第1話
第1話
厨房の火が、今日で最後になる。
そう悟ったのは、新任の料理長ガルドが白い調理服の襟を正しながら、レンの前に立った瞬間だった。背後には王宮の侍従が二人、書状を携えてこちらを見ている。厨房に漂う焼きたてのパンの匂いが、妙に遠い。
「レン。本日付で宮廷料理人の任を解く」
ガルドの声は、厨房全体に届くだけの張りがあった。竈の前で野菜を刻んでいた若い見習いが手を止め、鍋を見ていた古株のドミニクが目を逸らす。レンが十年かけて育てた厨房だった。焦げつかせない火加減も、下味の塩梅も、ここにいる全員にレンが教えた。
「理由を、伺っても」
声が震えなかったのは、どこかで予感があったからかもしれない。ガルドが着任してからの二ヶ月、レンの薬草を使った調理法は何度も槍玉に挙げられていた。献立の提出を求められるたびに薬草の配合を赤で消され、代わりにバターと砂糖の分量が書き足されていた。
「薬草ばかり弄んで料理の本質を見失った男に、王家の食卓を任せるわけにはいかん」
ガルドは書状を差し出しながら、まるで汚れた布巾を片付けるような手つきで言った。その太い指には脂の匂いが染みついていた。肉を焼き、バターを溶かし、見栄えのする皿を組み立てる——ガルドの料理はそういう種類のものだった。旨いが、翌日には忘れる味。レンはそう思ったが、口には出さなかった。ここでの言葉はもう、何も変えない。侍従の一人がレンの調理台に目録を広げる。備品の返却リストだった。鍋、包丁一式、薬草棚、調味料。十年で揃えたものが、すべて王宮の所有物として記されている。
レンは目録に目を落とした。確かに、どれも宮廷の予算で揃えたものだ。返すのが道理だろう。ただ一本、柄の削れた古い包丁だけが記載されていなかった。着任した日に自前で持ち込んだもので、王宮の備品台帳にはもとから載っていない。
「これだけは、私のものですので」
包丁を腰帯に差し、レンは白い調理服を脱いだ。畳んで調理台に置く。十年着たそれは何度も洗い直して薄くなっていたが、染み一つなかった。布地を通して、自分の体温がまだそこに残っているのがわかった。すぐに冷めるだろう。厨房の空気は温かいが、この服はもうレンのものではない。
厨房を出るとき、振り返らなかった。振り返れば、誰かが目を合わせてくれるのを期待してしまう。その期待を裏切られるのが怖かった。
誰も、声をかけなかった。
背後で竈の火が爆ぜる音がした。鍋の底が焦げかけているときの音だ。反射的に足が止まりそうになったが、レンはそのまま歩いた。もう、あの火はレンの火ではない。
王宮の長い廊下を歩く。窓の外に灰色の雲が広がっていた。石畳に水の匂いが滲み始めている。もうすぐ雨が来る。磨き上げられた床にレンの靴音だけが反響し、すれ違う文官が一瞬こちらを見て、すぐに視線を外した。噂はもう回っているのだろう。宮廷とはそういう場所だ。宮仕えの者は皆、通用口から出入りするのが習わしだが、今日のレンはもう宮仕えではない。正門を通る理由もないが、通用口を使う資格もなかった。
結局、搬入口から外に出た。野菜や肉を運び込むための、飾り気のない石の通路。荷車の轍が刻まれた地面は濡れ始めていて、レンの靴底が水を踏む音だけが響いた。
雨が降り出した。
外套の下、懐に手を入れると、指先に小さな硬い粒が触れた。薬草の種だ。三種類、紙に包んで忍ばせておいたもの。宮廷の薬草棚から拝借した——いや、正確にはレンが自ら栽培し、収穫した種を、宮廷の棚に戻さずに手元に残しておいたものだ。備品台帳に種の数までは記載されていない。唯一、レンの意思で持ち出せたもの。
王都の大通りを歩く。雨は本降りになっていた。行き交う人々は足早に軒先へ駆け込んでいく。レンだけが立ち止まる場所を持たず、濡れるままに歩いた。雨水が首筋を伝い、背中に冷たい線を引いていく。不思議と、嫌ではなかった。厨房の蒸気と煤にまみれた十年の肌を、雨が一枚ずつ洗い流していくような気がした。水溜まりに映る自分の顔を一瞬だけ見下ろした。思ったより穏やかな顔をしていた。怒りでも悲しみでもなく、ただ長い一日を終えた人間の顔だった。
十年だった。
十七で包丁を握り始め、二十で宮廷に入り、それから十年。毎朝四刻に起きて火を熾し、夜は厨房の片付けが終わるまで帰らなかった。王族の好みを覚え、季節の食材を吟味し、祝宴の献立を何日もかけて組み立てた。薬草を料理に取り入れたのは五年ほど前からだ。古い文献に記された薬膳の技法を独学で研究し、食材と薬草の相性を一つずつ試していった。体の冷えを和らげるスープ、胃を休めるデザート、疲れた体に染み渡る粥。食べた者が翌朝少し元気になる——そんな料理を目指していた。
だが宮廷の評価基準は、味と見栄えと格式だった。薬草の効能は「料理人の領分ではない」とされ、薬師の職域を侵すものとして何度も注意を受けた。それでもレンがやめなかったのは、食べた人の顔が変わる瞬間を知っていたからだ。冬の朝、温めた薬湯粥を差し出したとき、庭番の老人が目を丸くして「体の芯に火が灯ったようだ」と言った。あの声と、あの顔。それがレンの料理の原点だった。
もっとも、その顔を見せてくれたのは厨房の下働きや庭番といった、王族以外の者たちばかりだったが。
レンは濡れた前髪を払い、空を見上げた。灰色の雲の切れ間はどこにもない。王都の門が近づいてくる。門兵が退屈そうに槍を抱えて立っている。この門を出れば、もう戻る場所はない。
懐の種に、もう一度触れた。紙越しに伝わる小さな粒の感触。この種がどんな芽を出すのか、宮廷の薬草棚では確かめられなかったことがいくつもある。土の質、水の量、日の当たり方。文献に書かれていない、自分の手で試すしかないこと。
——もう、誰かの評価のために火を焚くのはやめよう。
思ったより静かに、その考えは降りてきた。悔しさや怒りではなく、雨に濡れた石畳のように、ただそこにあるものとして。
門をくぐった。門兵は一瞥もくれなかった。当然だ。宮廷を追われた料理人など、この街では毎日のように生まれては消えていく。
門の外に、辺境行きの乗合馬車が停まっていた。幌が雨を受けて重たげにたわんでいる。御者台の老人が煙管をくゆらせながら、出発を待つ客を数えていた。
「どこまで行く」
「一番遠くまで」
老人は煙管の先でレンを指し、値段を言った。財布の中身でちょうど足りる額だった。まるで最初からそう決まっていたかのように、銅貨の枚数が過不足なく揃っていた。レンは銅貨を数えて渡し、荷台の隅に腰を下ろした。濡れた外套から水が滴り、木の荷台に小さな染みを作っていく。
幌の隙間から、王都の城壁が見えた。雨に煙るその輪郭は、十年前に初めて見たときよりもずいぶん小さく見えた。あのとき城壁は、世界の果てのように高く、その内側にすべてがあると信じていた。馬車が動き出す。車輪が泥を噛み、ゆっくりと、街道を西へ進み始めた。
荷台には他に三人の客がいた。商人らしい中年の男、荷物を抱えた若い女、それから毛布にくるまって眠っている子ども。誰もレンに関心を示さなかった。それでよかった。今は誰とも話したくない。
レンは外套の襟を立て、幌の隙間から流れ込む風に目を細めた。雨の匂いの奥に、かすかに土と草の気配が混じっている。王都を離れるほどに、空気の質が変わっていく。石と煙の匂いが薄れ、代わりに、もっと古くて深いものが鼻腔に触れる。
包丁の柄が腰に当たる。硬くて、少しだけ温かい。
街道の両側に、名前も知らない草花が揺れていた。雨粒を受けて頭を垂れながら、それでも茎はまっすぐ立っている。レンはその草花をぼんやり眺めながら、いつの間にか目を閉じていた。馬車の揺れが、厨房の喧騒よりもずっと穏やかに、体を揺らしている。
眠りに落ちる間際、指先にまだ種の感触が残っていた。小さくて硬い、けれど確かにそこにある粒。どこに蒔くのかはまだわからない。ただ、この種を土に還してやりたいと思った。王宮の棚ではなく、雨と風のある場所で。
馬車は雨の街道を西へ走る。王都の灯が遠ざかり、やがて闇に溶けた。