第2話
第2話
赤黒い光が退いた。
唐突だった。俺を取り囲むように広がっていた脈動する光の筋が、まるで潮が引くように最深層の奥へと吸い込まれていく。巨大な質量の気配も、焦げた金属の臭いも、一瞬で消えた。耳の奥にこびりついていた低周波の振動だけが、残響のように数秒遅れて途切れた。
残ったのは静寂と、抜き身の剣を構えたままの俺だけだ。
「……何だったんだ、今の」
剣を鞘に戻す。手が僅かに汗ばんでいた。VR空間で発汗のフィードバック——やはりこれは通常のシステムじゃない。柄を握っていた五指を開くと、革巻きの圧痕がくっきり掌に残っている。触覚の解像度が、明らかに上がっている。
地図を再展開する。赤黒い領域——「絶対領域」は、さっきより明確に輪郭を持っていた。四方から迫る浸食の先端が、既にいくつかの低レベルエリアを飲み込んでいる。転移門の座標を確認。最深層から主要都市『アルカディア』への直通ルートはまだ生きている。
行くしかない。情報が足りなすぎる。
転移結晶を砕いた瞬間、視界が白く弾けて——次に開けた景色は、地獄だった。
アルカディア中央広場。普段は露店と雑談で賑わうこの場所が、悲鳴と怒号で埋め尽くされていた。空気が違う。数千人分の恐怖が広場の石畳に充満して、肌にまとわりつくような圧がある。
「運営出てこい!」
広場の中心で、重装備の大男が剣を振り回している。ギルドエンブレムは見覚えがある——中堅ギルド『ブラッドオース』のメンバーだ。その周囲に同じギルドの連中が十数人固まって、広場の噴水を囲むようにバリケードを築いている。
「アイテムを渡せ! ポーション全部寄越せ!」
略奪。もう始まっているのか。
噴水の反対側では、数百人のプレイヤーが地面に座り込んでいた。泣いている者、呆然としている者、仲間同士で抱き合っている者。チャット欄は流れが速すぎて読めない。全体チャットに怒り、悲嘆、混乱、デマが濁流のように流れ込んでいる。
『GM応答確認! これはイベントだって公式が言ってる!』 『ソース出せよ。ない? デマ流すな殺すぞ』 『北門の外でPKが出た。低レベル帯が狙われてる』 『死んだらどうなるの。本当に死ぬの。誰か教えて』
情報のノイズが多すぎる。俺は全体チャットをミュートし、広場の端に移動した。略奪組からは距離を取りつつ、建物の壁に背をつける。
まずは検証だ。感情で動いても仕方がない。
ステータスを開く。最初に確認したいのは、HPの挙動。自分で自分を傷つけられるか。
腕を軽く壁に擦った。HPが0.2パーセント削れた。環境ダメージの判定だ。通常なら自傷ダメージはシステムで無効化されている。それが通るということは——ダメージ無効のセーフティネットが外されている。擦った箇所にじんわりと熱を持った痛みが走る。痛覚フィードバックまで有効になっている。これは、もう「ゲーム」の仕様じゃない。
次に、蘇生アイテム。インベントリから『復活の羽根』を取り出す。アイテム説明欄を開いた瞬間、テキストが書き換わっていた。
『このアイテムは現在使用できません。死亡状態からの復帰は不可能です』
背筋が冷えた。
蘇生不可。つまりHP0になった瞬間、全てが終わる。セーブポイントも、リスポーンもない。既存の安全装置が根こそぎ剥がされている。
三つ目の検証。ログアウトボタンは依然として灰色で応答なし。だが、もう一つ確認すべきことがある。外部への通信。
フレンドリストを開いた。オフライン表示のプレイヤーが一人もいない。全員がオンライン。サーバー人口を確認する——現在のアクティブプレイヤー数、六万三千四百十二人。公式発表のアクティブユーザー数とほぼ一致する。
つまり、あの告知の時点でログインしていたプレイヤーが全員閉じ込められた。
「六万人……」
呟いた声が、自分でも驚くほど乾いていた。
俺は壁から背を離し、広場を見渡した。パニックの密度が増している。ブラッドオースの略奪組が範囲を広げ、近くの武器屋にまで押し入った。店のNPCが無抵抗で押しのけられている。
止めに入る理由はない。だが目に入ったのは、店の前で立ち尽くしている低レベル帯のプレイヤーだった。装備から見て初心者。レベルは十にも届いていないだろう。その隣に、もう一人。さらに奥に三人。初心者たちが固まって震えている。一番手前の少女のアバターが、両手で杖を抱えるように握りしめていた。白い指先が小刻みに痙攣している。
舌打ちが出た。
見なかったことにしろ。俺はソロだ。他人を守る余裕も義理もない。十体のボスを倒す——その最短ルートを考えろ。
足がそっちに向かいかけて、止まった。止めたんじゃない。別の異変に気づいたからだ。
空が、割れていた。
アルカディアの上空——本来なら青い仮想の天蓋があるはずの空間に、巨大な亀裂が走っている。そこから赤黒い光が降り注ぎ、街の東区画を染め始めた。さっきダンジョンで見たのと同じ光だ。絶対領域の浸食が、もう街にまで届いている。
「全員退避! 東門から離れろ!」
誰かが叫んだ。広場のパニックが、質の違う恐怖に塗り替わる。略奪をしていた連中すら手を止めて空を見上げた。
赤黒い光が触れた建物が変質していく。石壁が脈打つように蠢き、窓枠が歪み、屋根瓦が一枚ずつ黒く変色して崩れ落ちる。瓦が地面に当たるたびに、乾いた音ではなく湿った肉を叩くような音がした。その光の境界線を一人のプレイヤーが横切った——瞬間、HPバーが一気に半分まで削れた。
「あ——」
そのプレイヤーが呆然と自分のHPを見下ろしている間に、二発目の浸食ダメージが走った。残り二割。三発目——
「逃げろ!」
俺が叫ぶより早く、誰かがそのプレイヤーの腕を掴んで境界線の外に引きずり出した。銀髪の小柄なアバター。ユイだった。
助けられたプレイヤーがその場にへたり込む。HPは赤ゲージのまま止まっている。境界線の外に出れば浸食ダメージは入らないらしい。だが——あと一歩遅ければ死んでいた。
ユイが振り返って、俺と目が合った。
「レン。来て」
有無を言わさない声だった。ユイが指差す方向——東門の上、城壁の見張り台。高所からなら絶対領域の全体像が見える。
迷う理由がなかった。俺は走った。
石段を駆け上がる足音が、やけに大きく響いた。見張り台に辿り着いたとき、息が切れていた。スタミナゲージはまだ余裕があるのに、肺が焼けるように熱い。身体感覚のフィードバックが本物に近づいている証拠だ。
見張り台から見下ろした光景は、息を呑むものだった。
赤黒い浸食が街の外周を半円状に囲んでいる。その領域の内側では建物も地形も原形を留めていない。捻じれ、蠢き、元のデータとは全く別のものに再構成されている。まるで世界そのものが書き換えられているようだった。浸食の最前線では、光と影の境界が呼吸するように伸縮を繰り返している。生きている、と直感的に思った。これは現象じゃない。意志だ。
そして——その奥に、いた。
「あれ……」
ユイが声を失った。俺も言葉が出なかった。
絶対領域の中心。赤黒い霧の向こうに、巨大なシルエットが浮かんでいる。一つじゃない。二つ、三つ——数えるたびに増えていく。七、八、九——十。
十体の、途方もない質量を持った影。
最も手前のシルエットだけでも、さっきソロで倒したヴォルガノスの三倍はある。それが十体、霧の中で微動だにせず佇んでいる。待っている。俺たちが来るのを。
ステータス表示を試みた。『???』。レベルも名前も表示されない。既存のどのボスカテゴリにも属さない、完全な未知。
「十体」
俺は呟いた。声が震えていないことだけを確認した。
「全部倒せってこと?」
ユイの声は震えていた。それを責める気にはなれない。あの規模のボスを十体。しかも蘇生なし、ログアウト不可。一度のミスが死に直結する条件で。
絶対領域の縁がまた数メートル、こちらに向かって這い寄った。浸食は止まらない。時間制限がある。いずれ逃げ場がなくなる。
「……攻略するしかない」
俺は見張り台の手すりを握った。鋼の冷たさが掌に食い込む。
十体のシルエットが、赤い霧の奥でゆっくりと脈動していた。