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断罪の夜に、悪役令嬢は戦略を選ぶ

第1話 第1話

第1話

第1話

「アンナリーゼ・フォン・ヴェルテンベルク——いや、セレスティーヌ。お前のような陰険な女に、王妃の資格はない」

大広間に響いたその声を、私は奇妙なほど遠くに感じていた。

シャンデリアの灯りが何百という蝋燭の炎を抱いて揺れている。蜜蝋の甘い匂いと、貴婦人たちの香水が混ざり合って、むせ返るような空気が大広間を満たしていた。磨き上げられた大理石の床に、私自身の影が小さく落ちていた。第二王子エドワード殿下——婚約者であったその人が、私の名を吐き捨てるように呼んだ。いいえ、正確には名ですらない。「セレスティーヌ」は洗礼名。公の場で爵位も敬称もなく呼ぶということは、もはや対等な貴族として扱う気がないという宣言に等しかった。

殿下の隣に寄り添う少女が、控えめに——けれど隠しきれない勝利の色を瞳に湛えて——微笑んでいる。リーナ・ファルケンハイン。男爵家の令嬢でありながら、聖女候補として宮廷に招かれた少女。柔らかな亜麻色の髪に、露草のような青い瞳。物語の主役にふさわしい、可憐な容姿だった。殿下の腕にそっと添えられた細い指が、まるで怯える小動物のように震えて見せている。計算された震えだと、今の私にはわかる。けれどこの場にいる誰もが、その可憐な仕草に心を奪われていた。

周囲からひそひそと声が湧く。嘲りと、安堵と、好奇。どれも私に向けられたものだ。

「まあ、やはり」「あの方ならいずれこうなると」「リーナ様のほうがお似合いですわ」

扇の陰に隠された唇が、毒を含んだ言葉を紡いでいく。つい昨日まで私に笑顔を向けていた令嬢たちが、もう別の花に群がっている。絹の手袋に包まれた手が扇をひらひらと揺らし、その向こう側で目だけが爛々と光っている。権力の風向きが変わったことを嗅ぎ取った獣たちの目だった。社交界とは、こういう場所だった。

そのとき——頭の奥で、何かが弾けた。

鮮烈な光。知らない部屋。知らない言葉。知らない、けれどどこか懐かしい記憶の奔流が、堰を切ったように流れ込んでくる。こめかみが焼けるように熱い。視界が二重に揺れ、大広間の光景の上に、まったく別の世界が透けて重なった。蛍光灯の白い光。指先に触れる平らな画面の冷たさ。イヤホンから流れる、聞き覚えのある旋律——。甘いミルクティーの匂い。散らかった机の上の参考書。カーテンの隙間から差し込む夕陽が、小さな液晶画面を橙色に染めていた。あの部屋で、私は確かに生きていた。

『——ああ』

私は、知っている。この場面を。この台詞を。この結末を。

蝋燭の炎がちらりと揺れた、その一瞬の間に、私の中でふたつの人生が重なった。

前の世界で——前世で、私はこの物語を知っていた。『聖薔薇の誓い』という名の乙女ゲーム。画面の向こうで幾度も繰り返した物語。リーナは光に満ちたヒロインで、エドワード殿下は攻略対象のひとり。

そして、セレスティーヌ・フォン・ヴェルテンベルクは——。

『悪役令嬢。ヒロインに嫉妬し、嫌がらせを重ね、最後は満座の前で断罪される。爵位を剥奪され、国外へ追放される、哀れな敵役』

目眩がした。けれどそれは、恐怖からではなかった。

大広間の喧噪が遠のいていく。嘲笑も、冷笑も、エドワード殿下の厳しい横顔も。すべてが薄い幕の向こうに押しやられ、代わりに前世の記憶が鮮明な輪郭を持って立ち上がる。

ゲームの筋書きでは、この断罪イベントの後、悪役令嬢は退場する。追放され、物語の舞台から消える。それで終わり——のはずだった。

けれど、ゲームにはもうひとつの結末があった。

公爵家ルートと呼ばれた、あの陰鬱なバッドエンド。セレスティーヌの追放後、父であるヴェルテンベルク公爵が汚職の罪で弾劾される。領地は王家に没収され、領民は流浪の民となり、名門公爵家は一夜にして歴史から消し飛ぶ。すべては——聖女リーナの物語を美しく完結させるための、犠牲として。

『汚職などしていない。あれは冤罪だった。ゲームの中でも、その伏線は張られていた。帳簿の改竄。架空の取引記録。誰かが周到に仕組んだ罠——』

背筋に冷たいものが走った。

私が追放されること自体は、もはやどうでもいい。王妃の座を失うことも、社交界での名誉が地に落ちることも。けれど、お父様が。領地の民が。何も知らぬまま、物語の生贄にされるなど——。

「セレスティーヌ、何か申し開きはあるか」

エドワード殿下の声が、現実に引き戻す。大広間の視線がすべて私に集まっていた。リーナが不安げに——演技だろう——殿下の袖を引いている。

私は深く息を吸った。肺の奥まで空気を満たし、ゆっくりと吐く。薔薇の芳香と蝋燭の煤けた匂いが、喉の奥でひとつになった。

胸の奥で、怒りと悲しみが渦を巻いている。前世の私なら泣いていたかもしれない。この世界のセレスティーヌなら、取り乱して醜態を晒していたかもしれない。ゲームの筋書き通りに。

けれど今の私は、どちらでもない。

「——殿下」

声が震えないよう、腹に力を込めた。唇の内側を噛んだ。血の味がした。その小さな痛みが、意識を現実に繋ぎ止める錨になった。

「お心は確かに承りました。婚約の解消をお望みであれば、正式な手続きを経てヴェルテンベルク家にご通達くださいませ。それが、王族としての礼節かと存じます」

大広間がしん、と静まった。断罪された令嬢が泣き崩れもせず、叫びもせず、礼節を説いている。その異質さに、貴族たちが言葉を失っていた。オーケストラの奏者までもが弓を止め、しんとした空気の中で蝋燭の芯が爆ぜる音だけが響いた。

エドワード殿下の眉がわずかに動く。想定していた反応と違ったのだろう。琥珀色の瞳に浮かんだのは怒りではなく、むしろ戸惑いに近い何かだった。口を開きかけ、けれど言葉が出ない。その沈黙が、殿下の台本にもこの展開が書かれていなかったことを雄弁に物語っていた。リーナの微笑みにも、ほんの一瞬、困惑の影が差した。

私は深く、完璧な一礼をした。スカートの裾を優雅に摘まみ、背筋を伸ばし、公爵令嬢として恥じることのない所作で。幼い頃から何千回と繰り返した礼だ。この身体が覚えている——ヴェルテンベルク家の誇りが、骨の髄まで染みついている。

「皆様、お目汚しを失礼いたしました。——ごきげんよう」

踵を返す。背中に視線が突き刺さる。嘲りではない、今度は困惑と驚きの視線だった。靴底が大理石を叩く音が、静まり返った大広間に規則正しく響く。一歩、また一歩。振り返るな。立ち止まるな。この背中だけは、決して揺らがせてはならない。

廊下に出ると、蝋燭の灯りがぐっと少なくなった。冷たい石壁の空気が頬を撫でる。大広間の喧噪が扉一枚で遠くなり、私はようやく自分の膝が震えていることに気づいた。

壁に手をつく。呼吸が浅い。指先が冷えきっている。石壁の冷たさが掌から腕を伝って、全身に染み渡っていく。額に浮いた汗が、夜気に触れてひやりと冷えた。コルセットの鯨骨が肋骨を締め付けて、浅い呼吸しかできない。ドレスの重みが肩にのしかかり、つい先ほどまで完璧に保っていた姿勢が、もう支えきれなくなっていた。

『落ち着きなさい、セレスティーヌ。——いいえ、落ち着きなさい、私』

二つの名前。二つの人生。混ざり合いながらも、意識は不思議なほど明瞭だった。

ゲームの知識が、時系列順に頭の中に並んでいく。断罪イベントの後、公爵家弾劾までおよそ半年。証拠の捏造はすでに始まっているはず。王都にいれば、王子派に攻撃の口実を与えるだけ。

感情に溺れている暇はない。悲しむのは後でいい。怒るのも、後でいい。

今すべきことは、ひとつ。

『この物語の筋書き通りには——絶対に、ならない』

震えが止まった。涙は、一粒も落ちなかった。

廊下の窓から夜空が見えた。春の星が、冷たく、けれどたしかに瞬いている。城壁の向こうに広がる王都の屋根が、月明かりに青白く照らされて、まるで凍りついた海のように見えた。

前世の記憶が教えてくれるのは、この先に待つ破滅の地図だ。だが地図があるなら、道は変えられる。ゲームの悪役令嬢は、泣いて終わった。けれど私は——。

遠くで夜会の音楽が再び流れ始めた。もう私のいない舞台で、物語は何事もなかったかのように進んでいく。

けれど知らないだろう、あの大広間の誰も。

この物語は——もう、あなたたちの思い通りにはならない。

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