第2話
第2話
ハンスの沈黙は、三つ数えるほど続いた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、埃っぽい応接間に響いていた。
「……お嬢様。いえ、領主様。長旅でお疲れでしょう。森のことは明日にでも——」
「ハンス」
私は穏やかに、しかし明確に遮った。老従者の瞳の奥にあるのは、単なる気遣いではない。何かを話すべきか迷っている人間の目だ。
「私はここに流刑されてきた無力な令嬢ではありません。この領地の正式な領主です。そして、馬車で領境を越えた時点で、大気の魔力に異常な濁りが混じっていることには気づいています」
ハンスの表情が変わった。驚きと——ほんの僅かな安堵が混じったような。皺深い顔の筋肉が、長く張りつめていた糸がわずかに緩むように動いた。
「……旦那様と同じことを仰るのですね」
老従者は背筋を正した。二十年間、主のいない屋敷を守り続けた男の、覚悟を決めた顔だった。
「半年ほど前からです。領地の北東、深い森との境界あたりから——木が枯れ始めました。最初は一本、二本でしたが、今では帯状に広がっております。枯れた木の根元からは、鼻を突く異臭がすると猟師たちが申しておりました」
「枯死の進行速度は」
「月に百メートルほどかと。冬の間は鈍っておりましたが、春になって——加速しているようです」
私は手元のノートを見下ろした。ヴィルヘルム・フォン・グラオベルクの『多重共鳴理論 基礎編』。その二十三ページに記された魔力汚染の分類図が脳裏によみがえる。通常の魔力枯渇による植生被害と、魔力汚染による枯死は根本的にメカニズムが異なる。前者は単純な欠乏だが、後者は——魔力そのものが変質し、生命体の魔力循環を内側から破壊する。
「ハンス。明日の朝、領地の状況について詳しく聞かせてください。森のことだけでなく、すべて」
「かしこまりました」
翌朝、食堂と呼ぶには寂しい小部屋で、私はハンスとフリッツ、マルタの三人から領地の現状を聞いた。窓から差し込む朝日が、壁の染みや剥がれかけた漆喰を容赦なく照らしていた。屋敷の老朽化は、この領地の疲弊をそのまま映し出しているようだった。
話は予想以上に深刻だった。
「王都からの補助金は、追放の通達と同時に打ち切られました」
ハンスが淡々と報告する。
「もともと辺境領への支援は最低限でしたが、それすら止まった形です。領民は三つの村に散在しており、総数はおよそ六百人。主な生業は林業と薬草採集ですが、森の異変で奥地に入れなくなり、収入が激減しております」
「食糧は」
「備蓄が二ヶ月分。秋の収穫までは——正直、厳しいかと」
マルタが口を挟んだ。恰幅のよい料理人は、しかし目の下に深い隈を刻んでいた。
「あたしが市場に出向いても、近隣の領地は足元を見てきます。『グラオベルクに売ると王都に睨まれる』って。追放された令嬢の領地に関わりたくないんでしょうよ」
マルタの声には怒りがあった。だが、その下に滲んでいるのは疲労だ。限られた食材で三人分——いや、今日からは私の分も加えた四人分の食事を賄い続ける重圧。その日々の積み重ねが、彼女の目元に刻まれている。
政治的孤立。王都の支援断絶。産業基盤の毀損。そして進行する原因不明の環境破壊。どれか一つでも致命的だが、それが四つ同時に押し寄せている。
私は紅茶の杯を置いた。マルタが淹れてくれた茶は、王都の高級茶葉には遠く及ばないが、素朴な野草の香りが心地よかった。
「状況は理解しました。最優先の課題は森の異変です。原因を特定できなければ、他のすべてが手遅れになる」
「しかし領主様、森の調査など——危険です。猟師のベルントが先月、境界近くまで入りましたが、気分が悪くなって引き返したと」
「それは魔力汚染の初期症状です。訓練を受けていない人間が汚染域に入れば、魔力酔いを起こす。ですが、私は魔力制御の心得があります。それに——」
私は書斎から持ち出したノートを開いた。
「この研究ノートには、魔力汚染に関する理論的な記述がある。何も知らずに飛び込むわけではありません」
昨夜、寝る間も惜しんで読み込んだノートの内容が頭の中で渦を巻いていた。ヴィルヘルムの理論は、私がこれまで学んできた宮廷魔術の体系とは根本的に異なっていた。
宮廷魔術は、魔力を単一の属性に変換して行使する。火、水、風、土——一つの属性を極限まで純化し、制御する技術体系だ。だがヴィルヘルムは、それを「不自然な制約」と断じていた。自然界の魔力は常に複数の属性が干渉し合いながら流れている。単一属性に固定する宮廷魔術は、川の流れから一色だけを掬い取るようなもので、膨大なエネルギーの大半を捨てている——と。
多重共鳴理論。複数の属性を同時に、互いの干渉パターンを制御しながら行使する技術。理論的には、単一属性術式の数倍から数十倍の効率を実現できる。
そして、その理論の余白に書かれた注釈の数々。「エルフの口伝と一致」「獣人族の戦闘術式に応用可能か?」——亜人たちの魔法体系との接点を、ヴィルヘルムは既に見出していたのだ。
知的興奮で指先が震えるのを自覚しながら、私は自分を律した。理論の探究は後だ。今は、目の前の危機に対処しなければならない。
午後、私は一人で書斎に籠もり、ノートの汚染に関する記述を体系的に整理した。
ヴィルヘルムは汚染の種類を三つに分類していた。第一に、魔力の過剰集中による「飽和型汚染」。第二に、異なる属性の魔力が不整合を起こす「干渉型汚染」。そして第三に——ノートでは「残響型汚染」と名づけられた、かつて行使された大規模術式の残滓が環境に固着するタイプ。
ハンスの証言——半年前からの進行、帯状の拡大パターン、人体への影響——から推測するに、今回の汚染は第三の「残響型」に最も近い。だが、ヴィルヘルムが失踪したのは二十年前だ。二十年前の術式の残滓が、なぜ今になって表面化する?
いくつかの仮説を手帳に書き出した。封じられていた汚染源の封印が経年劣化で崩壊した。あるいは、何らかの外的要因で汚染が活性化した。いずれにせよ、現地を見なければ確定できない。
私はペンを置き、窓の外を見た。北東の方角に広がる深い森。梢の色がわずかに——本当にわずかにだが、他の方角の森より褪せている気がした。
夕刻、もう一度ハンスを呼んだ。
「明日、森の境界まで調査に出ます。案内できる者はいますか」
「ベルントが地理には詳しいですが——領主様自ら行かれるのですか」
「観測機器を持ち込む余裕はありませんから、魔力の感知は私自身がやるしかありません。それに、ノートの記述と現地の状況を照合するには、理論を理解している人間の目が必要です」
ハンスは反論しなかった。代わりに、かすかに目を細めた。
「旦那様も——そう仰って、よく一人で森に入られていました」
その言葉に、不思議な感慨を覚えた。会ったこともない前領主と、私は似ているのだろうか。研究への執着という一点において。
「一つだけ、異なる点があります」
ハンスが首を傾げた。
「私は帰ってきます。データを持って」
言い切った自分の声が、静かな廊下に残響した。大言壮語だと思われただろうか。だが、ハンスの目に浮かんだのは嘲りではなかった。二十年待ち続けた人間が、ようやく信じてもよいものを見つけたときの——そんな表情だった。
翌朝の支度をしながら、ノートの破り取られた最終ページのことを考えた。「多重共鳴の完成には、森の最深部に存在する——」。その先に何が書かれていたのか。
答えは森にある。汚染の原因も、ヴィルヘルムの研究の核心も、おそらく同じ場所に。
そして夜半——寝室の窓から、北東の森を眺めていたときだった。
風向きが変わった瞬間、それは届いた。微かだが、確実に異質な臭気。甘さと腐敗が混じり合ったような、自然界には存在しない匂い。同時に、大気中の魔力が一瞬だけ脈動するのを感じた。まるで、森の奥で何かが呼吸しているかのように。
フリッツが夕食の席で言っていた。最近、庭の花が北東側だけ早く萎れると。マルタは、井戸水の味がわずかに変わったと。
汚染は、進行している。思っていたよりも速く。
私は外套を手に取り、ブーツの紐を締め直した。夜明けを待つ必要はない。いや——夜明けまで待っている余裕が、この領地にはないのかもしれなかった。