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社畜スキルで異世界成り上がり

第20話 第20話

第20話

第20話

ヴェルナーの部屋に入ったのは、期限の三日前だった。

ハインツが横に立っている。窓から差し込む朝日が、デスクの上の契約書を照らしていた。あの日と同じ光景。だが俺の中身は違う。

ヴェルナーは紅茶を飲んでいた。陶器のカップから薄い湯気が立っている。部屋に茶葉の香りが漂っていた。温かい匂いだ。だがこの部屋の空気は温かくない。交渉の場だ。

「答えが出た」

ヴェルナーがカップをソーサーに置いた。磁器がぶつかる乾いた音が、部屋の空気を切った。紅茶の水面に小さな波紋が走る。目がこちらを見る。先を言え、と。

椅子に座り直した。背筋を伸ばす。前の世界で、プレゼンの前にやっていた所作だ。体が姿勢を正すと、声もまっすぐ出る。

「ギルド直属にはなりません。だがギルドとの協力関係は結びたい」

ヴェルナーの眉が微かに上がった。想定外の回答。ハインツは無表情。だが目の奥に何かが浮かんでいる。

「説明しろ」

「俺は三百年前の前任者について調べました。ヴォルフは組織に属し、命令に従い、力を使い続けて壊れた。俺が同じ轍を踏む可能性がある。組織の指揮下に入れば、力の使用を俺以外の人間が判断することになる。それは——制御を他者に委ねるということです」

ヴェルナーが黙って聞いている。目は鋭いが、口を挟まない。聞く姿勢がある。経営者としては良い資質だ。

「だが独立もしない。一人では北の大国に対抗できない。情報も足りない。資源も足りない。必要なのは、対等な協力関係です。俺は自分の判断でギルドの依頼を受ける。断る権利も持つ。スキルの使用は俺が判断する。ギルドは情報と安全を提供する。報酬は通常のDランク基準。特別扱いはいらない」

言い終えた。沈黙。窓の外で鳥が鳴いている。秋の朝の、澄んだ空気。

ヴェルナーが椅子の背にもたれた。腕を組む。

「自由すぎるな。ギルドにとってのメリットが薄い」

「メリットはあります。俺が独立して暴走するリスクがなくなる。ギルドとの関係を維持している限り、俺は情報を共有し、ギルドの利益に反する行動を取らない。逆に、ギルドが俺を追い詰めれば、俺は消える。王都から出て、辺境に消える。北と俺の問題が、ギルドの管理外で進行する。それはギルドにとってもリスクです」

交渉だ。前の世界では、クライアントとの契約交渉を何度もやった。利害の調整。リスクの配分。双方にメリットがある落としどころを見つける。ビジネススキル。社畜スキル。六年間で数十回のSLA交渉をやった。一度も自分のために交渉したことはなかった。全部、会社のために。

今回は——自分のためだ。自分の命と自由を守るための交渉。声が震えていないのが不思議だった。

ヴェルナーが微かに笑った。口元だけの笑み。

「ハインツ、この男をどう思う」

「面倒です。だが筋は通っている」

「面倒か。同感だ」

ヴェルナーが立ち上がった。窓際に移動し、外を見ながら言った。

「一つ条件を追加する。北の動きに関する情報は、全てギルドに共有しろ。お前が独自に動いた結果得た情報も含めて。それが最低限の義務だ」

報連相。社畜の三原則。情報共有は義務。組織にいなくても、情報は渡す。むしろフリーランスの方が報連相は重要だ。信頼がなければ次の案件が来ない。それなら——受け入れられる。

「承諾します」

「よし。契約書は作り直す。特殊な形式になるが、前例がないわけじゃない。A級冒険者には似たような自由契約者がいる」

A級。俺はまだDだ。格が違いすぎる。だがヴェルナーは実力の話をしているのではない。契約形態の話をしている。

部屋を出た。廊下の石壁に朝日が細く差し込んでいる。光の帯が床を横切っていた。ヴェルナーの部屋の扉が閉まる音が背後で響いて、静寂が戻る。

廊下を歩き始めると、足音がもう一つ加わった。ハインツが隣に並んだ。

「迷宮に行ったな」

「はい」

「何を見た」

「ヴォルフの壁画。彼は命令に従って大陸を消した。制御不能ではなく、命令の範囲を超えた力を使わされた結果です」

ハインツの足が止まった。

「……それは、俺も知らなかった」

「記録に残っていなかったのか」

「記録には『制御不能事例』としか書かれていない。壁画を見た者はほとんどいない。第三十層以深に入れる人間が限られているからだ」

紋章の保有者でなければ通れない隠し通路。ヴォルフの真実は、万象剥離の保有者だけに開示される仕組み。次の器に、同じ過ちを繰り返させないための——遺言。

「ハインツさん。もう一つ報告があります」

「なんだ」

「大迷宮の深層に、封印された扉があった。ヴォルフの残留意思が封じられていると思われます。いずれ、そこに行く必要がある」

「今すぐか」

「いいえ。今の俺では足りない。制御力も、情報も。準備してから行きます」

ハインツが頷いた。

「北の動きが気になる。正式な使節団がこの王都に向かっているとの情報がある」

使節団。暗殺者の次は外交か。

「表向きは友好交流だが、本命はお前だ。特異スキル保有者の確保。暗殺者で無理なら、外交で取りに来る」

外交。つまり、丁寧に断れない形で要求してくる。前の世界で言えば、取引先の役員が直接乗り込んできて「佐伯くんを出向させてくれ」と言うようなものだ。断ればビジネス関係が悪化する。

「使節団はいつ来ますか」

「十日以内。最新の情報では、もう国境を越えている」

十日。ギルドとの契約を結んだ直後に、北が来る。タイミングが良すぎる。いや——北は俺の動きを監視している。契約交渉の情報が漏れている可能性がある。

「ハインツさん。一つ聞いてもいいですか」

「なんだ」

「マルタさんの息子は——どんな人でしたか」

ハインツの目が揺れた。初めて見る表情。鷹の目が、一瞬だけ、人間の目に戻った。

「——強い男だった。だが、お前に似ていた」

ハインツの声に初めて柔らかさが混じった。鷹の目が一瞬だけ曇る。マルタの息子の話をするとき、この男は鎧を脱ぐ。

それだけ言って、ハインツは階段を下りていった。革靴が石段を叩く硬い音が、下へ遠ざかっていく。

俺はその場に立ったまま、掌を見た。紋章の線が午前の光に薄く浮かんでいる。

マルタの息子。ハインツとの関係。この伏線は——まだ先で回収される気がする。今は保留だ。

目の前の課題は、北の使節団。十日後。

社畜は段取りを組む。準備する。情報を集める。

だが今回は——命令されたからではなく、自分で選んでそうする。

その違いが、全てだ。

ギルドの一階に下りた。掲示板の前に立つ。依頼書がびっしりと貼られている。相変わらず並びはバラバラだ。期限順でも報酬順でも危険度順でもない。法則がない。

——だがその非効率さが、今は少しだけ愛しく思えた。

前の世界のオフィスはすべてが管理されていた。タスク管理ツール。カレンダー。スケジュール表。何をいつやるか、全部が決まっていた。自由意志の入り込む余地がなかった。完璧に管理された環境は、自由が少ない。混沌の中にこそ、選択の余地がある。

一枚の依頼書を手に取った。郊外の魔獣偵察依頼。報酬は標準。危険度は中。パーティ推奨。紙の端が少し破れている。誰かが一度取って、戻した形跡がある。手に取った瞬間、紙がかすかに湿っていた。朝の露が窓から入り込んだのだろう。

自分で選んだ。誰にも命令されていない。ギルドの指示でもない。

たった一枚の紙を手に取る——その行為に、こんなにも重みがあるとは思わなかった。社畜時代、毎朝のメールチェックで振られるタスクには重みがなかった。こなすだけだった。だがこの一枚は違う。俺が「これをやる」と決めて手に取った。

小さな一歩だ。だが三百年前のヴォルフが踏めなかった一歩だ。

掌の紋章が温かかった。燃えるような熱さではない。体温より少しだけ高い、穏やかな温もり。心臓の鼓動に合わせて、紋章が微かに脈打つ。生きているもの同士の共振。初めて、この紋章を——味方だと思えた。

廊下を歩いて出口に向かう途中、壁の掲示板に「大迷宮深層調査に関する暫定規制について」という告知が目に入った。第四十七層以深の封鎖は継続中。だが俺はすでにその先を知っている。ヴォルフの真実を見てきた。

今はまだ誰にも言わない。情報の開示にもタイミングがある。早すぎる開示は混乱を招く。遅すぎれば機を逃す。

——プロジェクトマネジメントの鉄則だ。社畜スキルは健在。

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