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破滅フラグ管理表の悪役令嬢

第1話 第1話

第1話

第1話

「アンナリーゼ・フォン・ヴェルテンベルク。我が婚約を破棄する」

——違う。私の名はそうではない。

王太子エドワルドの声が、大広間の天井に吸い込まれていく。シャンデリアの燐光が数百の宝石を煌めかせ、その一粒一粒が私を見下ろす瞳のようだった。高い天井に描かれた天使の群像画すら、今はこちらを指差して嗤っているように見える。

「聖女リリアーヌを虐げ、その尊き使命を妨げた罪、もはや看過できぬ」

彼の金糸の髪が、演説の熱に揺れている。いつもは優雅に撫でつけられたそれが乱れているのは、おそらく怒りのためだろう。いいえ——あれは怒りではない。陶酔だ。正義を行う自分に酔っている。頬にさした紅潮、わずかに上ずった声の調子。二年間の婚約期間で彼の隣に立ち続けた私には、それが手に取るようにわかった。エドワルドは昔からそうだった。自分が物語の英雄であると信じたい人だった。

私の名はセラフィーナ・フォン・グランツハイム。公爵家の一人娘にして、今まさに、数百人の貴族の前で断罪されている女。

不思議なものだった。エドワルドの言葉が重なるたびに、頭の奥で別の記憶が弾けた。小さな画面。指先で選ぶ選択肢。攻略サイトのスクリーンショット。——ああ、そうだ。これは『聖光のエトワール』。私が前の人生で、大学の試験前に夜通しプレイした乙女ゲームの世界だ。

記憶は唐突に戻ってきた。コンビニのコーヒーの味。レポートの締切。充電器を挿したまま布団に潜って、好感度を上げるためだけに同じ選択肢を何度も繰り返した夜。安いイヤホンから流れるBGMと、画面の光だけが暗い部屋を照らしていた。あの頃の私にとって、セラフィーナ・フォン・グランツハイムは「序盤で退場する噛ませ役」でしかなかった。攻略対象の好感度を上げるための踏み台。wiki には「救済ルートなし」とだけ書かれていた。

そして私は、その物語で処刑される悪役令嬢。

「セラフィーナ、何か申し開きはあるか」

エドワルドが顎を上げて私を見据えた。その碧い瞳には裁く者の確信が宿っていて、かつて春の庭園で私に微笑みかけたのと同じ目だとは、とても信じられなかった。その隣で、聖女リリアーヌが絹のハンカチを目元に当てている。淡い金の巻き毛に涙の雫が落ち、シャンデリアの光を受けて真珠のように輝いていた。完璧な構図だった。悪辣な公爵令嬢と、虐げられた可憐な聖女。誰もがこの物語の筋書きを信じるだろう。

周囲の貴族たちの表情が、それを証明していた。前列に並ぶ侯爵家の夫人たちは扇で口元を隠しながらも、その目は残酷な好奇心で光っている。隣国からの使節は居心地悪そうに目を逸らし、壁際に控える侍女たちの何人かは、かつて私に挨拶をしてきた顔ぶれだったが、今は誰一人としてこちらを見ようとしない。

けれど私の心は不思議なほど凪いでいた。むしろ、ずっと胸の奥につかえていた重石がほどけていく感覚すらあった。

『落ち着きなさい、セラフィーナ。いえ——落ち着いて、私』

前世の記憶と今世の記憶が急流のように混ざり合い、眩暈がした。セラフィーナとして過ごした十七年の記憶——厳格な父の書斎の革の匂い、礼儀作法を叩き込まれた冬の朝、エドワルドに初めて手を取られた春の庭園。それらが前世の記憶と激しくぶつかり合い、頭の中が二重写しになる。けれどその濁流の中から、ゲームの知識だけが鮮明に浮かび上がってくる。

悪役令嬢セラフィーナの処刑エンド。その条件は、四つの破滅フラグがすべて成立すること。

一つ、王太子による公衆の面前での婚約破棄——断罪イベント。

これは今、まさに起きている。もう防ぎようがない。通過済み。

二つ、聖女暗殺未遂の冤罪。セラフィーナが聖女に毒を盛ったという偽りの証拠が提出される。

三つ、領地反乱の扇動者として名指しされる。グランツハイム領の民が蜂起し、その首謀者が公爵令嬢だと断じられる。

四つ、最終審問での有罪判決。すべてのフラグが揃った上で、大法廷において処刑が宣告される。

ゲームの攻略wikiでは、これらのイベントはヒロインの好感度が一定値を超えた時点で自動的に発生するとされていた。プレイヤーにとっては背景演出に過ぎない四つの出来事が、今の私にとっては生死を分ける分水嶺になっている。

『残る破滅フラグは、あと三つ』

私は息を吸った。薔薇の香油と蝋燭の煤が混じった、舞踏会特有の甘く重たい空気が肺を満たす。

「申し開きなど、ございません」

自分の声が思いのほか澄んでいることに、少し驚いた。

大広間がざわめいた。令嬢たちが扇の陰で囁き合い、紳士たちが眉をひそめる。反論も、涙も、懇願もなく——ただ静かに事実を受け入れる公爵令嬢の姿は、彼らの期待した見世物とは違ったのだろう。

「殿下のご判断に異を唱えるつもりはございません。婚約の解消、謹んでお受けいたします」

エドワルドの碧眼が一瞬だけ揺れた。おそらく彼は、私が泣き叫ぶか、あるいはリリアーヌに罵声を浴びせると思っていたのだ。ゲームの中のセラフィーナなら、きっとそうしただろう。断罪の場で聖女を罵り、居並ぶ貴族たちの心証をさらに悪くし、自らの首を絞めていく——それが本来の筋書き。

けれど私は、もうその台本通りには動かない。

深く、ゆっくりと一礼した。ドレスの裾が大理石の床に広がり、絹が冷たい石の温度を拾う。背筋を伸ばしたまま身体を折る動作は、幼い頃から叩き込まれた公爵令嬢の所作だった。この身体が覚えている礼儀作法が、今は盾になる。

「リリアーヌ様」

私が聖女に声をかけると、彼女の肩がびくりと震えた。ハンカチの陰から覗く翡翠の瞳に、一瞬だけ——怯えとも警戒ともつかないものが走ったのを、私は見逃さなかった。ゲームでは慈愛に満ちた微笑みしか見せなかったはずの聖女の、剥き出しの感情。それはほんの一瞬で消え、すぐにいつもの儚げな表情が戻ったけれど、私の中で小さな棘のように引っかかった。

「どうかお健やかに。殿下をお支えくださいませ」

それだけ言って、踵を返した。

背中に数百の視線が突き刺さる。嘲りと、困惑と、ほんの僅かの畏れが入り混じった視線。足音が大広間に響く。一歩、また一歩。泣かない。振り返らない。公爵令嬢として最後の舞台を、せめて美しく降りてみせる。

大扉に手をかけた瞬間、視界の端に一人の男が映った。

壁際に腕を組んで立つ、騎士団の制服を纏った長身の男。漆黒の髪に鋼の双眸。王太子の近衛でありながら、断罪劇に一度も声を上げなかった男——騎士団長レオンハルト。

彼の視線だけが、嘲笑でも同情でもなかった。

まるで、試合を観る剣士のような目だった。私の一手一手を、静かに読んでいるような。その鉄灰色の瞳と目が合った一瞬、背筋に電流のようなものが走った。あの目は知っている——前世で攻略サイトに載っていた、隠しルート攻略対象の立ち絵の目だ。けれど画面越しに見るのと、生身の人間として視線を交わすのとでは、まるで重みが違った。

大扉が閉まる。大広間の喧噪が分厚い樫の扉に遮られ、回廊には私の靴音だけが残った。

壁に背を預け、目を閉じる。指先が微かに震えていた。冷静を装ってはいたけれど、心臓はとうに悲鳴を上げている。こめかみに汗が伝い、コルセットに締め付けられた胸が苦しい。一つ、二つ、深く息を吐いて、自分の鼓動が落ち着くのを待った。

『三つのフラグ。暗殺未遂の冤罪、領地反乱、最終審問。この三つを潰せば——私は、死なずに済む』

まだ震える指を握りしめた。大理石の壁は冷たく、その冷気が薄い手袋越しに指先まで染みてくる。どこか遠くで楽団が次の曲を奏で始めている。軽やかなワルツの旋律。何事もなかったかのように。舞踏会は続く。私が退場したことなど、余興の一幕に過ぎないのだろう。

けれど構わない。

私の戦いは、今この瞬間から始まる。あの大広間の華やかな燐光の下ではなく、誰の目にも触れない暗い回廊で。たった一人で。

『——まず、最初のフラグを潰す方法を考えなくては』

靴音を殺して歩き出す。舞踏会の音楽が遠ざかる。振り返らなかった。

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