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捨てられた公爵令嬢は隣国で跪かれる

第1話 第1話

第1話

第1話

鏡の中の私は、完璧だった。

 真珠の髪飾りが燭台の光を受けて淡く輝き、薄紅色のドレスは一分の皺もなく身体に沿っている。絹地の表面に織り込まれた銀糸が、身じろぎするたびに淡い光の筋を走らせる。建国祭の正装——王太子の婚約者として大広間に立つための、いわば鎧のようなもの。私はその鎧を、もう八年も纏い続けている。

 侍女のエルザが背後で裾を整えながら、小さく息をついた。彼女の指先がわずかに震えているのが、布越しに伝わる。私の置かれた状況を、この侍女は誰よりもよく知っている。

「お嬢様、本日のお支度はこれで整いました」

「ありがとう、エルザ。……髪はもう少し上げたほうがよいかしら」

「いいえ、このままが一番お似合いです。お母様もきっとそうおっしゃいます」

 母の名が出ると、胸の奥がかすかに疼く。亡き母ならば今日この日を、どのような顔で見守っただろう。眉を寄せただろうか。それとも、いつものように穏やかに微笑んで「あなたはあなたのままでいなさい」と言っただろうか。娘が王太子の隣に立つ晴れの舞台を——いいえ、もはやそれは正確な表現ではない。王太子の隣に立つことを許されている最後の日かもしれない舞台を。

 鏡台の端に置かれた香水瓶に手を伸ばす。白薔薇と柑橘の香り。母が好んだ調香で、私が王宮に上がった日からずっと身につけているものだ。手首にひと吹きすると、冷たい朝の空気に甘さがほのかに混じった。瓶の中身は残りわずかで、同じ調合をしてくれた香水師はもう引退している。この香りもまた、いつか終わるのだ。

 窓の外では建国祭の準備が進んでいる。旗が風にはためき、楽団の音合わせが遠く聞こえる。王都がもっとも華やぐ一日。街路には露店の天幕が並び始め、焼き菓子の甘い匂いが風に乗って三階の窓辺まで届いてくる。けれど今年の建国祭は、例年とは違う空気を帯びていた。

 社交界ではもう何月も前から囁かれている。

 ——王太子殿下は、男爵令嬢のほうをお選びになるらしい。

 ——公爵令嬢は気の毒だけれど、もう終わったも同然ですわ。

 ——ご実家のほうでも、次の縁談を探していらっしゃるとか。

 耳に入らぬふりをすることには慣れた。茶会で隣に座る令嬢たちの扇の陰の囁きも、舞踏会で私の背後を通り過ぎる視線の重さも、すべて承知の上で微笑んできた。公爵令嬢リーゼロッテ・フォン・グレンツハイムは、いかなる場においても取り乱さない。それが、幼い頃から叩き込まれた矜持というものだ。

 三日前、父の書斎から漏れ聞こえた会話を思い出す。

「——伯爵家の三男はどうだ。家格は落ちるが、領地は悪くない」

 父の声だった。私のことを話しているのだと、すぐにわかった。婚約がまだ正式に解消されてもいないうちから、次の相手を探している。つまり父もまた、この婚約が終わることを既定の事実として受け入れているのだ。

 あの時、書斎の扉の前で足を止めた私の靴音に気づいたのだろうか。会話はふいに途切れ、代わりに葉巻の煙の匂いだけが廊下に漏れ出してきた。私は何も聞かなかったかのように、そのまま静かに自室へ戻った。

 痛みがなかったと言えば嘘になる。けれどそれ以上に、奇妙な軽さがあった。八年間ずっと纏ってきた重い衣が、ほんの少しだけ肩からずれかけているような——。

 いけない。今はそのようなことを考える時ではない。

「参りましょう、エルザ」

「はい、お嬢様」

 部屋を出ると、廊下には建国祭の装飾が施されていた。金糸の垂れ幕、壁燭台に灯された蜜蝋の炎、磨き上げられた大理石の床。私はこの廊下を何百回と歩いてきた。王太子殿下の婚約者として、常に背筋を伸ばし、常に微笑みを絶やさず。踵が大理石を叩くたびに、規則正しい音が天井の高い廊下に響く。その足音だけが、私が確かにここに存在している証のように思えた。

 大広間へ続く回廊の角を曲がったとき、見慣れぬ一団とすれ違った。

 深い紺色の軍服。金の縁取り。胸元には、二頭の鷲が向かい合う紋章が刺繍されている。この国の紋章ではない。軍靴が石の床を踏む音は、王宮に仕える文官や貴族のそれとはまるで響きが違っていた。乾いて、重い。戦場の土を踏んできた者たちの足音だった。

「お嬢様、あれは——」

 エルザが小声で囁く。

「ヴェルディア帝国の使節団ですわ。今年の建国祭には帝国からもご来賓がいらしているとか」

 隣国ヴェルディア。大陸東方に広がる帝国であり、我が国とは長年にわたり微妙な均衡を保ってきた大国だ。その使節が建国祭に来ているということは、何らかの外交的意図があるのだろう。けれど今の私には関わりのないことだった。

 すれ違いざま、使節団の中にひときわ背の高い青年の姿が見えた。軍服の仕立てが他の者とは明らかに異なる。肩章の装飾、胸元の勲章の数——あれはただの使節団員ではない。かなりの高位の人物だ。

 視線がほんの一瞬、交差した気がした。深い灰青色の瞳。冬の湖面のように静かで、それでいて鋭い光を宿した目だった。まるで、こちらの纏っている鎧の隙間を見透かすような——不躾ではない、けれど容赦のない視線。

 けれど私は視線を逸らさず、ごく自然に会釈だけを返してすれ違った。見知らぬ国の見知らぬ方に、それ以上の関心を向ける余裕は今の私にはない。

 大広間の扉が近づいてくる。扉の向こうから、華やかな楽の音と人々のざわめきが漏れ聞こえる。

 私は足を止めた。

 ほんの一瞬だけ目を閉じて、深く息を吸い込む。蜜蝋と花と、かすかに汗のにおいが混じった空気。これが最後になるかもしれない。王太子殿下の婚約者として、この扉をくぐるのは。

 それでも構わない。

 目を開ける。鏡の前で確かめたのと同じ微笑みを、唇に乗せる。

「エルザ、髪は乱れていないかしら」

「完璧でございます、お嬢様」

「そう。……ならば、参りましょう」

 扉が開かれた。

 光が溢れた。何百もの蝋燭が大広間を昼のように照らし、天井のシャンデリアが宝石のごとく煌めいている。色とりどりのドレスと礼服、宝石と勲章、笑顔と囁き。王国がもっとも誇りとする夜がそこにあった。

 私が姿を現すと、近くにいた数名の令嬢がさっと扇を広げた。その陰で唇が動くのが見える。何を言っているかなど、聞かずともわかる。

 ——まあ、よくいらっしゃれたこと。

 ——今日が最後でしょうにね。

 足を止めはしない。視線を落としもしない。リーゼロッテ・フォン・グレンツハイムは、建国祭の大広間においても完璧な微笑みを崩さない。たとえその微笑みの下で、心臓が痛いほど脈打っていたとしても。

 大広間の中央、玉座の前に王太子殿下の姿が見えた。その傍らには、淡い金髪の少女が寄り添っている。男爵令嬢ミレーヌ。殿下が「聖女の資質を持つ」と信じて疑わない少女。私の代わりに、あの場所に立つことになる少女。

 ミレーヌは殿下の腕にそっと手を添え、何か耳元に囁いていた。殿下がかすかに頬を緩めるのが見える。あのような表情を、私に向けてくださったことが一度でもあっただろうか。八年の歳月を記憶の中に探って、答えが見つからないことに今さら傷つく自分が馬鹿らしかった。

 殿下の視線が私を捉えた。

 その瞳に浮かんでいたのは、罪悪感でも哀れみでもなく——決意、だった。

 ああ、と思った。

 今宵なのだ。

 胸の奥で何かが静かに軋む音がした。覚悟はしていた。覚悟はしていたはずだった。それでも、この瞬間が実際に訪れるのだと悟ったとき、指先がほんのわずかに冷たくなるのを止められなかった。手袋の中で拳を握り、爪が掌に食い込む感触だけを頼りに、微笑みを保つ。

 私は一歩を踏み出した。完璧な歩幅で、完璧な姿勢で、大広間の光の中へ。

 背後で、大広間の扉が重い音を立てて閉じた。先ほどすれ違った帝国使節団が、広間の最奥に設けられた来賓席へと案内されていくのが、視界の端にちらりと映った。あの灰青色の瞳が、再び私の方を向いていたかどうかは——わからない。

 けれど今はただ、前を向く。

 鏡の中で確かめた完璧な微笑みを、最後の一瞬まで保ち続けるために。

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