠ざかる。カイは集落の門柱の前に立ったまま、動けなかった。胸元の護符は、もう熱を帯びてはいなかった。冷たい銀が、鎖越しに鎖骨に触れている。
空を見上げた。山の稜線の向こうに、最後の陽光が沈もうとしている。明日は守護祭だ。薪を番し、残飯を片づけ、トールの剣術奉納に拍手を送り、また同じ日々が始まる。
——渡る者は還らず。されど還さねば、滅びは海を越ゆ。
石碑の言葉が、頭の隅にこびりついて離れなかった。