第17話
第17話
夜道で襲われたのは、ハインツに尾行の件を報告した翌日だった。
依頼の帰り道。日没直後。ギルドから宿まで徒歩十分の、いつも通る裏通り。石畳が湿っていた。夕方に降った小雨が残っている。ランタンの灯りが石畳に反射して、道が鏡のように光っていた。空気が冷たい。冬が近い。吐く息が白くなり始めている。
最初に気づいたのは、足音だった。
俺の足音じゃない。背後に、もう一つ。リズムが微妙にずれている。俺が歩くと歩き、俺が止まると——一拍遅れて止まる。
尾行されている。昨日の路地の男か。別の人間か。
パニックにならない。社畜はパニックにならない。締め切り三時間前にクライアントが仕様変更を言い出しても、まず状況を把握する。それから対処する。息を整えた。心拍を意識的に下げる。呼吸が乱れると判断が鈍る。残業百時間の月末にこの呼吸法を覚えた。死にかけの社畜が身につけた唯一の護身術だ。
状況把握。足音は一つ。相手は一人。距離は十五歩ほど。靴音が軽い。革底だが重くない。鎧は着ていない。軽装。速い動きを想定した装備。
退路の確認。この通りは両側に建物が並んでいる。左に路地が一本。右に酒場の裏口。正面にギルドへ通じる大通り。大通りに出れば人目がある。だが大通りまで五十歩。足音の主が走れば、俺が大通りに出る前に追いつかれる。
左の路地は行き止まりの可能性がある。論外。右の酒場の裏口——鍵がかかっているかもしれない。リスクが高い。
選択肢は二つ。このまま歩いて大通りを目指すか、ここで立ち止まって対峙するか。
足を速めた。不自然にならない程度に。
背後の足音も速まった。
——来る。
右に飛んだ。反射だった。
風を切る音がした。俺の首があった場所を、何かが通り過ぎた。金属光沢。短剣。投擲。暗器使い。
石畳に転がって起き上がる。膝を擦った。掌が濡れた石畳に当たって冷たい。
影が動いた。路地の壁から人が飛び出してくる。黒い装束。顔の下半分を布で覆っている。手に短剣を二本。構えは低い。訓練された動き。素人じゃない。
暗殺者。
掌が灼熱した。紋章が白く光る。骨の芯まで熱が走る。反射的にスキルが発動しかけて——止めた。歯を食いしばった。顎が軋む。ここは市街地だ。制御を失えば周囲の建物まで剥がす。壁が剥がれれば建物が崩れる。中に人がいるかもしれない。
だが相手は待ってくれない。
暗殺者が跳んだ。短剣が光弧を描く。右から薙ぎ、返しで左。速い。剣術の型ではない。もっと実戦的な、人を殺すための動き。
後退した。壁に背中が当たる。逃げ場がない。
——使うしかない。
掌を前に出した。紋章が白く光る。
「剥離」
暗殺者の短剣——右手の一本——の刃が「剥がれた」。金属の表面が薄い層になって弾け飛ぶ。刃が一瞬で消えて、柄だけが残った。
暗殺者が一歩退いた。驚愕。黒い布の上の目が見開かれている。
左手の短剣を握り直す。まだ戦意がある。
もう一度。左手の短剣にも同じことをした。今度は刃だけでなく、柄の革の巻きも剥がした。短剣が素の金属棒になる。握りにくくなった柄が手から滑り落ちた。
暗殺者が完全に後退した。武器を失った。だが逃げない。俺を見ている。目が——情報を収集している目に変わった。瞳の色が暗闘でも見えた。灰色。冷たい灰色。感情を殺した目だ。任務の遂行から、情報の持ち帰りに切り替えたのだ。プロだ。失敗しても動揺しない。自分の命よりも情報の持ち帰りを優先する。そういう訓練を受けている人間の目だ。
身のこなしにも隙がない。常にこちらから距離を取りつつ、視線は俺の掌に固定されている。光った掌。紋章。それを記録している。映像として記憶に焼きつけている。
暗殺者の腕が見えた。装束の袖が少しまくれている。腕に刺青——いや、紋章。見覚えのあるデザイン。ハインツが見せた資料に載っていた。
エルドヴァイン帝国の国章。北の大国。
暗殺者が背を向けた。壁を蹴って、建物の屋根に飛び上がる。人間離れした跳躍。瓦が一枚、蹴り飛ばされて石畳に落ちた。乾いた破砕音。屋根を数歩走って、闇に消えた。追跡は不可能だ。
夜の通りに静寂が戻った。遠くの酒場から漏れる歌声だけが聞こえる。何事もなかったかのように。この通りで人が死にかけたことを、誰も知らない。
俺は壁にもたれた。膝が震えている。心臓が喉の奥で暴れている。掌の紋章がまだ微かに光っている。使った反動で、右手が痺れている。細かい震えが指先から手首まで走っている。
冷たい汗が背中を伝った。石畳に落ちた短剣の破片が、ランタンの灯りを反射して光っている。金属の薄い層が、花びらのように散乱していた。
生きている。
壁を背にしたまま、数十秒間動けなかった。呼吸を整える。心拍を下げる。体のコントロールを取り戻す。前の世界では、締め切り後の脱力感と呼んでいた状態だ。アドレナリンが引いた後の、全身の弛緩。
立ち上がった。ギルドに向かった。
ハインツは残業中だった。前の世界でもそうだが、裏方は遅くまで残っている。管理部門の宿命だ。事情を話すと、ハインツの顔から色が消えた。鷹の目が鋭さを増す。
「北が動いた」
ハインツの声が低い。怒りではない。覚悟の声だ。予想していた事態が、予想通りに起きたときの。デスクの上にあった書類を手早く片付けて、俺に椅子を差し出した。座った途端、膝の震えが止まった。硬い椅子の感触が、体を現実に引き戻してくれる。
「確保か排除か。どちらだと思いますか」
「今夜は偵察戦だ。お前の力を確かめに来た。結果を持ち帰って、次の手を決める」
つまり、これで終わりじゃない。本番はこれからだ。
「ハインツさん。俺はどうすればいい」
「まず安全を確保する。宿を変える。単独行動を禁止。依頼はパーティでのみ受ける。そして——」
ハインツが俺の目を見た。
「ギルドの庇護下に入るか、独立するか。選ぶ時が来た」
選択。マルタが言った「自分で決めろ」。ハインツが言った「選べ」。そして今、具体的な二択として目の前に置かれた。
ギルドの庇護下に入れば、組織が守ってくれる。だが組織の命令に従う義務が生じる。社畜に戻る。
独立すれば自由だ。だが守ってくれる壁がない。一人で北と対峙する。
「今夜は決められません」
「構わない。だが長くは待てない。北は次に来るとき、偵察では済まさない」
ハインツが窓の外を見た。夜の王都。松明の光が通りを照らしている。その光の届かない路地に、今も誰かが潜んでいるかもしれない。
俺はギルドの空き部屋で一夜を過ごした。硬い椅子に座って、天井を見上げる。掌の紋章が、暗闇の中で微かに脈打っていた。
部屋の壁に染みがあった。茶色い輪のような模様。雨漏りの跡か。染みを数えていると、意識が少しだけ落ち着く。一つ、二つ、三つ。無意味な行為が脳のノイズを抑える。社畜時代、パニックになりそうなときにやっていた技だ。会議室の天井のタイルを数える。意味はない。だが数えている間は、考えなくて済む。
北の大国。暗殺者。組織の庇護。独立。
前の世界では選ばなかった。会社に残るか辞めるか——選ばないまま、体が壊れた。
ここでは——選ぶ。今度こそ。
だがどちらを選ぶのかは、まだわからない。
椅子の肘掛けが硬い。体勢を変えても楽にならない。社畜時代、会社の仮眠室で何度も夜を明かした。あの時の方がベッドはましだった。だが今夜の不眠には、前の世界にはなかった理由がある。
命を狙われている。
文字にすると現実離れしているが、膝の擦り傷がじくじくと痛んでいて、これは夢ではないと証明してくれていた。短剣の風切り音が耳に残っている。あと一秒遅れていたら首に刺さっていた。その事実が、腹の底を冷やし続けている。
前の世界では、壊れても死ぬことはなかった。体が限界を超えて倒れても、病院に運ばれて点滴を打たれて、翌週には復帰する。社畜は死なない。消耗するだけだ。
この世界では——死ぬ。
短剣の一突きで。魔獣の一撃で。暗殺者の毒で。死は常に射程圏内にある。
前の世界で「消えたい」と思ったことは——正直、ある。終電を逃した深夜のホームで。三連休を全て出勤で潰した月曜の朝に。だがあの「消えたい」は本気の死ではなかった。この状態を止めたかっただけだ。
ここでは違う。死は願望ではなく現実のリスクだ。回避すべきインシデント。リスクマネジメントの対象。
その圧倒的な差が、選択の重みを変えている。