第1話
第1話
──また死んだか。
崩れ落ちるレイドボスの巨体が、ダンジョンの床を揺らす。『深淵の守護者ヴォルガノス』——推奨攻略人数二十四人、最深層Aランクレイドの最終ボス。そいつが断末魔のエフェクトを撒き散らしながら、ポリゴンの塵になって消えていく。
「……七分十二秒。前回より四秒遅い」
舌打ちしながらステータスを開く。HP残り八十三パーセント。回復アイテム使用数ゼロ。我ながら安定した立ち回りだが、第三フェーズの薙ぎ払いで回避が遅れたのが気に入らない。
ドロップアイテムを回収していると、システムウィンドウが視界の隅で点滅した。
『おめでとうございます。週間ランキング第1位を更新しました——連続記録:47週』
「知ってる」
消す。興味がないわけじゃない。ただ、一位を取ること自体はとっくに日常になっている。
撃破ログが全サーバーに流れたらしい。ダンジョンの転移門をくぐった瞬間、待ち構えていたプレイヤーたちの視線が一斉に突き刺さった。
「レンさん! うちのギルドに——」 「ソロ撃破おめでとうございます! よかったら一度だけでもPT——」 「お願いします、一回だけ! 一回組んでくれるだけで——」
街の広場に出た途端これだ。十人以上が俺を囲むように立っている。名前の横に光るギルドエンブレムはどれも見覚えがある。上位ギルドの勧誘組だろう。
「悪いけど、全部断る」
足を止めずに言った。背中に「もったいない」「なんでソロなんだよ」という声が追いかけてくる。
なんで。その問いには答えない。答える義理もない。
人と組んでも足を引っ張り合うだけだ。それはもう証明済みの事実だから。
雑踏を抜けて鍛冶屋に入る。装備の耐久値を確認しながら、次の周回ルートを頭の中で組み立てる。最深層Aランクはもう経験値効率が落ちてきた。明日の大型アップデートで新ダンジョンが追加されるなら、初日にソロ最速クリアを叩き出す。それがいつもの流れだ。
「——レン」
低い声に振り返ると、鍛冶屋のカウンター越しにNPCの老人が俺を見ていた。いや、NPCじゃない。見慣れたアバター。銀髪の小柄な女——ユイ。
かつて同じギルドにいた、唯一まともに会話をしていたプレイヤー。
「久しぶり。元気そう」 「……用があるなら手短に」 「相変わらずだね」
ユイが苦笑する。その顔を見ると、要らない記憶が蘇りかける。ギルド『ゼロ・グラビティ』。俺が立ち上げて、俺が壊した場所。
「明日のアプデ、かなり大規模らしいよ。新エリアに高難度ダンジョン追加って」 「知ってる。パッチノートは読んだ」 「……一緒に行かない?」
沈黙が落ちた。ユイの瞳が真っ直ぐ俺を見ている。
「一人の方が早い」 「速いのと、楽しいのは違うよ」 「俺は効率の話をしてる」
ユイは何か言いかけて、やめた。小さく息を吐いて「わかった」と呟き、鍛冶屋を出ていく。その背中を目で追いかけて——追いかけたことに気づいて、視線を逸らした。
楽しいとか、そういう基準でゲームはやっていない。
装備を整え、消耗品を補充し、翌日に備えてログアウト——するつもりだった。
だがその夜、公式から臨時告知が飛んだ。
『大型アップデート「ABYSS GATE」は、予定を繰り上げ本日24:00に適用されます。全プレイヤーはログイン状態を維持してください』
妙な告知だった。「ログイン状態を維持してください」——普通、アプデ前はメンテナンスのためにログアウトを促すはずだ。だが深く考えるより先に、プレイヤーとしての本能が動いた。新コンテンツは初日の初動が全て。最速攻略のためには、サーバー内にいる方がいい。
最深層ダンジョンの入り口で待機した。周囲にも同じ考えのプレイヤーが数十人いる。カウントダウンが始まり、チャット欄が期待と興奮で埋まっていく。
『アップデート適用まで……3、2、1——』
世界が、揺れた。
足元から突き上げるような振動。ダンジョンの壁面に亀裂が走り、そこから赤黒い光が滲み出す。照明が全て消え、視界が一瞬だけ完全な暗闇に落ちた。
次の瞬間——視界の中央に、巨大なシステムウィンドウが強制展開された。赤い。血のように赤いフォントが、一文字ずつ刻まれていく。
『全プレイヤーへの通達』
周囲のプレイヤーが動きを止めた。俺も止まった。嫌な予感が背筋を這い上がる。
『本日をもって、以下のルールが適用されます』 『一、ログアウト機能は永久に無効化されました』 『二、HP0=現実世界における死亡と同義です』 『三、攻略条件を満たすまで、いかなるプレイヤーもこの世界から離脱できません』
静寂。
一秒。二秒。三秒——そして、悲鳴が爆発した。
「嘘だろ!?」「ログアウトできない!」「メニュー開かない!」
周囲が一斉にパニックに陥る。誰かが壁を殴り、誰かが泣き崩れ、誰かがGMコールを連打している。俺の隣にいたプレイヤーが膝から崩れ落ち、「死にたくない」と繰り返している。その声が震えていて、アバターの口元がぐしゃぐしゃに歪んでいた。表情システムがここまで精密に感情を拾うのを、俺は初めて見た。
俺は動かなかった。
動かなかったんじゃない——動けなかった。一瞬だけ。頭の中を支配したのは恐怖じゃなく、確認だった。
ステータスを開く。ログアウトボタン——灰色。押せない。メニューからシステム設定を辿る。強制終了コマンド——無効。ハードウェアレベルのシャットダウン——応答なし。
「……本物か」
呟きが、自分の耳に冷たく響いた。
指先が微かに震えているのに気づいた。これはアバターの手だ。現実の手じゃない。なのに震えている。脳が恐怖を検知して、仮想の身体にまで反映させている。その事実が、かえって状況のリアルさを突きつけてきた。
通知のテキストがまだ視界に残っている。その下部に、追加の一文があった。
『攻略条件:「絶対領域」に出現する十体のボスを全て撃破せよ』
十体。絶対領域。新しい単語が並ぶ。だがそれよりも先に処理すべきことがある。
俺はパニック状態の群衆から離れ、ダンジョンの壁際に背をつけた。冷たい石の感触が背中に伝わる。こんな触覚、昨日まであっただろうか。呼吸を整える。VR空間に呼吸の概念はないはずだが、胸が詰まる感覚だけはリアルに再現されている。
冷静になれ。情報を整理しろ。
一つ。ログアウト不可は検証済み。 二つ。HP0=死。これはまだ確認できていないが、前提として扱うべきだ。 三つ。攻略条件は十体のボス撃破。 四つ。俺はいま最深層にいる。他プレイヤーの大半は地上の街だ。
地図を開いた。通常マップの表示が変わっている。東西南北、四つの方角から赤黒い領域がじわじわと浸食してきている。「絶対領域」——おそらくこれがそうだ。中心部にはまだ到達していないが、侵食速度から計算すると、数日以内に主要都市に届く。
そしてその赤黒い領域の内部に、十個の光点が脈動していた。
ボスだ。
俺は地図を閉じ、装備の状態を確認した。耐久値は万全。消耗品も十分。最深層から地上に戻るための転移結晶もある。
だが、足が動かない。
動かないんじゃない。動く先がわからない。
ソロで十体のボスを倒す。それが一番効率がいい——はずだ。いつもそうしてきた。誰にも合わせず、誰にも足を引っ張られず、自分の実力だけで道を切り開く。
なのに、さっきユイが言った言葉が消えない。
『速いのと、楽しいのは違うよ』
——楽しいかどうかなんて、今はどうでもいい。
生きるか死ぬかだ。
赤黒い光が、ダンジョンの奥からじわりと滲んでくる。空気が変わった。温度が二度ほど下がったような錯覚。匂いすらある——焦げた金属のような、不吉な臭い。
ありえない。VRMMOに嗅覚フィードバックは実装されていないはずだ。
なのに、鼻の奥が痛い。
赤い光が壁を伝い、天井を這い、足元まで迫ってきた。その光に触れた石床がじわりと黒く変色し、微かな蒸気を上げている。まるで生きているかのように脈打つ光の筋が、俺を取り囲むように広がっていく。その先に——何かがいる。巨大な質量が、闇の奥で呼吸している気配。重く、低く、内臓に響くような律動が空間を満たしていた。
俺はゆっくりと剣を抜いた。柄を握る手に力がこもる。これまで何百回と繰り返してきた動作なのに、今日だけは鋼の重さが違って感じられた。
これはもう、ゲームじゃない。