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捨てられた公爵令嬢は隣国で跪かれる

第2話 第2話

第2話

第2話

大広間の空気が、一瞬にして変わった。

 楽団の奏でる旋律が途切れ、笑い声と囁きが波のように引いていく。私が所定の位置——王太子殿下の右手後方、婚約者として割り当てられた場所——に足を向けようとしたとき、殿下が玉座の前の壇上へ一歩進み出た。

 広間を見渡す仕草は堂々としていた。金の飾緒が肩で揺れ、正装の白い手袋が燭台の光を受けて輝く。誰もが息を呑んで次の言葉を待っている。建国祭の祝辞だろう、と誰もが思ったはずだ。私も、そう思おうとした。けれど殿下の視線が真っ直ぐに私を射抜いたとき、身体の芯を冷たいものが貫いた。胃の底がきゅっと縮むような、不吉な予感。首筋を汗が一筋伝い落ちるのを感じたが、拭うことは許されなかった。周囲の華やかな衣擦れの音さえ遠のいて、世界が殿下と私の二人だけに狭まっていくようだった。

「本日、建国祭のこの佳き日に、余は臣民の前で一つの決断を告げる」

 殿下の声は大広間の隅々まで届いた。天井の高い石造りの空間に反響し、逃げ場のないほど明瞭に。

「リーゼロッテ・フォン・グレンツハイム嬢との婚約を、本日をもって破棄する」

 静寂。

 それは、音のない嵐だった。何百もの視線が私に集中する圧力を、肌の表面で感じた。空気が重くなり、呼吸のたびに胸が軋む。足元の大理石の冷たさが、薄い靴底を通して骨まで染み込んでくるようだった。けれど私の足は動かなかった。微笑みも崩れなかった。八年の歳月が、この一瞬のために私の背骨を鍛え上げてきたのだと——そう思うことにした。

 殿下は言葉を続けた。傍らのミレーヌの手を取り、その小さな身体を庇うように前に出しながら。

「余はこの数月の間に、真に聖女の資質を備えた伴侶を見出した。男爵令嬢ミレーヌ・アーデルハイトこそが、この国の未来を照らす光であると確信している」

 ミレーヌが伏し目がちに殿下を見上げる。その瞳は潤んでいて、頬はほんのりと赤く染まっていた。可憐で、儚げで、守ってあげたくなるような少女。私にはついぞ持ち得なかったものを、すべて備えている人。殿下に繋がれた指先が小さく震えているのさえ、この場では演出のように美しく見えた。彼女の銀糸の髪が燭台の光を受けて淡く輝き、まるで聖典の挿絵から抜け出したかのようだった。

 広間のあちこちで、堰を切ったように囁きが溢れ出した。

「——やはり」

「——あの方も哀れなこと」

「——いいえ、当然ですわ。殿下のお心はとうに離れていたもの」

 扇の陰で口元を隠しながら、けれど隠す気などないように声を落とさない令嬢たち。絹の扇が揺れるたびに薔薇水の香りが漂い、それが不思議と吐き気を催させた。その視線の中に同情を探す気にはなれなかった。あるのは好奇と、わずかな優越と、そして——安堵だろう。自分ではなくてよかった、という安堵。

 右手の列柱の陰に、父の姿が見えた。

 公爵家当主としてこの場にいるはずの父は、しかし一言も発しなかった。私を庇う言葉も、殿下への異議も、何もない。ただ葉巻を持つほうの手を背後に隠し、もう片方の手で胸元の勲章を無意識に撫でている。あの仕草は、父が不快な状況をやり過ごそうとするときの癖だった。幼い頃から何度も見てきた。母が病に倒れたときも、領地の水害で民が嘆願に来たときも、父はいつもああして勲章に触れていた。

 つまり父にとって、この場は「やり過ごすべきもの」なのだ。娘の恥辱ではなく、公爵家にとっての外交上の不都合——ただそれだけ。その事実が、殿下の言葉よりもずっと深く、胸の奥の柔らかい場所を抉った。

 玉座の横に控える王妃陛下は、象牙の扇をゆるやかに動かしながら、何ひとつ表情を変えなかった。もとより私を気に入ってくださったことはない。グレンツハイム家の血筋は申し分ないが、母が辺境出身であることを陛下は終ぞお忘れにならなかった。

 静寂と喧騒が交互に押し寄せる中、私は一つ深く息を吸った。

 肺の奥まで空気を満たす。蜜蝋の甘い匂いと、人々の体温がこもった重い空気。それを吐き出すとき、一緒に震えも吐き出してしまおうと思った。

 一歩、前に出る。

 大広間が再び静まった。数百の目が、今度は別の意味で私に注がれる。嘲笑を待つ者、涙を期待する者、取り乱す姿を見たい者。この場にいる全員が、リーゼロッテ・フォン・グレンツハイムが崩れ落ちる瞬間を待っているのだと、はっきりとわかった。

 申し訳ないが、その期待には応えられない。

 私は深く、美しく、一礼した。母に教わった礼だ。頭を下げすぎず、けれど敬意は十分に示す。裾を軽く摘まみ、右足を半歩引いて膝をわずかに曲げる。この礼の角度を、私は鏡の前で何百回と練習した。

「殿下のご英断に、謹んで従います」

 声が震えなかったことを、心の底から自分に感謝した。

「八年の長きにわたりましたご厚誼に、深く感謝申し上げます。殿下と、新たにお傍に立たれる方のご多幸を、心よりお祈り申し上げます」

 顔を上げたとき、殿下の表情にわずかな動揺が走るのが見えた。この反応を予期していなかったのだろう。泣き崩れるか、怒りに震えるか、そのどちらかを想定していたに違いない。どちらであっても殿下にとっては都合がよかったはずだ。感情的な女を切り捨てたのだという物語が、これ以上なく綺麗に成立するのだから。

 けれど私は微笑んだ。鏡の前で何度も確かめた、完璧な微笑みで。頬の筋肉がわずかに痙攣するのを、唇の形だけで押さえ込んだ。

「失礼いたします」

 背を向けた。

 大広間を横切る距離が、これほど長いと感じたことはなかった。一歩ごとに踵が大理石を打つ音が、広間の沈黙の中に響く。背中に注がれる視線の重さ。肩甲骨の間が焼けるように熱い。けれど歩調は乱さない。速めもしない。リーゼロッテ・フォン・グレンツハイムは逃げるようには歩かない。

 退場する。ただ、退場するのだ。

 ——それでも、指先は手袋の中で震えていた。爪が掌に食い込んでいることだけが、私をこの場に繋ぎ止めている。涙腺の奥がじんと熱くなるのを、奥歯を噛みしめることでどうにか堰き止めた。泣くのならば、誰の目にも触れない場所で。この大広間だけは、絶対に。

 列柱の間を抜け、来賓席の脇を通り過ぎようとしたとき——ふと、空気の質が変わった。

 視線を感じた。嘲りでも同情でもない、まったく異質な視線。まるで鍛え上げられた刃のように、静かで、鋭く、そしてどこか敬意を含んだ——。

 足を止めはしなかった。けれど視界の端に、あの深い紺色の軍服が映った。来賓席の最奥、帝国使節団の列の中に、先刻廊下ですれ違った背の高い青年が座っている。周囲の使節団員たちが互いに囁き合う中、彼だけは微動だにせず、真っ直ぐにこちらを見ていた。腕を組むでもなく、身を乗り出すでもなく、ただ背筋を伸ばして——戦場で前線を見据えるときのような、揺るぎのない姿勢で。

 灰青色の瞳。冬の湖面のような、あの静かな光。

 その視線の中に、私は奇妙なものを読み取った。品定めでも、憐憫でもない。もし言葉にするならば——。

 それは、「見届けている」という意志だった。

 何を見届けようというのか。この国の婚約者が捨てられる場面を、隣国の使節として記録しようというのか。それとも——。

 いいえ、今はどうでもよいことだ。

 私は視線を前に戻し、最後の数歩を歩いた。大広間の側扉に手をかけ、振り返らずにくぐり抜ける。真鍮の取手が、手袋越しにもひどく冷たかった。

 扉が閉まった瞬間、楽団がまた演奏を始めた。何事もなかったかのように、建国祭の音楽が流れ出す。私がこの場にいたことなど、最初からなかったかのように。

 薄暗い廊下に出ると、足音が急にくぐもった響きに変わった。壁掛け燭台の炎が、ドレスの銀糸を弱く照らしている。大広間の喧騒が分厚い石壁に遮られ、ここにはただ炎の爆ぜる微かな音だけが残っていた。

 エルザが小走りに追いついてきた。何も言わず、ただ私の隣に並んで歩いてくれる。その沈黙がありがたかった。今、優しい言葉をかけられたら、保っているものが全部崩れてしまう。

 控えの間に続く廊下を進みながら、私はひとつだけ考えていた。

 あの灰青色の瞳の主は、私の背中を——逃げる姿ではなく、退場する姿として見ていただろうか。

 なぜそんなことが気にかかるのか、自分でもわからなかった。ただ、あの視線だけが大広間に残してきたすべての中で、唯一、冷たくなかった。

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