第3話
第3話
扉の向こうでは、まだ楽団が優雅な旋律を奏でている。
控えの間に入ると、エルザが音もなく扉を閉めてくれた。真鍮の錠が噛み合う小さな音が、やけに大きく響いた。それは大広間の喧騒を完全に断ち切る音でもあった。ようやく——ようやく、誰の視線もない場所に辿り着いた。
私は窓辺の長椅子に腰を下ろした。膝の上で手を組もうとして、指先がまるで言うことを聞かないことに気づいた。手袋を外す。白絹の下から現れた素手は、自分のものとは思えぬほど白く、そして震えていた。爪が食い込んだ掌に、赤い三日月の跡が四つ。痛みは感じない。感じないことが、かえって恐ろしかった。
エルザが黙って傍に来て、震える私の手を両手で包んだ。老いた指の温かさが、凍えた皮膚にじわりと沁みる。節くれだった指は、幼い頃に髪を梳いてくれた手と同じ形をしていた。この人の手だけが、今の私に残された唯一のぬくもりだった。
「お嬢様——」
「泣いてはいないわ、エルザ」
声は平坦だった。事実を述べただけだ。涙は出ない。出すつもりもない。大広間で完璧に演じ切ったものを、ここで崩すわけにはいかなかった。泣いてしまえば、あの場で微笑んだことの意味が消えてしまう。
けれど手の震えだけは、意志の力では止められなかった。
「存じております」
エルザはそれだけ言って、私の手を包んだまま黙った。何も聞かない。何も慰めない。この人はいつもそうだ。母が亡くなった日も、王太子殿下に初めて冷たくされた夜も、エルザはただ傍にいて、沈黙を守ってくれた。言葉は時として刃になる。この人はそれを知っている。
窓の外に目を向けた。建国祭の夜空に花火が上がり始めている。赤、金、白——色とりどりの光が闇を裂いては消えていく。歓声が遠く聞こえる。王都の民は今宵を楽しんでいるのだろう。王太子殿下の新しい伴侶の発表を、祝福の声で迎えているのかもしれない。あの光の一つひとつが、もう私のための祝祭ではないのだと思うと、胸の奥がしんと冷えた。花火の残滓が夜空をゆっくり流れ落ちていく。まるで誰かの涙のように——いいえ、私の涙ではない。
八年という歳月を思った。
十の歳で婚約が決まり、十二で王宮に上がり、十八の今宵、すべてが終わった。社交の作法、外交の心得、舞踏の所作、茶会の采配——王太子妃となるために費やしたあらゆる時間が、大広間のあの一言で灰になった。いいえ、灰になどなってはいない。学んだことは私の中に残っている。ただ、それを捧げるべき相手がいなくなっただけだ。
不意に、控えの間の扉が叩かれた。
エルザが応じると、公爵家の使用人が一通の書状を差し出した。封蝋は押されておらず、折り畳んだだけの素っ気ない紙片。私の手に渡される前に、使用人は足早に去っていった。目を合わせようともしなかった。
開く。
父の筆跡ではなかった。家令のものだ。つまり父は自らの手で書くことすらしなかったということだ。文面は簡潔だった。
『本日中に私室の荷をまとめ、屋敷を出られたし。以後の住居については追って通達する。なお、公爵家紋章の入った品はすべて置いていくように』
それだけだった。労いの言葉も、今後の身の振り方への言及も、娘への一片の情も——何ひとつ書かれていなかった。
紙片を膝の上に置いた。震えていた指が、不思議と止まった。悲しみが深くなりすぎると、身体はかえって凪ぐものなのだと初めて知った。
「エルザ」
「はい、お嬢様」
「今夜中に、この屋敷を出なければならないそうよ」
エルザの表情が一瞬だけ歪んだ。けれどすぐに元の穏やかな顔に戻り、小さく頷いた。
「かしこまりました。お支度をいたしましょう。……どちらへ参りますか」
どちらへ。
その問いに、私は答えを持っていなかった。王都に頼れる親族はいない。母方の縁者は遠い辺境にいるが、交流は途絶えて久しい。社交界の知人は多いが、今夜のうちに門を叩いて迎え入れてくれる者など一人もいないだろう。公爵令嬢と親しくしていた者たちは、今頃「元」の一字を付けて私を語り直しているに違いない。
窓の外の花火が、ひときわ大きく弾けた。
その閃光に照らされた一瞬、記憶の底から一つの光景が浮かび上がった。
幼い日——母がまだ元気だった頃。書斎の暖炉の前で、母が古い地図を広げて見せてくれたことがあった。色褪せた羊皮紙の上に、母の細い指がある一点を指し示す。薪の爆ぜる音と、母の衣擦れの香りが、記憶の中にまだ生きていた。
『ここが、母様の故郷よ。グレンツハイム——国境の町。山と森に囲まれた、小さな領地。あなたの名前は、ここから取ったの』
リーゼロッテ・フォン・グレンツハイム。この姓は父の公爵家のものではない。母の生家の名だ。父は婚姻の際に母の家名を残すことを許した——辺境の小領主の血筋など気にも留めていなかったからだろう。
グレンツハイム。国境沿いの辺境領。帝国との境に位置する、地図の端に追いやられた小さな土地。母が亡くなってからは領主不在のまま放置されていると聞いている。公爵家にとっては利用価値のない僻地に過ぎない。
けれど私にとっては——今この瞬間、世界でたったひとつ、私の名前と結びついた場所だった。
「グレンツハイムへ行くわ」
声に出した瞬間、自分の中で何かが定まった。揺れていた天秤の片方に、小さな、けれど確かな重みが乗った感覚。
エルザが目を見開いた。
「お母様の——」
「ええ。母の故郷。あそこならば、誰に遠慮することもない。公爵家の庇護も、王都の社交界も、すべて要らない」
自分の言葉が、思いのほか澄んだ響きを持っていることに驚いた。悲壮な決意ではなかった。追い詰められた末の逃避でもなかった。もっと静かな——霧が晴れて、行くべき道が一本だけ見えたような、そういう感覚だった。
エルザは数秒の沈黙のあと、深く頭を下げた。
「お供いたします」
「エルザ、あなたは公爵家の使用人よ。私について来る義務はないわ」
「義務で申しておりません」
老侍女の声には、珍しく強い力が籠もっていた。顔を上げたエルザの目に、涙はなかった。代わりにあったのは、もう何も譲る気のない静かな決意だった。
「奥様にお仕えし、お嬢様をお育て申し上げたこの身を、今さら他の誰にお使いいただくというのですか。私の行き先は、お嬢様のいらっしゃる場所だけでございます」
喉の奥が熱くなった。泣かない。泣かないと決めたのだ。けれどその熱さは目頭ではなく胸の底に沈み、そこで静かに灯をともした。私は唇を引き結び、ただ一度だけ頷いた。
「では、支度をしましょう。持ち出せるものは多くない——公爵家紋章の入った品は置いていくようにとのことだから」
立ち上がり、ドレスの裾を払った。鏡台の前を通りかかったとき、一瞬だけ足を止めた。
鏡の中の私は、もう今朝とは別人のようだった。真珠の髪飾りは公爵家の品だから外さなければならない。薄紅色のドレスも、銀糸の刺繍も、すべて置いていくことになるだろう。それでも——鏡の中の瞳だけは、まだ光を失ってはいなかった。
香水瓶に手を伸ばした。白薔薇と柑橘の香り。蓋を開けると、母の面影がふわりと立ち上る。残りわずかなこの瓶は、母が私のために誂えてくれたもので、公爵家の財産ではない。
これだけは、持っていく。
私は香水瓶を握りしめ、窓の外に最後の花火が散るのを見届けてから、支度に取りかかった。背後でエルザが衣装箪笥を開ける音がする。今夜のうちに王都を発つ。夜明け前の街道を、辺境へ向けて。
ふと、あの灰青色の瞳が脳裏をよぎった。帝国使節団の青年。あの人は今頃、大広間で建国祭の余興を眺めているのだろうか。隣国の使節にとって、今夜の出来事はただの異国の醜聞に過ぎまい。
けれど奇妙なことに、ひとつだけ思い出していた。あの紋章——二頭の鷲が向かい合う意匠。そしてヴェルディア帝国は、グレンツハイムの向こう側にある。
母の故郷は、帝国との国境の町なのだ。
その符合に何か意味があるのかどうか、今の私にはわからなかった。ただ、暗い廊下の先に灯ったかすかな光のように、その事実だけが胸の片隅に残った。