第3話
第3話
闇は、生きていた。
大地の裂け目に身を滑り込ませた瞬間から、カイの周囲を満たしていたのは単なる暗がりではなかった。瘴気を孕んだ闇が皮膚に纏わりつき、息を吸うたびに肺の奥を細い針で突くような痛みが走る。口元に巻いた布切れは、すでに湿り気を帯びて重くなっていた。
足元は不安定だった。崩落で露出した岩肌は鋭く、手探りで進むたびに掌が切れた。血の匂いが瘴気に混じり、自分がどこにいるのかさえ分からなくなる。ただ下へ、下へと続く傾斜だけが道標だった。
どれほど降りただろう。時間の感覚はとうに失われていた。
最初の魔物に遭ったのは、岩壁が広い空洞に開けた場所だった。暗闇に慣れ始めた目が、前方に蠢く影を捉える。四つ足の獣——だが、体表が瘴気の黒い靄を纏い、眼窩には赤い光が灯っていた。瘴気に蝕まれた魔物だ。酒場の冒険者たちが「穢れ獣」と呼んでいたものに似ている。
カイは息を殺した。包丁を握る手が震えている。戦えるはずがない。武器は刃こぼれした調理用の包丁一本。戦闘の訓練など一度も受けたことはない。
穢れ獣が首をもたげた。赤い光がカイの方を向く。
走った。
考えるより先に体が動いていた。右手の岩壁に沿って駆け、穢れ獣の突進を紙一重で躱す。爪が外套の裾を裂き、背中に熱い衝撃が走ったが、止まらなかった。路地裏で追手から逃げた経験が、頭ではなく足に刻まれている。狭い隙間に体を捩じ込み、獣の体躯が通れぬ岩の割れ目に滑り込んだ。
背後で獣が岩壁に体を打ちつける音が響き、やがて唸り声が遠ざかっていく。カイは岩の隙間にうずくまったまま、荒い息を押し殺した。心臓が喉元まで迫り上がり、全身の血が耳の奥で脈打っている。
背中の傷が熱い。浅いが、血が滲んでいるのが服越しに分かった。
——引き返すなら、今だ。
その声は、自分の内側から聞こえた。正しい判断だと頭では分かっている。このまま進めば、次は逃げ切れないかもしれない。A級の冒険者ですら退いた場所に、丸腰の孤児が立ち入っている。愚かだ。無謀だ。死にに来たようなものだ。
だがカイは、岩の隙間から這い出した。
エルダの顔が浮かんでいた。皺に埋もれた目。否定しない声。あの椀の温もり。それだけが、恐怖を塗り潰して足を前に動かした。
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瘴気は深くなるほどに濃さを増した。
三度目の穢れ獣を空洞の陰に身を潜めてやり過ごし、二度の落石を間一髪で躱し、足を滑らせて岩棚から転がり落ちた。左の膝を強打し、立ち上がるたびに鈍痛が走ったが、骨は折れていないようだった。
体の異変に気づいたのは、広い縦穴を降りる岩場でのことだった。手足が重い。単なる疲労ではない。指先の感覚が薄れ、視界の端に紫色の靄がちらつき始めている。瘴気が体を蝕み始めていた。冒険者たちが語っていた症状と一致する。このまま進めば、やがて意識を失い、二度と目覚めない。
それでも足は止まらなかった。止まれなかったと言うべきか。恐怖も理性も、もはやカイの足を支配してはいなかった。ただ一つの執念だけが、壊れかけの体を闇の底へと引き摺り下ろしていく。
最後の岩壁を降りたとき、空気が変わった。
瘴気は依然として濃い。だがそこに、別の何かが混じっていた。古い。途方もなく古い気配。千年の眠りから覚めた森の底のような、時の堆積そのものが匂いになったかのような——カイの知る言葉では表しきれぬ厳粛さが、空洞の空気を満たしていた。
足元に微かな光があった。
岩壁に走る筋が、淡い蒼色の光を帯びて脈動している。古代の紋様だった。幾何学的でありながら、どこか生き物の血管を思わせる曲線が、洞窟の壁面を這うように広がっている。その光に照らされて、空洞の全貌がカイの目に映った。
広かった。レグノスの中央広場がまるごと収まるほどの巨大な空間。天井は闇に溶けて見えず、壁面の紋様だけが蒼い光の脈を刻んでいる。そして——空洞の中央に、それはあった。
最初は岩山だと思った。だが岩山は呼吸しない。
蒼い光に照らされたその巨躯は、全長にして二十間を優に超えていた。漆黒の鱗が一枚一枚、盾のように重なり合い、その隙間から古い苔と鉱石の結晶が生えている。折り畳まれた翼は洞窟の壁に届くほどに大きく、長い尾が空洞の縁をぐるりと巡っていた。数百年という歳月が、この巨大な体をほとんど地形の一部へと変えていた。
竜だ。
カイの膝が崩れた。恐怖ではない。瘴気に蝕まれた体が、ついに限界を迎えたのだ。視界が明滅し、手に握っていた包丁が岩の床に落ちて甲高い音を立てた。その音が——空洞に木霊した。
竜の巨体が、微かに動いた。
鱗の隙間から砂礫がこぼれ落ち、苔が剥がれる。地鳴りのような振動が空洞を揺らし、やがて長い首がゆっくりと持ち上がった。そこに灯った瞳は、蒼穹の色をしていた。空よりも深く、海よりも古い蒼。数百年の眠りの底から浮上してきたその瞳が、崩れ落ちた少年を見下ろした。
『——人の子か』
声は耳で聞いたのではなかった。頭蓋の内側に直接響く、低く重い声。骨が共鳴し、血が震える。言葉というよりも、意思そのものが注ぎ込まれるような感覚だった。
カイは石の床に片膝をつき、もう片方の膝も崩れかけていた。瘴気に蝕まれた体は指一本を動かすのも困難で、視界は紫色の靄に侵食されている。それでも——顔だけは上げた。蒼い瞳を、真っ直ぐに見返した。
『ほう』
竜の声に、微かな響きが加わった。驚きか、あるいは興味か。
『瘴気に臓腑を半ば喰われながら、なお目が死んでおらぬ。何に駆られてここまで来た、小さき者よ』
答えなければ。口を開こうとしたが、声が出ない。喉が焼けるように痛む。瘴気が声すら奪おうとしている。
カイは歯を食いしばり、残った力の全てを喉に注いだ。
「——人を、探しに来た」
かすれた声が、空洞にぽつりと落ちた。竜の巨体と比べれば蟻のささやきにも等しいその声を、古竜は確かに聞いていた。
『人を探しに。武器も持たず、力も持たず、死にかけの体で——人を探しにきたと申すか』
沈黙が降りた。蒼い紋様の光が脈打ち、古竜の鱗に反射して空洞全体がゆっくりと明滅する。
やがて古竜は首を下ろし、その巨大な顔をカイの目の前まで近づけた。吐息が熱い。焦げた鉱石のような匂いが鼻腔を満たし、蒼い瞳が至近距離でカイの目を覗き込む。
『我はヴァルディアス。かつてこの大陸の空を統べた最後の古竜。……長い眠りであった。目覚めの理由が地の揺れか人の子の足音か、もはや判じがたいが——』
古竜の瞳が細められた。
『お前の魂に、懐かしい焔の色を見る。遥か古に失われたはずの——いや、よい。言葉は後だ。このままではお前は死ぬ』
カイの意識が揺らいだ。体が前のめりに倒れかける。その瞬間、古竜の爪がカイの体を支えた。山の岩肌のように硬く冷たい鱗の感触が、薄れゆく意識の中で妙に鮮明だった。
『聞け、人の子よ。我はお前に契約を持ちかける。我が力の一端をお前の魂に刻む。引き換えに、お前は我の目となり耳となり、この腐った瘴気の根源を突き止める。——受けるか』
断る理由があるとすれば、それは正常な判断力を持つ者の話だ。意識が途切れかけた少年に、条件を吟味する余裕はない。だがカイが最後に搾り出した言葉は、取引への同意ではなかった。
「——婆さんを、助けられるか」
古竜の瞳が、一瞬だけ揺れた。数百年を生きた存在の、ほんの僅かな感情の波紋。
『試練は自らの足で越えよ。——だが、死にはさせぬ』
カイが頷いた。それが同意の合図だったのか、意識を失う寸前の痙攣だったのか、本人にも分からなかった。
古竜の蒼い瞳が輝きを増した。空洞の紋様が一斉に脈動し、蒼い光が壁面から奔流のように溢れ出す。その光がカイの胸に集束した瞬間——灼けるような痛みが魂の芯を貫いた。
叫び声は出なかった。声を上げる間もなく、カイの体は蒼い光に呑まれた。胸の中心に、見えない焔で文字を刻むような熱さ。それは痛みを越え、やがて身体の隅々にまで広がり、瘴気に蝕まれた細胞の一つ一つを焼き清めていく。
竜契の刻印。古竜と人の子を繋ぐ、太古の盟約の証。
光が収まったとき、カイは石の床に仰向けに倒れていた。瘴気の苦しみは嘘のように消えていた。代わりに、胸の奥に見知らぬ力の脈動を感じる。心臓とは別のもう一つの鼓動。広大で、深く、自分の器には到底収まりきらない何かが、魂の底で静かに渦を巻いていた。
蒼い光の残滓の中で、古竜の声がもう一度響いた。
『《万象支配》——それが我の名においてお前に授ける力の名だ。万物の理を操る古代の技。だが今のお前では、その力の千分の一も引き出せまい』
カイの意識が遠のいていく。最後に見えたのは、蒼い瞳の奥に浮かんだ古竜の——それは憂いとも、期待ともつかぬ表情だった。
暗転する視界の中で、カイの胸の刻印だけが蒼く脈打ち続けていた。地の底の揺籃に抱かれるように、少年の体が光に包まれる。
遥か頭上では、レグノスの夜空に一筋の蒼い光柱が立ち昇り、やがて静かに消えた。街の誰もがそれを見たが、何を意味するのかを知る者は——まだ、いなかった。