第18話
第18話
ギルドマスターの部屋は、三階の奥にあった。
重い木の扉。両側に護衛が立っている。ハインツに連れられて入ると、広い部屋に大きなデスクがあった。壁に地図。棚に書類。窓から差し込む朝日が、埃の粒を金色に照らしている。
ギルドマスター、ヴェルナーは予想外に若かった。三十代後半。短い金髪と鋭い顎。目は青灰色で、ハインツとは違うタイプの鋭さがある。ハインツが「見抜く目」なら、ヴェルナーは「見定める目」だ。値踏みではなく、使えるかどうかを判断する目。経営者の目。前の世界で取引先の役員にも同じ目をした人がいた。会議の最初の五秒で相手の値段を決める人種。
「座れ。レン・サエキ、だったか」
フルネームで呼ばれた。登録時は「レン」としか名乗っていないが、ハインツが補完したのだろう。
「昨夜の件は聞いている。エルドヴァインの暗殺者に襲われ、スキルで撃退した。怪我はないな」
「はい」
「単刀直入に言う。ギルドはお前を保護できる。だが条件がある」
ヴェルナーがデスクの上に書類を広げた。契約書。文字が細かい。
「ギルド直属の特別冒険者として登録する。通常の依頼ではなく、ギルドが直接指名する任務に従事する。報酬は通常の三倍。住居も提供する。代わりに、ギルドの指揮下に入り、独断行動を禁ずる」
条件を聞きながら、俺の中の社畜脳が自動的に分析を始めた。メリット:安全、収入、居場所。デメリット:行動の自由制限、指揮命令系統への従属、スキル使用の管理。
——これは雇用契約だ。前の世界と同じ構造。正社員として安定を得る代わりに、会社の指示に従う。福利厚生と引き換えの自由の放棄。
契約書の文字を追った。読点の位置、曖昧な表現の有無、義務と権利のバランス。社畜の目が自動的にスキャンする。前の世界では雇用契約書を何度も読んだ。就業規則も。三六協定も。全部読んで、全部理解した上で、それでも辞められなかった。理解と行動の間には、深い溝がある。
「もう一つの選択肢は」
「独立。フリーの冒険者として活動を続ける。ギルドは通常の範囲で支援するが、特別な保護は提供しない。北が来たとき、自分で対処する必要がある」
フリーランスか正社員か。前の世界で何度も聞いた二択だ。飲み会で同僚が「独立しようかな」と言うたびに、翌朝には何事もなかったかのように出社してきた。誰もが自由を夢見て、安定を手放せない。
前の世界で、俺はフリーランスになることを考えたことがあった。だが踏み出せなかった。安定が怖かったのではない。不安定が怖かったのだ。組織を離れたら、自分に価値があるのかわからなくなる。肩書きがなくなったら、俺は何者でもなくなる。
今も同じ恐怖が胸の奥にある。だが——
「ヴェルナーさん。一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「ギルド直属になった場合、俺のスキルの使用は誰が決めますか」
ヴェルナーの目が微かに動いた。この質問を予想していなかったのか、それとも予想通りだったのか。
「任務に応じてギルドが判断する。お前の能力が必要な局面で、指示を出す」
指示。命令。「やれ」と言われたら「はい」と答える。
ヴォルフのことを思い出した。三百年前の万象剥離の保有者。皇帝の命令で力を使い続け、制御を失って大陸を消した。命令に従う人間。自分で決断を下さないタイプ。
「もう一つ。ギルドの判断と俺の判断が食い違った場合は」
「ギルドの指揮下にいる以上、ギルドの判断が優先される」
明確だ。曖昧さがない。それはヴェルナーの誠実さだろう。嘘をつかない。だからこそ、はっきり見える。
この契約は——ヴォルフの再現だ。
組織に属し、命令に従い、力を使う。安全と引き換えに自由を渡す。前の世界で六年間やったことと同じ。そしてヴォルフが二十四年間やって、最後に壊れたことと同じ。
「結論を保留させてください」
ヴェルナーの眉が微かに上がった。デスクの上の紅茶が、もう冷めている。湯気が消えたカップが、交渉の長さを無言で示していた。
「理由は」
「情報が足りません。北がなぜ俺のスキルを欲しがるのか。前任者——ヴォルフ——が何をして、何が起きたのか。その全容を知らないまま判断するのは、不完全な情報でプロジェクトを始めるのと同じです。要件定義が甘いまま開発に入れば手戻りが発生する。判断も同じだ」
プロジェクト。手戻り。社畜用語が口をついた。ヴェルナーには通じていないだろうが、ハインツが隣で微かに頷いた。
「保留は認める。だが期限は設ける。十日後までに回答しろ」
「十分です」
部屋を出た。廊下を歩きながら、ハインツが横に並んだ。
「上手い答えだった。だが——十日で何を知るつもりだ」
「前任者のこと。大迷宮の壁画の続き。ヴォルフがなぜ制御を失ったのか。記録にない真実があるなら、それは大迷宮の奥にある」
ハインツの足が止まった。俺を見る目が変わった。
「第四十七層以深は王令で封鎖されている。Dランクでは許可が下りない」
「知っています。だから、許可なしで行くつもりです」
ハインツが黙った。五秒。十秒。
「……マルタに怒られるな」
「マルタさんは『自分で決めて使え』と言いました。これは俺の判断です」
「判断の根拠は」
「組織の指示で動くか、自分で動くかを決める前に、まず事実を知る必要がある。事実なしに判断すれば、それは判断ではなく賭けです。俺は社畜だった。勘で仕様を決めて炎上したプロジェクトを何件も見てきた。賭けじゃなくてデータで判断する人間です」
ハインツが長い息を吐いた。溜息とも嘆息ともつかない。だがその目には——信頼が浮かんでいた。
「俺の立場では、止めなければならない」
「はい」
「だが個人的には——行ってこいと思っている」
ハインツが背を向けた。階段を下りていく。途中で振り返らずに言った。
「大迷宮の第三十層あたりに、古い通路がある。門番の巡回が手薄になる時間帯がある。深夜二時から四時。それだけ伝えておく」
情報提供。ギルドの管理職が、規則破りを幇助している。
この男も——マルタと同じだ。立場では止めるが、心では背中を押す。
宿に——いや、もう宿は変えた。ギルドの仮眠室に戻った。
廊下を歩く足音が自分のものだけだ。深夜のギルドは静かだ。昼間の喧騒が嘘のように。蝋燭の灯りが廊下の壁に影を落としている。自分の影が、自分より大きい。
十日の猶予。大迷宮の深層。ヴォルフの真実。
掌の紋章が、静かに熱を帯びた。行けと言っている。答えはあそこにある、と。
社畜の俺が、初めて自分の判断で動こうとしている。ギルドの指示でも、ハインツの忠告でもなく。
怖い。だが——必要だ。
前の世界で、自分の判断で動いたことがあっただろうか。記憶を辿る。ない。一度もない。入社先も大学も、偏差値と求人倍率で「合理的」に選んだ。合理的に見えて、実態は「失敗しない選択」を選んでいただけだ。リスクの最小化。攻めの判断を一度もしないまま、六年が過ぎた。
今から俺がやろうとしていることは、リスクの最小化ではない。規則を破って迷宮の深層に潜る。失敗すれば命がない。合理的か? データは不十分。成功確率は算出不能。
——それでも行く。
「行く」と決めたのは、俺だ。ヴェルナーでもハインツでもない。俺が、俺の判断で。
その事実だけが、今の俺を動かしている。
仮眠室のベッドに横になった。天井が低い。手を伸ばせば届きそうだ。壁が近い。狭い。だがこの狭さが、逆に落ち着く。前の世界のカプセルホテルに似ている。終電を逃した夜に泊まったあの箱。三千円で借りる一晩の安全。あの狭い空間で天井を見上げたときと、今の気持ちは似ている。
毛布を引き上げた。洗濯されたばかりの布の匂い。清潔だが冷たい。体温で温まるまで数分かかる。その数分が、妙に貴重に感じた。
明日は何もない。依頼もない。段取りだけがある。大迷宮に潜る準備。ランタンの代わりに紋章の光。食料と水。帰還ルートの確認。そして——覚悟。
覚悟とは何か。怖いのに動くことだ。怖くないから動くのは、単なる無知だ。怖いと知った上で、それでも足を出す。それが覚悟だ。
掌を開いた。紋章が暗闇の中で微かに光っている。蛍火のような、弱い光。だがこの光は俺が灯した。誰かに灯させられたのではない。
決断するために。何を選ぶかを決めるために。まず、知らなければならない。知ることだけが、社畜にできる唯一の抵抗だ。
そして今夜——初めて、抵抗を選んだ。