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無風の観察者

第1話 第1話

第1話

第1話

俺の異能は、風だ。——と言えば聞こえはいい。実際には紙コップを三センチ動かすのが限界の、ほとんど無に等しい空気振動。能力ランクE。学園二千四百人の頂点から底まで並べたら、俺は確実に最後尾を歩いている。

「次、対人実技演習。二人一組でペアを組め」

第三演習場に教官の声が響いた。五月の日差しが人工芝を焼いて、空気が揺らいでいる。揺らぎの向こうで、クラスメイトたちが慣れた様子でペアを作っていく。炎熱系のやつが氷結系のやつと組み、念動系が身体強化系と向かい合う。それぞれの異能が淡い光を纏い、演習場を色とりどりに染めていった。

俺はその光景を、壁際に立って眺めていた。

三十六人のクラスで偶数だから、本来余りは出ない。だが実技のたびに俺だけが浮く。誰も組みたがらないのだ。E級の空気振動を相手にしても、演習の意味がないから。視線が合いそうになった隣の席の女子が、気まずそうに目を逸らして別の方向へ駆けていくのが見えた。もう慣れた。最初の頃は胃がきゅっと縮んだが、今はただ事実として受け止めている。

「御影。今日も見学でいい」

教官の藤堂さんが近づいてきて、低い声でそう言った。同情でも悪意でもない、ただの事務処理。出席簿の「御影零」の横に「見学」と書き込む手つきが、妙に手慣れていた。

「……はい」

「記録係、頼めるか。各ペアの能力出力と反応速度、いつも通り見てくれ」

いつも通り。その言葉が胃の底に沈んだ。俺はバインダーを受け取って、演習場の端に腰を下ろした。

ペンを握る。視線を上げる。

——瞬間、肌が粟立った。

演習場の中央で炎熱系の桐嶋が拳を振るう。炎が奔る。けれど俺の肌が拾ったのは炎の熱ではなく、桐嶋の能力が発動する〇・三秒前の気配だった。空気の密度が微かに変わる。異能が励起されるとき、周囲の空間にはごく僅かな歪みが生まれる。その歪みを、俺は生まれた時から感じ取れた。

桐嶋の炎——出力推定B+、反応速度〇・八秒、持続四秒。左肩の起動癖あり。

ペンが勝手に走る。俺にはこれだけだ。見ること。感じること。記録すること。

戦う力は、何一つない。

演習が終わるまでの四十分間で、ノート三ページが埋まった。各ペアの能力出力、発動パターン、癖、弱点。教官の藤堂さんが何気なくノートを覗き込んで、一瞬だけ目を細めた。

「……相変わらず正確だな、お前の観察は」

褒めているのか呆れているのか、判断がつかない声色だった。

「でも、これが実技の点数になるわけじゃないんですよね」

「ならないな」

藤堂さんは素っ気なく答えて、出席簿を閉じた。俺の「見学」の隣に「記録補助」の四文字が追加されていた。補助。いつだって俺の立ち位置はそこだ。

教室に戻る廊下で、背後から声が降ってきた。

「お疲れ、カーム」

振り返らなくても分かる。念動系B級の真壁だ。取り巻きを二人連れて、にやにや笑っている。

「今日も見学? 偉いね、毎回ちゃんと来てさ。俺だったらE級で登校する精神力ないわ」

「出席点がないと単位落とすんで」

「あはは、そういうとこだよ。お前ってさ、能力者っていうより事務員だよな。記録係の御影くん」

真壁の取り巻きが笑う。廊下に反響するその笑い声が、放課後の静けさに不釣り合いなほど大きかった。肌で感じる真壁の能力の気配は、いつもより少しだけ強い。昼に缶コーヒーを三本飲んだな、とどうでもいいことを分析している自分が嫌になる。

「じゃ、お先」

背を向けて歩き出す。言い返す言葉はいくらでもある。真壁、お前の念動は左回転に偏ってるから右からの不意打ちに弱い——だがそれを言ったところで何になる。観察結果を活かす力が、俺にはない。

放課後の屋上は、俺だけの演習場だった。

誰も来ない。来る理由がない。フェンスの向こうに広がる街並みと、遠くに霞む東京湾。五月の風がフェンスの金網を鳴らして、錆びた金属の匂いを運んでくる。その手前のコンクリートの床に、俺は紙コップを一つ置いた。

集中する。腹の底から力を絞り出すように意識を研ぎ澄ませる。

指先に微かな振動が生まれた。空気が動く——いや、「動く」と言えるほどのものじゃない。紙コップがわずかに揺れて、二センチほど滑った。

たったそれだけで、息が切れた。

額に汗が滲む。膝に手をついて呼吸を整える。こめかみの血管がどくどくと脈打って、視界の端がじわりと白くなった。

「……もう一回」

紙コップを元の位置に戻す。集中。発動。今度は三センチ。視界が少し暗くなる。

能力者訓練の教科書には「異能は筋肉と同じ。鍛えれば伸びる」と書いてある。だが俺はこの二年間、毎日この屋上で紙コップを動かし続けて、三センチが四センチになる兆しすら見えていない。

それでもやめなかったのは、意地だ。

意地と、もう一つ。

俺はノートを開いた。表紙には「能力理論式——空気振動の可能性」と書いてある。五冊目のノートだ。びっしりと書き込まれた数式と図表。能力の発動メカニズムを物理法則と照らし合わせて分析した、俺だけの研究記録。

ページをめくる。昨夜書いた仮説が目に入った。

『空気振動の本質は「媒介」ではないか。振動そのものに破壊力を求めるのは設計思想が違う。もし空間の気配を感知する力と、微弱な振動を発する力が同根のものだとしたら——この異能の本質は「共鳴」にある可能性がある』

共鳴。まだ仮説に過ぎない。裏付けるだけの出力が俺にはないのだ。理論は組み立てられても、実証する力がない。頭でっかちの最弱。

ノートを閉じて、もう一度紙コップに向き合った。

夕日が屋上を橙色に染めている。下の校庭では部活動の掛け声が聞こえる。能力を使った模擬戦の衝撃波が、ここまで微かに伝わってくる。俺の肌がその一つ一つを正確に拾い上げる。

Bマイナスの衝撃波。射程十五メートル。発動者は剣道部の——

「やめろ」

自分に言い聞かせる。感じ取っても意味がない。分析しても活かせない。

紙コップに手を伸ばしかけた、その時だった。

足の裏に、異質な振動が走った。

校庭からの衝撃波じゃない。部活の模擬戦でもない。もっと深い場所——地下から這い上がってくるような、低く、重い振動。

俺は反射的にコンクリートの床に片膝をついた。掌を地面に押し当てる。能力の気配を感知する力が、勝手に起動していた。

冷たいコンクリートの表面から、骨の髄まで沁みるような波動が腕を伝って登ってくる。鳥肌が二の腕まで走った。これは生き物だ——理屈ではなく、本能がそう叫んでいた。

校庭の、中央付近。地下およそ十メートルの地点。

何かがいる。

いや——何かが目覚めようとしている。

これまで感じたことのない種類の気配だった。人間の異能ではない。もっと巨大で、もっと古い。そしてそれは、ゆっくりと、しかし確実に膨張している。

「なんだ、これ……」

振動は数秒で収まった。まるで深い眠りの中で一度だけ寝返りを打ったように、気配は再び沈黙した。

俺は掌を地面から離して、自分の手を見た。微かに震えている。恐怖ではない。震えの正体を、俺はうまく言語化できなかった。強いて言うなら——二年間ずっと空振りし続けてきた感覚器官が、初めて本物の信号を受信した時の、身体の戸惑いに似ていた。

立ち上がって、校庭を見下ろす。フェンス越しに見える校庭の中央は、いつもと何も変わらない。部活の生徒が走り、能力の光が散っている。誰も気づいていない。

当然だ。気配を感知できるのは俺だけだ。そしてその力に価値を認める人間は、この学園には一人もいない。

鞄を拾い上げ、屋上のドアに向かう。階段を降りながら、俺は足の裏にまだ残る微かな余韻を振り払えずにいた。

帰り道、校門を出て十歩。もう一度、足裏が震えた。

さっきより強い。さっきより近い。

俺は立ち止まって、振り返った。夕暮れの校舎が静かに佇んでいる。窓ガラスが茜色の光を反射して、建物全体がぼんやりと発光しているように見えた。その地下で、名前のないものが呼吸している。肌が拾い上げる気配の輪郭は、時間を追うごとに鮮明になっていた。

明日か、明後日か——そう遠くない。

それが何を意味するのか、俺にはまだ分からなかった。ただ一つ確かなのは、この学園でそれを感じ取れるのは俺しかいないということだ。

最弱の観察者だけが知っている、地下の鼓動。

俺は歩き出した。背中にへばりつく気配を振り切れないまま。

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