第1話
第1話
「リーゼロッテ・フォン・グランツハイム。貴女との婚約を、本日をもって破棄する」
王太子エルヴィンの声が、大広間の天井に吸い込まれていった。
シャンデリアの魔石灯が煌々と輝く舞踏会場。数百の視線が私に集まるのを、肌の表面で感じ取る。嘲笑、同情、好奇心——それぞれの感情が混ざり合った空気が、薔薇の香水の残り香とともに頬を撫でた。
私は黙って王太子を見返した。
金糸の刺繍が施された純白の礼装。整った容姿。そして、その隣に寄り添うように立つ男爵令嬢リリアナの、怯えたような瞳。ああ、まるで乙女ゲームの断罪イベントそのものだ。
「弁明の機会を与える。何か申し開きはあるか」
殿下の声には、台本を読み上げるような硬さがあった。第二王子アルベルトが後方で腕を組んでいるのが視界の端に映る。あの男の差し金だろう。グランツハイム公爵領の利権を切り崩すための、政治劇。
けれど——そんなことは、もうどうでもよかった。
「いいえ、殿下。弁明はございません」
私は深く、完璧な角度で礼をした。公爵令嬢として叩き込まれた作法の、最後の行使だ。
「追放先は辺境のグラオベルク領とする。明朝、王都を発て」
ざわめきが波のように広がる。辺境領。あの、魔獣が出没し、まともな貴族は赴任を拒む荒れ地。社交界の人間にとっては、死刑宣告に等しい処分だろう。
私は顔を上げた。
——ようやく、解放される。
胸の奥で、押し殺していた感情が静かに弾けた。歓喜だった。王太子との退屈な茶会も、意味のない社交辞令の応酬も、夜会のドレス選びに費やす無駄な時間も、すべて終わる。あの辺境には、前領主が遺したという古代魔法の文献があるはずだ。幼い頃に父の書庫で見つけた断片的な引用だけで、私の魔法理論は三段階も飛躍した。その原典が、あの土地に眠っている。
唇の端が持ち上がりそうになるのを、辛うじて堪えた。ここで笑えば、狂ったと思われる。いや、悪役令嬢としての最後の矜持というべきか。
「——承知いたしました」
静かに、しかし明瞭に答えて、私は背を向けた。
ドレスの裾が大理石の床を滑る音だけが、沈黙の大広間に響いた。
翌朝の馬車には、私と侍女のエマ、そしてトランク三つ分の書物だけが載っていた。
衣装は最低限。宝飾品は一つも持たなかった。代わりに、王都の古書店で買い集めた魔法理論書と、自分の研究ノート八冊。エマは荷造りの時に「お嬢様、ドレスが二着しか」と絶句していたが、辺境に夜会用のドレスを持っていく貴族がどこにいるというのか。
「お嬢様。……本当に、よろしいのですか」
馬車が王都の城門を抜けたところで、エマが恐る恐る口を開いた。街道沿いの白樺が朝日を受けて淡く光っている。
「何がです」
「何がって……すべてです。婚約破棄、追放、社交界からの追放。グランツハイム家の名誉も——」
「エマ」
私は窓の外に視線を向けたまま言った。街道の先に広がる麦畑が、春風に波打っている。空気が清い。王都の、香水と陰謀が混ざり合ったあの空気とは比べものにならない。
「私が王立学院の図書館に入り浸っていた理由を、覚えていますか」
「それは……魔法理論の研究書を」
「ええ。そして、私が最も読みたかった文献は、王立図書館には所蔵されていなかった」
グラオベルク領の前領主——ヴィルヘルム・フォン・グラオベルク。二十年前に失踪した変わり者の辺境伯。彼の研究は王都の学術界から異端視され、その著作は公式な図書館からすべて排除された。だが、断片的に残った引用文から推測される理論体系は、現在の宮廷魔術の根幹を揺るがすほどの独創性を持っていた。
魔力の流れを単一の属性で制御するのではなく、複数の属性を同時に干渉させる「多重共鳴理論」。もしそれが実在するなら、現行の魔法体系は根本から書き換わる。
「前領主の研究資料が、あの屋敷に残っている可能性がある。——私にとって、この追放は」
言葉を選んだ。エマを不安にさせたくはなかった。
「……研究留学のようなものです」
エマが目を丸くした。それから、小さく息を吐いて、「お嬢様は昔からそうでした」と呟いた。諦めと、ほんの少しの安堵が混じった声だった。
七日間の旅路は単調だった。街道は日を追うごとに細くなり、すれ違う旅人も減り、やがて道の両側は鬱蒼とした森に覆われた。馬車の御者を務める老従者ハンスが「ここからがグラオベルク領です」と告げたとき、森の空気が変わったのを感じた。
魔力だ。
大気に溶け込んだ魔力の濃度が、王都の三倍はある。それ自体は辺境では珍しくない。だが、その魔力の流れに——わずかな濁りが混じっていた。自然の魔力とは異なる、何か人為的な痕跡。まるで大きな術式が途中で放棄されたような、不完全な残響が森全体を薄く覆っている。
「……変ですね」
「何がでしょう、お嬢様」
「いえ、後で調べます」
私は手帳を取り出し、感知した魔力の性質を速記した。属性の偏り、流動パターン、濁りの周期性。研究者の習性が、自動的に手を動かしていた。
グラオベルク領の屋敷は、想像以上に荒れていた。
蔦が壁を覆い、庭園は雑草に埋もれ、噴水は干上がっている。出迎えたのは、老従者ハンスの他には庭師のフリッツと料理人のマルタだけだった。三人とも、前領主の時代から屋敷を守ってきた古参だという。
「ハンス。この屋敷に書庫はありますか」
「東棟の奥に、旦那様の——前領主様の書斎がございます。ただ、あちらは」
ハンスが言い淀んだ。
「旦那様が姿を消されてから、封印されております。遺言で、正式な後継者以外は立ち入り禁止と」
「私は正式な領主として赴任しました。——開けてください」
ハンスは一瞬だけ迷い、それから深く頷いた。
東棟への廊下は埃が積もり、壁の燭台に火を入れるとオレンジ色の光が長い影を作った。廊下の突き当たりに、重厚な樫の扉があった。表面に刻まれた紋様は——魔法陣だ。封印術式。しかも、かなり高度な。
私は紋様に指先を当てた。魔力を流し込み、術式の構造を読み取る。三重の認証機構。血統、魔力特性、そして——意志。
「面白い」
思わず声が漏れた。第三層の認証は、「この扉を開ける理由」を術式が読み取る仕組みになっていた。権力や財産のために開けようとすれば拒絶される。純粋な知的探究心だけが、鍵となる。
前領主は、自分と同じ種類の人間だけに遺産を託そうとしたのだ。
私は目を閉じ、意識を集中した。魔力が指先から扉へと浸透していく。社交界の喧騒も、婚約破棄の屈辱も、追放という烙印も——すべてが遠ざかり、純粋な好奇心だけが残った。
かちり、と音がした。
封印が解ける。
扉がゆっくりと開いた。
埃の匂い。古い羊皮紙の、乾いた甘い香り。そして——壁一面を埋め尽くす書架と、中央の大きな研究机。机の上には、革表紙のノートが一冊、まるで誰かを待っていたかのように置かれていた。
私は震える手でノートを取り上げた。表紙に刻まれた文字。
『多重共鳴理論 基礎編——ヴィルヘルム・フォン・グラオベルク』
心臓が跳ねた。
ページを開く。整然とした筆跡で記された術式理論。魔力属性の干渉パターン図。そして——余白に書き殴られた無数の注釈。「エルフの口伝と一致」「獣人族の戦闘術式に応用可能か?」「森の地脈と共鳴する条件を検証——」
亜人との共同研究。宮廷魔術の常識を覆す理論体系。そのすべてが、この一冊に凝縮されていた。
だが、ノートを最後までめくった瞬間、手が止まった。
最終ページが、破り取られていた。
切り口は鋭く、意図的だった。誰かが——おそらく前領主自身が、最も重要な部分を持ち去ったか、あるいは隠したのだ。残されたページの末尾には、途中で断ち切られた一文があった。「多重共鳴の完成には、森の最深部に存在する——」。その先は、存在しない。
私はノートを抱えたまま、窓の外に目を向けた。月明かりに照らされた森が、暗い緑色に沈んでいる。梢の向こうに、微かな魔力の脈動が見えた気がした。あの森のどこかに、答えがある。そして、馬車の中で感じたあの魔力の濁り——あれは、この研究と無関係ではないはずだ。
「ハンス」
廊下で待っていた老従者に声をかけた。
「領地の森について、聞きたいことがあります。——最近、何か異変は起きていませんか」
ハンスの顔が、わずかに強張った。