第19話
第19話
深夜二時。大迷宮の入口に立っていた。
広場は無人だ。門番の交代が終わったばかりの時間帯。次の巡回まで二時間。ハインツの情報通りだ。あの男は裏切りはしない。だが必要な隙は作ってくれる。
ランタンを持たなかった。光は目立つ。代わりに、掌の紋章を微かに発光させた。制御の訓練として、ここ数日試していた技術だ。戦闘レベルの出力ではなく、蛍火程度の光。消耗はほぼゼロ。だが掌を前にかざせば足元が見える。社畜は残業の照明にも効率を求める。
第五層まではすでに通った道だ。構造は頭に入っている。フロアごとの所要時間も記録してある。五層までは四十分。そこから先は未知だ。
第十層あたりから空気が変わった。湿度が上がり、壁の石材が変質している。浅層の整然とした石組みとは違い、自然の岩肌がむき出しになっている箇所が増えた。天井が低くなる。圧迫感。閉所恐怖はないが、地下にいるという事実が皮膚の上に重みとして感じられた。
第二十層。ここまで二時間。ペースは悪くない。
水筒の水を一口飲んだ。冷たい。地下の空気に冷やされて、水の温度が下がっている。喉を通る冷たさが、意識を研ぐ。干し肉を一切れ齧った。塩味が舌に染みる。咀嚼しながら壁に背を預けた。石壁がひんやりと背中に張りつく。三十秒だけ休む。それ以上は体が冷える。
各フロアの所要時間を頭の中に記録していく。第六層から十層まで平均八分。十一層から二十層は十二分。深くなるほど構造が複雑になり、通路が入り組んでくる。分岐点で迷いそうになるが、社畜脳は空間把握が得意だ。オフィスのフロアレイアウトを一度見れば記憶できた能力が、ここでも機能している。
魔獣は数体出現したが、いずれも小型。紋章の光を見ると逃げていく。蜥蜴型の魔獣が通路の奥で目を光らせていたが、俺の掌の光を見た瞬間、一目散に暗闘に消えた。この力に本能的な恐怖を感じているのか。捕食者の気配を嗅ぎ取っているのか。
掌の紋章の熱が、層を下りるごとに強くなっていく。磁石が鉄に近づくような感覚。何かが深層にある。紋章がそれを感じ取っている。
第二十五層で壁画が出始めた。第五層で見たものとは別の壁画群。こちらの方が古い。石に直接刻まれた線描。人物が描かれている。
男が立っている。右手を前に突き出し、掌から放射状の線が広がっている。その前で大地が割れている。空が歪んでいる。人々が逃げている。
ヴォルフだ。三百年前の光景が、壁画として残されている。
次の壁画。ヴォルフの前に、王冠を被った人物が立っている。手を振り上げ、何かを命じている。ヴォルフは跪いている。命令を受けている姿。
次。大地が消えている。海になった場所。壁画の線が荒くなっている。描いた人間の手が震えていたのか。
次。ヴォルフの姿が消えている。光の中に溶けていく人影。掌の紋章だけが残って、宙に浮かんでいる。
紋章が移動する壁画。ヴォルフの掌から離れた紋章が、光の軌跡を描いて飛んでいく。どこかへ。次の「器」を探して。
壁画に触れた。指先が石の凹凸を辿る。三百年前の職人が彫ったのだろうか。それとも——紋章の力そのものが、石に記憶を焼きつけたのか。石は冷たいが、紋章の模様がある部分だけ微かに温かい。錯覚かもしれない。だが指先は嘘をつかない。
俺の掌を見た。この紋章は——三百年間、器を探していたのか。そして俺を見つけた。見つけたのか、選んだのか。それとも、たまたま倒れていた瀕死の社畜に宿っただけか。
どちらでも構わない。偶然であれ必然であれ、今この紋章は俺の掌にある。それが事実だ。事実から出発する。社畜は感傷より事実を取る。
第三十層に到達した。
ここで足を止めた。ハインツが言っていた「古い通路」がある。通常のルートとは別に、壁の一部が微妙に色が違う。紋章を近づけると、壁が反応した。光が走って、石の表面に線が浮かぶ。隠し扉だ。
紋章で開く扉。万象剥離の保有者だけが通れる道。ヴォルフが作ったのか、それとも紋章の力がこの迷宮と繋がっているのか。
通路を進んだ。道は一本。分岐はない。壁が狭くなり、天井が低くなる。最後は匍匐前進に近い姿勢で通り抜けた。土と水の匂いが濃い。岩の表面が湿っていて、手をつくと冷たさが骨まで響いた。
そして——広い空間に出た。
大きな部屋。いや、広間だ。天井が高い。見上げると、暗闇の中に微かな光が点在している。光苔か何かが天井に付着しているらしく、星空のように見える。
広間の中央に巨大な壁画があった。いや、壁画ではない。壁そのものが一つの絵になっている。四方の壁すべてに、ヴォルフの生涯が描かれていた。
北の壁。幼少期。貧しい家の子供が、掌に光を灯している。周りの子供たちが驚いている。
東の壁。青年期。宮廷魔術師の服を着たヴォルフが、皇帝の前で跪いている。紋章が光っている。皇帝が微笑んでいる。
南の壁。壮年期。戦場。ヴォルフが掌を前に出し、敵の城壁が崩れていく。背後に大勢の兵士。ヴォルフの表情は——描かれていない。顔の部分が意図的に削り取られている。
西の壁。最後。光の中にヴォルフが立っている。掌から放たれた力が大地を飲み込んでいく。ヴォルフの体も光に溶けている。顔は——ここも削られている。だが体の姿勢だけは見える。
跪いている。最後の瞬間まで、跪いている。命令を受けた姿勢のまま。
制御を失ったのではない。
ヴォルフは最後まで——命令に従っていた。「大陸ごと剥離せよ」という命令を、そのまま実行した。制御不能ではなく、制御の範囲を超えた命令に従った結果だ。
大陸を消す。その命令を受けて、「できません」と言わなかった。言えなかった。言うことを知らなかった。
俺と同じだ。
「残業してくれ」と言われて「できません」と言えなかった六年間。体が壊れるまで「はい」と答え続けた六年間。ヴォルフの二十四年間と、本質は同じだ。
違うのは規模だけ。俺が壊したのは自分の体だけ。ヴォルフが壊したのは大陸だった。
壁画の前で、膝が折れた。石の床が冷たい。膝小僧が痛い。だが立ち上がれない。体が重い。涙は出ない。出そうになったが、出なかった。代わりに、喉の奥が締まって、呼吸が浅くなった。
三百年前の男が、俺と同じ弱さで壊れた。
掌の紋章が強く脈打った。壁画が紋章の光に照らされて、影が揺れる。ヴォルフの跪いた姿が、光の中で動いているように見えた。
広間の奥に、もう一つ扉があった。封印された扉。紋章と同じ模様が刻まれている。ここが——第四十七層以深への入口。ヴォルフの残留意思が封印されている場所。
今は開けない。まだその時じゃない。ここに来ただけで、十分だ。
ヴォルフの真実を知った。命令に従って壊れた男の末路を見た。
立ち上がった。膝が痛い。掌が熱い。
帰り道は、来た時より速かった。答えが見えたからだ。
足が軽い。同じ通路を逆に走っている。壁が紋章の光で流れていく。石と苔と水の匂いが鼻を抜ける。地下の空気がもう恐怖ではない。ただの空気だ。
第十層で魔獣が通路を塞いでいた。蜥蜴型。三匹。行きには避けて通った。帰りは——掌を向けた。鱗が一層、紙のように剥がれた。三匹が悲鳴を上げて散った。消耗はほとんどない。
制御できている。頭で考える前に、体が反応している。だが暴走していない。範囲は鱗の表面一層。深度は最小。意志が技術に先行している。
ギルドに戻ったのは夜明け前。仮眠室のベッドに倒れ込んだ。
選択肢が明確になった。ギルドの庇護下に入るか、独立するか——そのどちらも、本質は同じだ。組織に従うか、一人で抗うか。二択ではない。第三の選択肢がある。
自分の意志で、協力する。
従うのではなく。服従するのではなく。自分で判断して、協力相手を選ぶ。それが——ヴォルフにはできなかったこと。
掌を握った。紋章の光が、指の隙間から漏れた。白い線が天井に模様を描く。
毛布を引き寄せて目を閉じた。体は疲れている。だが頭は冴えている。この感覚も知っている。大型案件を完了した直後の、疲弊と達成感が混在する状態。
十日の期限。あと七日。だが答えはもう出ている。
あとは——言葉にするだけだ。
目を閉じた。壁画のヴォルフの姿が瞼の裏に浮かぶ。跪いた姿。顔が削られた壁画。だが俺には彼の顔が見える気がした。疲れた目。諦めた口元。「はい」としか言えなかった表情。
俺の顔と重なる。六年間、同じ顔をしていた。
だがもう同じ顔はしない。
ここは前の世界じゃない。俺はもう社畜じゃない。社畜だった人間が、初めて自分で選ぶ。それが——この物語の、次の一歩だ。