第3話
第3話
夢を見ていた。
銀色の海に沈んでいく夢だった。水面はどこまでも光り、波はなく、音もなく、ただ温かかった。沈んでいるのに息が苦しくない。むしろ心地よい。身体の隅々まで銀の水が染み渡り、骨の一本一本を洗い、血管の内壁を撫で、細胞の奥に眠っていた何かをそっと揺り起こしていく。
懐かしい、と思った。
母の腕に抱かれていた頃の記憶に似ている。いや、もっと古い。生まれる前──もしかしたら、この血が生まれる前から知っていた温もりだ。
銀の海の底で、誰かが名を呼んだ。
──セラフィーナ。
その声に引き上げられるようにして、私は目を覚ました。
天井が見えた。見慣れた木目の天井。自室だと気づくまでに数秒かかった。身体が鉛のように重く、指一本動かすのにも意識を集中しなければならなかった。喉が乾ききっている。舌の上に、鉄錆のような味が薄く残っていた。
窓から差し込む光は西日だった。朝に魔獣を焼いたから、丸一日近く眠っていたことになる。
「目を覚ましたか」
枕元に、父がいた。
ルートヴィヒ・ヴァルシュタイン公爵。五十を過ぎてなお背筋は伸び、鉄灰色の髪には白いものが混じり始めているが、その眼光は少しも衰えていない。領地を二十年守り続けた男の眼だ。けれど今、その目の奥にあるのは領主の威厳ではなかった。
疲労。そして──恐怖に似た何か。
私は父が怯えた顔をするのを、一度も見たことがなかった。
「……お父様」
「無理に起き上がるな。魔力が枯渇している。回復には数日かかるだろう」
父の声は平坦だった。感情を削ぎ落とした、いつもの公爵の声。だがその手が──膝の上で組まれた手が、微かに震えていた。私はそれを見逃さなかった。
「あれは……何だったの」
訊かずにはいられなかった。自分の身体から溢れた銀の炎。制御できず、理解もできず、ただ本能のままに魔獣を焼き尽くしたあの力。指先にはまだ残滓が燻っている。爪の下で、脈拍に合わせて銀色が明滅する。
父は長い間、沈黙した。
窓の外で鴉が鳴いた。遠くから領民たちの声がかすかに聞こえる。瓦礫を片付けているのだろう。日常を取り戻そうとする音だ。だがこの部屋の中だけ、時間が止まっていた。
「……お前に話さねばならないことがある」
父がようやく口を開いたとき、その声はいつもより低かった。
「本来なら、墓の下まで持っていくつもりだった。お前が王太子妃となり、宮廷で穏やかに生きていけるなら、知らせる必要はないと──そう信じていた」
「婚約は破棄されました」
「ああ。だからこそ、もう隠しておけない」
父が立ち上がり、窓辺に歩いた。西日が鉄灰色の髪を燃えるように照らす。逆光の中、父の横顔はひどく老けて見えた。いつからこんなに痩せていたのだろう。毎日顔を合わせていたはずなのに、気づかなかった──いや、気づくことを許されなかった。嫌われ役の仮面は、父の顔すらまともに見ることを妨げていた。
「ヴァルシュタイン家は、建国の功臣として公爵位を賜った家だ。表向きはな」
「……表向き?」
「実際には、アストリア王国より遥かに古い血が流れている。千二百年前に滅んだ──ヴェルツァリオン王朝。その直系の末裔が、我が家だ」
呼吸が止まった。
ヴェルツァリオン王朝。歴史書の片隅に、数行だけ記された名前。現在のアストリア王国が建国される以前、この大陸を統一していたとされる古代の王朝。だが具体的な記録はほとんど残っておらず、学術的には半ば伝説として扱われている。
「滅んだ王朝の末裔が、なぜ現王家の臣下に」
「生き延びるためだ」
父が振り返った。その目に、初めて感情の色が浮かんでいた。
「ヴェルツァリオン王朝が操った魔法は、現在の属性魔法体系とはまったく異なる。王家の血統魔法が世界の法則に『許可を請う』ものだとすれば、我々の魔法は法則そのものに『手を触れる』ものだ。属性も詠唱も媒介も必要としない。魔力の根源に直接干渉する──原初魔法と呼ばれていた」
原初魔法。
その名前を聞いた瞬間、身体の奥で何かが反応した。爪の下の銀光が一瞬だけ強く輝き、すぐに収まる。血が、名前を覚えていた。
「お前が今朝見せた銀の炎は、その原初魔法の発現だ。本来は幼少期に覚醒する。だが私は──」
父の声が途切れた。唇を引き結び、こめかみの筋が浮くほど顎に力を入れている。
「私が、封じた」
「……封じた?」
「お前が三つの時だ。眠っている間に銀の光が漏れ始めた。このまま覚醒すれば、必ず王家の目に留まる。だから古い術式を使って、魔力を骨の奥に封じ込めた。十八年間──お前自身にも気づかせないように」
声が震えていた。父の声が。あの鉄壁の公爵が、声を震わせていた。
三つの時。私はまだ何も知らない幼子だった。笑ってはいけない理由も、嫌われ役を演じる意味も。その頃にはもう、私の運命は決められていたのだ。
──なぜ私は笑ってはいけないの。
幼い日の問いが蘇る。答えなかった父。震える指で手を握った母。
「婚約もそうだ」
父は続けた。まるで堰が切れたように、言葉が溢れ出していた。
「王太子の婚約者という立場は、お前を王家の監視下に置くと同時に、庇護下にも置いた。悪役を演じさせたのは、誰にも深入りさせないためだ。親しい者ができれば、そこから力が漏れる可能性があった。孤立こそが、最も安全な隠れ蓑だった」
十八年間の孤独が、たった数行で説明された。
泣き叫ぶ侍女たちを冷たい目で見送ったこと。社交界で向けられる蔑みの視線。氷の令嬢と囁かれるたびに、心のどこかが麻痺していくのを感じたこと。すべてに理由があった。すべてが、仕組まれていた。
怒りが込み上げた。父に対してではない。もっと大きなものに──この血に、この運命に、十八年分の嘘を必要とした世界そのものに。
「なぜ魔獣で封印が解けたの」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。感情は燃えているのに、思考は研ぎ澄まされていく。これが原初魔法の覚醒による変化なのか、それとも元々の自分なのか、今は判断がつかない。
「生命の危機に晒されたことで、封印を内側から食い破ったのだろう。原初魔法は術者の意志ではなく、血の記憶に従う。お前の血が、生き延びることを選んだ」
父が椅子に戻り、深く腰を下ろした。老人のような仕草だった。
「セラフィーナ。一つだけ、約束してほしいことがある」
「何を」
「あの力を、二度と人前で使うな」
父の目が、真っ直ぐに私を射た。
「王家に知られれば──殺される」
その言葉は、重かった。脅しではなく、事実として告げられた。千二百年前、ヴェルツァリオン王朝を滅ぼしたのは他ならぬアストリア王家の祖だ。古代王朝の血を継ぐ者が生きている──それは現王家にとって、存在そのものが反逆に等しい。
父は私が怯えると思っただろう。隠れて生きると、二度と使わないと。十八年間そうしてきたように、仮面をかぶり直すと。
だが私の胸にあったのは、恐怖ではなかった。
怒りだった。
静かに、深く、銀の炎のように燃える怒り。
十八年間、嘘を強いた世界への。この血を罪とする王家への。そして何より──知らされなかった自分自身への。
「お父様」
「……何だ」
「私は昨日、婚約を破棄されました。宮廷での居場所を失い、嫌われ役の仮面も脱ぎました。その上で今日、自分の中にあるものを知りました」
身体を起こした。まだ腕が震えている。だが声は、震えなかった。
「もう隠れません」
父の顔が強張る。
「殺されると言っているのだ」
「知っています。でもお父様──領民は今日、魔獣に襲われました。騎士団は来ない。王都は私たちを見捨てます。そしてこの力だけが、あの人たちを守れた」
窓の外に目を向ける。西日に照らされた領地の景色。屋根を直す者、水を汲む者、泣く子をあやす者。私が守った人たちだ。偶然であれ、衝動であれ──この力がなければ、あの母子は死んでいた。
「原初魔法を隠したまま、誰を守れるというのですか」
父は答えなかった。ただ、長い長い溜息をついた。それは敗北の音に似ていた。
沈黙が降りる。日が傾き、部屋の影が伸びていく。父の横顔に刻まれた皺が、夕暮れの中でいっそう深く見えた。
やがて父が立ち上がり、部屋を出ていこうとした。扉に手を掛けたまま、背中を向けて言った。
「……お前の母も、同じことを言った」
振り返らなかった。声だけが、かすかに湿っていた。
扉が閉まる。
一人になった部屋で、私は自分の手を見つめた。爪の下の銀光が、心臓の鼓動に合わせて静かに明滅している。原初魔法。古代王朝の血。私の中に眠っていた、もう一つの名前。
恐怖がないわけではない。王家に殺されるという言葉は、身体の芯に冷たく刺さっている。
だがそれ以上に、怒りがある。
十八年分の嘘。仕組まれた孤独。奪われた笑顔。そのすべてを強いた世界に、黙って従い続ける理由が、もうどこにもなかった。
窓の外で、最後の陽が沈もうとしていた。北の空に、微かに──ほんの微かに、銀色の光が瞬いた。昨夜見たものと同じだ。あれはきっと、また魔獣が動いている印。まだ終わっていない。
握った拳に、銀の光が灯る。今度は暴発ではなく、自らの意志で。小さく、頼りなく、だが確かに──原初の炎が、掌の中で息づいていた。