第2話
第2話
レインの背中を追って走る。走る、というより必死に食らいつく、が正しい。
黒いコートが木々の間を滑るように進む。俺が全力で駆けても、レインとの距離は縮まらない。むしろじわじわ開いていく。地面の起伏に足を取られるたびにつんのめり、枝に肩をぶつけ、息が上がる。レインは振り返りもしない。
森の中を十分ほど走ったところで、茂みからオオカミ型のモンスターが飛び出した。
Lv.8『灰牙ウルフ』。
俺のレベルの八倍。名前が赤く表示されている。格上の証だ。反射的に足が止まった。短剣に手をかけるが、抜く前にレインの細剣が閃いた。光の軌跡すら見えない。気づいたときにはウルフのポリゴンが散っていた。
「走りながら抜け」
レインが初めて口を開いた。足は止めていない。
「えっ——」
「剣。走りながら抜く練習をしろ。立ち止まった瞬間に死ぬのがこのゲームだ」
言われるがままに短剣を鞘に戻し、走りながら抜く。柄を握り損ねて落とした。拾い上げてもう一度。今度は抜けたが、バランスを崩して転んだ。
レインは何も言わない。ただ前を歩き続ける。
三十分で森を抜けた。開けた平原に出ると、遠くに街の輪郭が見えた。城門の手前に露店が並び、プレイヤーたちが行き交っている。初期エリアの「始まりの丘」とは規模が違う。中級エリアの拠点『鉄火の城塞都市カルデラ』——レインが転送を使わず走ったのは、俺に走り方を叩き込むためだったのか。
「基本操作」
レインが足を止めた。城門の手前の枯れ草の広場。
「回避、ガード、反撃。この三つだけ覚えろ。あとは要らない」
「スキルとかは——」
「Lv.1にスキルはない。体で覚えるのが先だ」
レインが細剣を鞘に収めたまま、右手を軽く振った。その動きだけで風が鳴る。
「来い」
スパーリング。Lv.87とLv.1の。正気じゃない。だが断る選択肢が存在しない雰囲気だった。
短剣を構える。握り方すら正しいのかわからない。レインの右手が揺れた。次の瞬間、視界が回転した。何が起きたか理解する前に背中が地面に叩きつけられていた。
「ガードの構えが高い。顎が上がってる」
起き上がる。構え直す。また吹っ飛ばされる。
「回避は横。後ろに下がるな、距離を取ったら追撃で死ぬ」
三度目。四度目。五度目。十回を超えたあたりで数えるのをやめた。HPが赤になるたびにレインが攻撃を止め、自然回復を待ってから再開する。
雑だった。教え方が。丁寧に段階を踏むとか、褒めて伸ばすとか、そういう概念がこの男には存在しない。「違う」「遅い」「死んだ」。それだけ。だけど、体が少しずつ覚え始めていた。十五回目で初めてレインの手を避けた。二十回目でガードが間に合った。反撃は一度も届かない。
「——まあ、死ななくはなった」
それがレインの最大限の評価だと、なんとなくわかった。
城門をくぐると、カルデラの街は想像以上に騒がしかった。露店の呼び込み、鍛冶屋の槌音、酒場から漏れる笑い声。プレイヤーの平均レベルは30前後。俺のLv.1が異様に浮いている。
レインが街の奥へ進む。プレイヤーたちの反応が変わった。道を空ける者、立ち止まって振り返る者、ヒソヒソと囁き合う者。
「レインだ」「サーバー1位の」「マジで実在したんだ」
有名人どころの話じゃない。伝説の域だ。そして、その後ろをちょこちょこついていく俺への視線は明らかに種類が違った。「あれ誰?」「Lv.1?」「ペットか何か?」
聞こえてる。全部聞こえてる。
レインは気にした様子もなく、街の最奥にあるギルドハウスに入った。重い扉を押し開けると、中は薄暗いホールだった。壁に武器や戦利品が飾られ、長テーブルの周りに数人のプレイヤーが座っている。全員がレベル70以上。纏っている装備の質が、俺の初期装備とは次元が違う。
「おかえり、レイン。また単独で——」
声をかけた女性プレイヤーが、俺を見て言葉を止めた。『シエラ』Lv.79。弓を背負った長身の女。
「……何、その子」
「拾った」
レインの説明はそれだけだった。
ホール内の空気が変わった。好奇の視線。困惑の視線。そして——明確な敵意を含んだ視線。
「拾ったって。レイン、なんで初心者なんか連れてきてんの」
テーブルの奥から声を上げたのは、重装鎧の男。『ドーガ』Lv.82。腕を組んだまま、俺を値踏みする目で見ている。さっきレインにされたのと同じ種類の視線——いや、違う。レインの目には判断があった。こいつの目にあるのは結論だ。最初から「不要」と決めている目。
「Lv.1だぞ。ギルドの足引っ張る気か」
「別にギルドに入れるとは言ってない」
レインが素っ気なく返す。ドーガは鼻を鳴らした。
「じゃあなんだ。託児所か?」
笑いが起きた。小さく、だけど確実に。シエラは笑わなかったが、止めもしなかった。俺は黙って立っていた。言い返す言葉がない。事実だから。Lv.1。スキルなし。ゴブリン三体に殺されかけた雑魚。レインに拾われなければ、今頃リスポーン地点で呆然としていただろう。
ドーガの言葉は正しい。正しいから、刺さる。
レインはテーブルの上座に座った。ギルドメンバーに向けて短く告げる。
「明日、ダンジョン行く」
空気が引き締まった。笑いが消えて、全員の表情が切り替わる。
「どこだ?」シエラが聞く。
「『星喰みの迷宮』」
沈黙。ドーガの腕組みが解けた。
「本気か。あそこの推奨レベル——」
「75。わかってる」
レインが俺を見た。
「お前も来い」
全員の視線が俺に集中した。ドーガが椅子を蹴って立ち上がりかける。シエラの目が見開かれる。俺自身、耳を疑った。
推奨Lv.75。
俺はLv.1。
その数字の意味を理解するのに三秒かかった。推奨レベルの七十五倍下。パーティメンバーの足手まといどころか、存在しているだけで全体の難易度を上げるお荷物だ。
「レイン、正気かよ。こいつ連れてったら——」
「俺が決める」
レインの一言で、ドーガが黙った。反論を飲み込んだんじゃない。反論が通じないと悟ったんだ。ギルド内の力関係が一瞬で可視化された。レインの言葉は議論の対象にならない。決定事項だ。
ドーガは座り直した。だが、俺に向ける目は先ほどよりさらに冷たくなっていた。「不要」から「邪魔」に格下げされた。
ホールを出ると、夜だった。ゲーム内の夜空には現実では見えない密度の星が瞬いている。城壁の上を冷たい風が吹き抜けて、松明の炎が揺れた。
俺は城壁にもたれて、ステータスを開いた。
Lv.1。HP、MP、全ステータス最低値。スキル欄は空白。
推奨Lv.75のダンジョン。明日。
笑えない冗談だ。レインが何を考えているのかわからない。なぜ俺を拾ったのかも、なぜダンジョンに連れて行くのかも。聞いたところで答えないだろう。あの男はそういうタイプだ。半日一緒にいただけでわかる。
だけど。
城門前の広場で、何十回も地面に叩きつけられたときのことを思い出す。体が覚えた回避のタイミング。ガードの角度。レインの攻撃の、ほんの一欠片だけ見えた軌道。
あのスパーリングに意味がなかったとは思えない。
俺にはまだ何もない。レベルも、スキルも、仲間と呼べる存在も。現実と同じだ。教室の隅で透明人間をやっていた三年間と何も変わらない。
——でも、ここには「次」がある。
明日がある。死ぬほど怖いダンジョンが待っている。ドーガに邪魔だと思われている。シエラにも認められていない。
それでも、明日は来る。
俺は何も持っていないけれど、レインは「来い」と言った。
ステータス画面を閉じた。短剣の柄を握る。城門前で転びながら覚えた握り方。まだ手に馴染まない。たぶん明日も馴染まない。
それでも——離すつもりはなかった。
ログアウトする前に、もう一度だけ『星喰みの迷宮』の情報を検索した。推奨レベル75。推奨パーティ人数6名。平均クリア時間4時間。死亡率——パーティ全滅率38%。
最適レベル帯のパーティですらその数字。Lv.1が混じったら、どうなる。
検索結果の一番下に、攻略サイトの注意書きが赤字で表示されていた。
『※当ダンジョンにはレベル制限はありませんが、推奨レベル未満での挑戦は一切推奨しません。特にLv.30以下での突入はシステム上可能ですが、開発チームは一切の責任を負いません』
Lv.30以下ですら想定外。俺はLv.1。
画面を閉じた。指先が、微かに震えていた。