第3話
第3話
朝が来た。ゲーム内の朝日がカルデラの城壁を橙色に染めるのを、俺は宿屋の安いベッドの上で見ていた。一睡もできなかった。正確には、ログインしたまま夜を明かした。推奨Lv.75のダンジョンに、Lv.1が突入する。冗談みたいな事実が胃の底に鉛を流し込んでいる。
ギルドハウスの前に集合したのは六人。レイン、シエラ、ドーガ、それから昨日は見なかった二人——ローブ姿の魔法使い『ヨルン』Lv.74と、盾を背負った小柄な女性『フラン』Lv.71。そして俺。
ヨルンは俺を見て眼鏡の奥の目を細めた。品定めではなく、純粋な困惑だった。レベル表示を二度見して、それから無言でレインに視線を送った。レインは何も返さなかった。フランは何も言わず、小さく会釈しただけ。
「全員揃ったな」
レインの声に、空気が張り詰める。ドーガが露骨に俺を一瞥した。
「マジでこいつ連れてくのか」
「三度目だぞ、その質問」
「何度でも聞くさ。パーティの生存率に直結する話だ」
レインは答えなかった。代わりに転送結晶を取り出して砕いた。青白い光が六人を包む。視界が歪み、引き伸ばされ——
暗転。
光が戻ったとき、空気の質が変わっていた。
冷たい。重い。カルデラの街にあった生活の匂いが一切ない。代わりに、岩と鉄錆の混じったような臭気が鼻を突く。足元は黒い石畳。天井は見えない。ただ遥か上方に、星のような光点が無数に浮かんでいる。星喰みの迷宮。名前の通り、星を呑み込んだ闇の胃袋みたいな場所だった。
壁に埋め込まれた燐光石が青白く明滅して、通路の輪郭をかろうじて浮かび上がらせている。通路の幅は五メートルほど。両脇の壁面に、何かの文字が刻まれている。読めない。
「フラン、前衛。ドーガ、右翼。シエラ、後方警戒。ヨルン、中衛で詠唱準備」
レインの指示が飛ぶ。全員が無言で配置につく。淀みがない。何度も一緒に戦ってきたパーティの動き。それぞれが自分の役割を知り尽くしている。
俺には、指示がなかった。
「……俺は」
「壁際にいろ。戦闘が始まったら動くな」
それだけ。
隊列が進み始める。俺は最後尾、シエラのさらに後ろ——というより、隊列の外側。壁に片手を触れながら歩く。石壁の表面はぬるりと湿っていて、指先にまとわりつく感触が気持ち悪い。
最初の敵は、五分で現れた。
通路の奥から、甲殻に覆われた四足のモンスターが三体。『深淵の甲蟲』Lv.68。名前が真紅に染まっている。俺から見れば六十七レベル差の格上。
フランが盾を構えた。先頭の甲蟲が突進する。衝突音が通路に反響して鼓膜を叩いた。フランの足が石畳を削りながら半歩下がる。だが——止めた。体重の何倍もありそうな突進を、片足を引いた構えで受け止めている。
「ドーガ!」
フランの声に応じて、ドーガの大剣が横薙ぎに振るわれた。甲殻の継ぎ目を正確に捉える斬撃。裂けた隙間にシエラの矢が三連で叩き込まれ、ヨルンの氷槍が背後から貫通する。
四秒。
三体の甲蟲が四秒で沈んだ。
俺は壁に背中を押し付けたまま、息を止めて見ていた。手のひらの汗が冷たい。戦闘中、一歩も動いていない。動けなかった。Lv.68の敵が四秒で処理されていく光景を、ただ見ていることしかできなかった。
「次」
レインの一言で隊列が再び動く。俺は壁を離れ、足を動かす。ただついていくだけの足を。
二回目の戦闘。三回目。四回目。パーティは迷宮の奥へ着実に進んでいく。出現するモンスターのレベルは70を超え、群れの規模も大きくなる。だが、パーティの対応は変わらない。フランが受け、ドーガが斬り、シエラが射ち、ヨルンが撃つ。レインは基本的に動かない。格上のエリートモンスターが出たときだけ、細剣が一閃する。
その「一閃」で全てが終わる。
六回目の戦闘のとき、フランのHPが一瞬黄色に落ちた。すかさずヨルンが回復魔法を飛ばし、シエラがカバーの矢を放つ。声を掛け合うまでもない。視線と動きだけで連携が完成している。呼吸の合った戦闘。パーティとしての完成形。その中に、俺の居場所はない。
七回目の戦闘。通路の曲がり角から飛び出してきた大型の甲蟲——Lv.74のエリート個体。フランの盾を弾き、ドーガを壁に叩きつけた。一瞬の混乱。俺の目の前をエリート個体の尾が薙ぎ払うように通過した。風圧だけでHPが削れる。直撃していたら即死だった。
「動くなって言っただろ」
レインの声と同時に、エリート個体が両断された。断面が燐光に照らされて、内部構造まで見えた。
俺は尻餅をついていた。立ち上がれない。心臓が暴れている。手が震えている。ゲームだとわかっている。死んでもリスポーンするだけだとわかっている。だけど体が理解しない。「死」の気配を浴びた体は、理屈で動かない。
ドーガが壁から体を起こしながら、俺を睨んだ。
「な。足手まといだろ」
誰も否定しなかった。シエラも、ヨルンも、フランも。レインも。
否定できるわけがない。事実だから。
そこからの道のりを、俺はほとんど記憶していない。壁際を歩いた。戦闘が始まれば身を縮めた。パーティの華麗な連携を見た。自分のHPが戦闘の余波で削れるたびに、ヨルンの回復魔法が無言で飛んできた。ヨルンは俺を見なかった。回復は、自動処理みたいに正確で、そして無関心だった。
迷宮の第四層を抜けたあたりで、巨大な石扉が現れた。表面に禍々しい紋様が刻まれ、赤黒い光を脈動させている。ボス部屋だ。
レインが足を止めた。振り返って、俺を見る。
この日初めて、まっすぐ目を合わせた。
「この先にボスがいる。絶対に前に出るな」
昨日のスパーリングのとき、「来い」と言ったのと同じ温度の声。命令でも忠告でもない。事実の提示。前に出れば死ぬ。
「壁際にいろ。息を殺せ。何が起きても動くな」
俺は頷いた。頷くことしかできなかった。
レインが石扉に手をかける。紋様が激しく明滅する。扉が軋みながら開き始める。隙間から噴き出す熱風と、腐肉と硫黄の混じった臭気。その奥に、巨大な空間が広がっている。
暗闇の中で、何かが蠢いた。赤い瞳が一対、ゆっくりと開く。
ボスの名前が視界にポップした。
『虚淵のグラトニー』Lv.80。
文字が赤を通り越して、黒に近い紫で表示されている。見たことのない色だ。
フランが盾を構え直す音。ドーガが大剣の柄を握り締める音。シエラが弓弦を引き絞る音。ヨルンが詠唱を始める低い声。レインが細剣を抜く、かすかな金属音。
五つの音が重なって、戦いの前奏になった。
五人の背中が、ボス部屋の入り口に並んでいる。
俺は入り口の壁際に立っている。短剣の柄を握ったまま。抜けない。抜いても意味がない。
自分がここにいる意味がわからなかった。
壁際に縮こまって、戦闘を眺めるだけ。回復魔法を余計に消費させるだけの存在。ドーガの言う通りだ。足手まとい。パーティの生存率を下げるだけの不純物。レインはなぜ俺を連れてきたのか。俺はなぜここにいるのか。答えは出ない。考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。
五人が踏み出した。ボス部屋の闇に消えていく。
俺は壁際に残された。石壁の冷たさが背中に染みる。遠くで、戦闘の轟音が始まった。
短剣の柄を握る手に、力がこもる。握り方は昨日覚えた。走りながら抜く練習もした。ガードの角度も、回避のタイミングも、体に叩き込まれた。
でも、ここでは何の役にも立たない。
グラトニーの咆哮が迷宮を震わせた。壁にヒビが走る。足元の石畳が跳ねる。その振動が骨に響いて、歯がカチカチ鳴った。咆哮の余韻が通路の奥まで伝わり、燐光石が幾つか砕けて闇が濃くなった。
——俺は何のためにここにいるんだ。
その問いに答えが出ないまま、轟音は続いている。壁の向こうで、五人が命を削って戦っている。俺はここで、壁際で、震えている。
現実と同じだ。教室の隅で、卒業式の校庭で、誰にも要らない自分のまま——
握った短剣の柄が、じわりと熱を持った気がした。
気のせいかもしれない。だけど、確かに感じた。冷たい石壁と震える体の中で、手のひらの中だけが、僅かに熱かった。