第1話
第1話
誰も俺の卒業を祝わなかった。
式が終わって、クラスメイトが親や友達と写真を撮り合う校庭を、俺は一人で横切った。三年間同じ教室にいたはずなのに、誰とも目が合わない。合わせる気もなかった。桜が咲いていた。風が吹くたびに花びらが舞って、笑い声の上を滑っていく。綺麗だと思う余裕はなかった。ただ、自分だけがこの景色から切り離されているような感覚がずっと胸の底に沈んでいた。制服のボタンを誰かにあげるイベントも、寄せ書きに何か気の利いたことを書くイベントも、俺には発生しなかった。校門を出るとき、後ろから誰かの母親の声が聞こえた。「おめでとう、よく頑張ったね」。その言葉は俺に向けられたものじゃない。わかっている。わかっているのに、足が少しだけ速くなった。
帰り道、コンビニで買ったエナジードリンクを開けながら、スマホの広告を見た。
『アストラル・フロンティア——正式サービス本日開始』
話題の新作VRMMO。フルダイブ型。クラスの連中も騒いでたっけ。去年の誕生日に誰にも祝われなかった自分への言い訳みたいに買ったVRヘッドセットが、部屋の隅で埃をかぶっている。
一度も使ってない。
帰宅して、誰もいないリビングを通り過ぎた。台所のシンクに昨日の食器が残っている。母さんは夜勤だろう。いつものことだ。自分の部屋に入って、ベッドの脇の段ボールからヘッドセットを引っ張り出した。ケーブルに埃が絡みついていて、手の甲で拭った。
「……やるか」
誰に言うでもなく呟いて、俺はヘッドセットを手に取った。
キャリブレーション完了。アカウント作成。名前は——ユウ。本名そのまま。ひねる理由もない。
──ログイン。
暗転した視界が弾けるように開いた瞬間、息が止まった。
青い空。どこまでも広がる草原。遠くに石造りの城壁と、その向こうにそびえる水晶の塔。風が頬を撫でて、草の匂いがした。匂いまでするのか、これ。草を踏む感触が足の裏に伝わってくる。柔らかくて、少し湿っている。現実の感覚とほとんど変わらない。いや、現実よりも鮮明かもしれない。色が濃くて、輪郭がくっきりしている。まるで曇りガラスを通して見ていた世界から、いきなり裸眼に切り替わったみたいだ。
足元を見下ろす。革のブーツ。粗末な布の服。腰には錆びかけた短剣が一本。
ステータスウィンドウが視界の端にポップした。
名前:ユウ 種族:ヒューマン Lv.1 職業:なし
HP、MP、STR、全部が最低値。見事なまでのまっさらだ。現実と同じで、何も持ってない。
チュートリアルのガイドウィンドウが開く。「まずは基本操作を——」
閉じた。
読むのが面倒だったわけじゃない。嘘だ、面倒だった。どうせゲームだ、やりながら覚えればいい。
初期エリア「始まりの丘」を歩き出す。周囲には同じように初期装備のプレイヤーがちらほら見える。二人組や三人組で固まって、楽しそうに笑い声を上げている。
既にフレンドと合流してるやつら。リアルの知り合い同士で始めたんだろう。
俺は一人で丘を下った。
草むらを抜けると、小さな森の入り口に出た。木漏れ日が地面にまだら模様を作っている。綺麗だな、と素直に思った。現実じゃこんなふうに景色を眺める余裕なんてなかった。空気が変わった。丘の上の乾いた風と違って、森の中は湿った土と苔の匂いがする。鳥の声が頭上のどこかから降ってきて、枝葉の隙間を光の粒が泳いでいた。
奥に何かいる。
緑色の小さな影。尖った耳。手には粗末な棍棒。
「ゴブリンか」
ゲームの定番モブだ。Lv.3の表示。俺はLv.1だけど、まあ初期エリアだし、いけるだろ。
短剣を抜いた。握った感触がリアルで少し戸惑う。柄が手のひらに食い込む硬さまで再現されている。振り方がわからない。適当に踏み込んで横に薙いだ。
——空振り。
刃が空を切る感触だけが腕に返ってきた。ゴブリンが甲高い声で鳴いた。怒りのアイコンが頭上に灯る。棍棒が脇腹に叩き込まれて、視界の端のHPバーがごっそり減った。
「痛ッ——」
痛覚設定をデフォルトのままにしてた。鈍い衝撃が腹に響く。思わず片膝をついた。現実で殴られたことはないけど、たぶんこういう感じなんだろう。内臓がずれるような不快感が腹の奥に残る。
もう一度斬りかかる。今度は当たった。ダメージ表示——12。ゴブリンのHPバーは微かに減っただけ。嘘だろ。
キィィッ、と別方向から鳴き声。振り返ると、ゴブリンが二体、茂みから飛び出してきた。
三体。囲まれた。
一体目の棍棒を避けようとして、二体目に足を引っかけられた。地面に転がる。背中に枝と小石が突き刺さる感触。三体目が上から棍棒を振り下ろす。肩に直撃して、腕がしびれた。
HPバーが赤く点滅し始める。残りわずか。
立ち上がろうとして、膝が震えた。ゲームの中なのに、体が竦む。死んだらどうなる? ペナルティは? チュートリアル読んでないから何もわからない。心臓がうるさい。これもゲームが再現してるのか、それとも現実の自分の心臓が本当に暴れているのか、もう区別がつかない。
三体が同時に棍棒を振りかぶった。
——あ、死んだ。
そう思った瞬間だった。
銀色の光が、視界を横切った。
音はなかった。ただ光の線が走って、三体のゴブリンが同時に砕け散った。ポリゴンの破片が蛍みたいに散って消える。あまりに一瞬で、何が起きたか理解が追いつかない。残ったのは静寂と、森の匂いと、自分の荒い呼吸だけだった。
地面に座り込んだまま、光が走ってきた方向を見た。
黒いロングコート。フードの下から覗く鋭い目。片手に、刀身が淡く発光する細剣を持った男が立っていた。コートの裾が風もないのにかすかに揺れている。纏っている空気が違った。同じゲームの中にいるはずなのに、画質が一段違うみたいだ。
プレイヤーネームが見える。
『レイン』Lv.87。
背後のHPバーは満タンのまま、微動だにしていない。三体のゴブリンを処理するのに、息一つ乱れていない。ステータスの横に、見たことのないアイコンが並んでいる。サーバーランキング——1位。
最強プレイヤー。
レインは俺を一瞥した。倒れたままの、Lv.1の初心者を。その目には嘲笑もなければ同情もない。ただ、品定めするような冷たい光があった。じっと見られていると、ゴブリンに囲まれたときとは違う種類の圧を感じた。敵意じゃない。だけど味方の目でもない。値踏みだ。自分に価値があるかないか、それだけを計っている目。
「チュートリアル飛ばしただろ」
見透かされた。声は低くて、抑揚がなかった。責めているんじゃない。事実を確認しただけ。それがかえって刺さる。言い返す余裕もなく、俺はただ頷いた。
レインは細剣を鞘に戻した。金属がこすれる小さな音だけが森に響いた。踵を返しかける。このまま去るんだと思った。当然だ。最強プレイヤーがLv.1の雑魚に構う理由なんてない。
だが——足が止まった。
レインは振り返らないまま言った。
「死にたくなかったらついてこい」
低い声。命令でも提案でもない、ただの事実確認みたいな口調。ついてこなければ死ぬ。それだけのことだと言わんばかりの。
俺は立ち上がった。膝はまだ震えていた。ゴブリン三体にすら勝てなかった情けなさが喉の奥に溜まっている。手のひらが汗で濡れていた。短剣の柄を握り直したけれど、この剣で何かを守れる気がしない。
でも、選択肢はなかった。
レインの背中は、もう歩き出している。黒いコートの裾が風に揺れる。その背中は、現実で見てきたどんな人間の背中とも違った。
圧倒的だった。
こいつの隣にいれば死なない。直感でわかる。同時に、もう一つわかったことがある。
——こいつの隣にいる限り、俺は何者にもなれない。
その矛盾を飲み込む前に、足は動いていた。レインの背中を追って、森の奥へ。木漏れ日がレインの黒いコートの上を滑り、その影は地面に落ちない。まるで光すら避けて通るみたいだった。
視界の端で、HPバーがゆっくりと自然回復を始めた。Lv.1。スキルなし。仲間なし。
それが、俺のゲームの始まりだった。