第3話
第3話
夜明け前の森は、闇そのものが呼吸しているようだった。
ランタンの魔石灯が足元を淡く照らす。私は外套の襟を立て、屋敷の裏手から北東の森へと続く獣道を辿っていた。結局、夜明けまでは待てなかった。寝室の窓から感じたあの脈動——大気中の魔力が不規則に揺らぐ現象は、汚染源が活性化している証拠だ。観測するなら、活性状態のうちに。
猟師のベルントに案内を頼む時間はなかったが、ハンスが昨日広げてくれた古い領地図を記憶している。枯死が始まったという北東の境界まで、屋敷からおよそ二刻の距離。
足を踏み入れて一刻もしないうちに、変化は明白だった。
下草が減り始めた。正確には、枯れているのではなく——成長が歪んでいた。茎が不自然に捻じれ、葉の色が青白く褪せている。魔力の流れが植物の成長パターンを攪乱しているのだ。私は立ち止まり、指先に意識を集中させた。大気中の魔力を直接感知する技術は、宮廷魔術の基礎課程で学ぶものだが、ここまで高濃度の魔力場で実践したことはなかった。
指先が痺れた。
魔力の濁りが、昨日馬車の中で感じたものとは比較にならないほど濃い。そして、その濁りの中に——規則的なパターンがあった。自然の魔力は川の流れのように滑らかに揺らぐが、この濁りには人工的な周期性がある。まるで、誰かが刻んだ術式の残響が、二十年経った今も大地に染みついているかのように。
私は腰の鞄からガラス瓶を取り出した。書斎にあったヴィルヘルムの実験器具の一つで、内壁に魔力保存の術式が刻まれた採取瓶だ。瓶の蓋を開け、汚染された大気を封入する。蓋を閉じた瞬間、瓶の中で大気が淡く濁った紫色に発光した。汚染濃度の高さを物語る反応だった。さらに、枯死しかけた草の根元の土壌もサンプルとして採取した。
さらに奥へ進む。
木々の様子が一変した。幹が黒ずみ、樹皮がひび割れ、そこから粘度の高い樹液が滲み出している。あの異臭はこれだ——樹液が魔力汚染によって変質し、甘い腐敗臭を放っている。喉の奥にまとわりつくような甘さと、その底に潜む腐臭。息を浅くしても逃れられなかった。私は口元を布で覆いながら、さらに三本のサンプルを採取した。
「——やはり」
声に出して確認した。汚染の濃度は同心円状ではなく、帯状に分布している。ハンスの証言と一致する。だが、自然発生の汚染であれば、発生源を中心に放射状に広がるはずだ。帯状の分布パターンは、地下の何かに沿って汚染が流れていることを示唆している。
地脈だ。
ヴィルヘルムのノートに記されていた。この地域の地脈は複数本が束になって北東から南西に走っており、その流れに沿って魔力が循環している、と。もし汚染源が地脈の上流にあるなら、汚染は地脈に乗って帯状に拡散する。理屈には合う。
私は手帳を取り出し、観測結果を速記した。汚染の属性構成、濃度の勾配、分布パターン。指がかじかむ寒さの中、ペンを握る手だけは正確に動いた。研究者としての訓練が身体に染みついている。
空が白み始めた頃、私は汚染帯の最も濃い地点に到達していた。
そこは——森ではなかった。もはや、かつて森だったものの残骸だった。
木々は完全に枯死し、灰色の幹が墓標のように林立している。地面は干からびた粘土のような色をしており、下草どころか苔一つ生えていない。風すら吹かなかった。空気が凝固したかのように重く、静まり返った空間には自分の呼吸音だけが異様に響いた。そして、大気中の魔力濃度が尋常ではなかった。肌がぴりぴりと痛む。頭の奥で鈍い圧迫感が脈打つ。これが、ベルントが経験した魔力酔いの前兆だ。
私は魔力の防護膜を体表に展開した。宮廷魔術の基本防御。だが——防護膜が、侵食される。
驚いて手元を見た。指先に薄く展開した防護膜の表面に、黒い筋のようなものが走っていた。汚染された魔力が、防護膜の属性構造の隙間を縫うようにして浸透してくる。単一属性の防護では、この汚染を遮断できない。
「通常の浄化魔法が効かない構造——」
私は一歩退き、防護膜を二重に重ねた。浸透速度は落ちたが、完全には止まらない。時間の問題だ。長居はできない。
急いで最後のサンプル——枯死した木の幹の一部を削り取り、鞄に収めた。そのとき、足元の地面にわずかな窪みがあるのに気づいた。自然にできたものではない。何かが埋められていた、あるいは何かが地中から突き出していた痕跡。等間隔に並ぶ窪みは、円を描いているように見えた。
——魔法陣の、痕跡?
鼓動が速くなった。手帳を持つ指先が、寒さとは違う震えを帯びた。二十年間、誰にも発見されずに森の奥で眠り続けていたもの。これが「残響型汚染」の発生源だとすれば、ここでかつて大規模な術式が行使されたことになる。二十年前の術式が、今も環境を汚染し続けるほどの規模の。
だが確証を得るには、サンプルの詳細な分析が必要だ。ここで仮説を立てるのは早い。私は踵を返した。
屋敷に戻ったのは、朝食の時刻をとうに過ぎた頃だった。
マルタが温め直してくれたスープを二口で片づけ、書斎に直行した。採取した六つのサンプルを机に並べ、ヴィルヘルムのノートを開く。
分析は地道な作業だった。採取瓶の大気サンプルに微量の魔力を流し込み、汚染物質の反応パターンを観察する。土壌サンプルは水に溶かし、魔力を通して属性組成を測定する。樹皮のサンプルは——これが最も雄弁だった。断面に、魔力の流路が刻まれるように変質した痕跡が残っていた。
「多重属性の干渉痕……」
ノートの四十七ページ。ヴィルヘルムの分類における「残響型汚染」の特徴的な指標として、「複数属性の不整合な重畳パターン」が挙げられていた。そして、自然現象としてこのパターンが発生する条件は——存在しない、とヴィルヘルムは断言していた。
つまり、この汚染は古代魔法に由来する。
しかも、ただの残滓ではない。サンプルの分析結果は、汚染が現在も「供給」され続けていることを示唆していた。もし二十年前の術式の残響だけなら、時間とともに減衰するはずだ。だが、帯状に広がる汚染域の濃度勾配は、上流から常に新たな汚染が流れ込んでいることを示している。
地脈の上流に、今も稼働している何かがある。
私はペンを走らせた。仮説を書き直す。「二十年前の術式の残響」ではなく、「二十年前に設置された何かが、今も魔力汚染を放出し続けている」。前領主の失踪との関連は——まだ推測の域を出ない。だが、ヴィルヘルムが「多重共鳴の完成には、森の最深部に存在する——」と書き残したこと、そしてその最終ページが破り取られていること。あまりにも多くの線が、森の奥で交差している。
窓の外は、いつの間にか夕暮れに染まっていた。分析に没頭するあまり、昼食も取っていなかったことに気づく。目を擦り、伸びをした。机の上にはインクの染みがいくつも散り、書き損じた計算式の紙片が山を成していた。
その瞬間——背筋を、冷たいものが走った。
魔力感知。書斎の封印術式に触れたときのように研ぎ澄まされた感覚が、窓の向こうの森から流れ込んでくる複数の気配を捉えていた。一つ、二つ——いや、少なくとも四つ。
人間ではない。魔力の質が違う。獣でもない。明確な意志を持った存在が、森の縁から——この屋敷を、見ている。
椅子から立ち上がる動作さえ気取られまいと、私は息を殺した。心臓が耳の奥で打つのが聞こえる。研究者としての冷静さと、本能的な警戒が体の中でせめぎ合う。
私はゆっくりと視線を窓に向けた。夕闇に沈む森の輪郭。梢の向こうに、何かが光った気がした。一瞬の、琥珀色の瞬き。動物の目の反射とは異なる、知性を宿した光。
気配は、こちらが気づいたことを察知したのだろう。数秒の静寂の後、音もなく散った。森の奥へと溶けるように消えていく。最後に残った一つの気配だけが、わずかに長くこちらを見据え——そして、それも消えた。
採取瓶の中で、汚染された大気のサンプルが微かに明滅している。まるで、森の呼吸に合わせるように。
私は手帳を開き、新たな一行を書き加えた。
「森に、知性ある住人がいる。彼らは汚染域の向こう側から来た。そして——私の調査を、最初から見ていた可能性がある」