第3話
第3話
あの瞳が、広間を渡った。
蝋燭の光が揺れるたびに、影が席の間を泳ぐ。主賓の座からゆっくりと視線を巡らせるカイル王の所作は、広間のすべてを見ているようでいて、けれど何かひとつだけを探している人間のそれだった。呼吸を止めた。水差しを抱える腕に力が入り、銀の表面に映った自分の指が白く強張っているのが見えた。
見つかる。見つかってしまう。
あるいは、もう見つかっている。あの中庭の朝に目が合ったときから、この人は私を覚えていた。知らない少女が柱の影に立っていたことを、祈りの間から出てきたばかりの足取りで回廊を歩いていたことを。そのすべてを、穏やかな微笑みの下に畳んで、今この場で問いかけている。
「——陛下、その者は」
神官長がようやく声を絞り出した。喉に何かが詰まったような、聞いたことのない掠れ方だった。
「回廊で見かけられたのは、おそらく下働きの者かと。祈りの間は神殿の者であれば誰でも——」
「祈りの形が、でしたか」
カイル王の声が、神官長の言葉を静かに遮った。遮ったというより、上から被せるでもなく、ただ先に場を満たしたというほうが正しい。
「下働きの者にしては、随分と正しい祈りの姿勢でした。少なくとも私の目には、聖典の作法に則ったものに見えましたが」
広間にざわめきが走った。隣国の王が神殿の内情に踏み込む——外交儀礼として、それは明らかに境界を越えている。けれどカイル王の声音にはいっさいの険がなかった。世間話のように穏やかで、だからこそ逃げ場がない。紳士的な微笑みを崩さぬまま、刃を喉元に当てるような問いだった。
神官長の額に汗が浮かんでいるのが、薄い蝋燭の光の下でも見て取れた。壇上のエリアーヌが不安そうにその袖を見上げたが、神官長の目は真っ直ぐ主賓席に向けられたまま動かない。
そのとき、カイル王が歩き出した。
主賓の席を離れ、広間の中央を横切る。その足音だけが響いた。硬い靴底が石の床を叩くたびに、周囲の沈黙が深くなる。客たちが道を空けるように身を引いた。藍色の装束の裾が、蝋燭の光を受けて深い海のような色に揺れた。
長いテーブルの列を越え、主賓の座から遠ざかり、華やかな席から離れるほどに、光は翳っていく。蝋燭の数が減り、壁際の影が濃くなる。あの人はその影の中へ、迷いのない足取りで踏み込んできた。
末席まで——あと三歩。
水差しの取っ手を握る手が震えた。逃げなければと思った。けれど足が床に縫いつけられたように動かない。広間中の視線が、私のいる場所に集まっている。透明だったはずの影が、あの人の歩みによって、いま確かに照らし出されている。
二歩。
銀灰の髪が間近に見えた。蝋燭の残光を受けて、絹糸のように細い一筋一筋が淡く光っている。背が高い。見上げなければ顔が見えない。けれど見上げることができなかった。
一歩。
カイル王が立ち止まった。
そして——手を差し伸べた。
掌を上に向け、指をゆるやかに開いた右手。それは跪く者に向ける仕草だった。聖典の儀式で、神官が祈りを終えた聖女を立たせるときの——私が何度も見て、一度も向けられたことのない所作。
「祈りの形に偽りはなかった」
低い声が、私だけに届く距離で響いた。広間の誰にも聞こえないほど小さく、けれど私の耳には、骨を伝って頭蓋の内側にまで沁みるように明瞭だった。
偽りはなかった。
その言葉の意味を、一瞬、理解できなかった。偽聖女。偽りの存在。三度の儀式に失敗し、名前すら消された少女に向かって、この人は——偽りはなかったと言ったのだ。聖印のことではない。私が聖女であるかどうかでもない。あの朝、祈りの間で膝をつき、手を合わせていた姿そのものを、この人は見ていた。祈りの形を。
目の奥が熱くなった。泣きたいのではない。ただ、胸の底で凍っていた何かが急に溶け出して、行き場を失っているだけだった。
差し伸べられた手のひらが、蝋燭の薄い光を受けて温かく見えた。指は長く、けれど武人のそれではない。書物の頁をめくり続けた者の手。爪の形が整っていて、手首の内側に薄い古傷がある。それをこんな間近で見つめていることの異常さに、頭の片隅で気づきながら、目が離せなかった。
震える指で、水差しを脇の台に置いた。銀が石に触れてかすかに鳴った。
そして、恐る恐る——その手に指先を触れた。
温かかった。石の床の冷たさと、銀の水差しの冷たさしか知らなかった指先が、初めて人の体温に触れた気がした。掌の中心に、硬いペンだこの感触がある。やはり、この人は書物に生きる人だ。
「……リーゼ、と申します」
声が掠れた。自分の名前を口にするのがこんなに怖いとは思わなかった。偽聖女の名を、隣国の王に告げる。それはこの場の秩序を壊す行為だった。消された存在が、名を持って現れてしまう。
カイル王は頷いた。私の名を受け取るように、深く、静かに。
「リーゼ殿」
殿、と。名前のあとに敬称をつけて呼ばれたのは、この世界に来て初めてだった。唇が震えた。噛み締めなければ、何かが零れてしまいそうだった。
「陛下——」
神官長が壇上から声を上げた。取り繕おうとしているのだろう。その声は宴の空気を修復しようと張り詰めていた。
「その者は先日まで聖女候補として儀式に臨んでおりましたが、残念ながら聖印は降りませんでした。現在は神殿にてお世話をしている身でございます」
嘘ではない。けれど真実でもない。物置に移され、下働きと同じ食事を与えられ、存在を消された少女を「お世話をしている」とは。言葉の輪郭だけを正しく整えて、中身を入れ替える技術。神官長はそれに長けていた。
「なるほど」
カイル王は穏やかに応じた。神官長の説明に納得したように見えた。けれど私の指にはまだ、あの手のひらの温もりが残っていた。そしてあの一瞬——私の手に触れるほんの僅かな間に見えた、カイル王の瞳の奥にあったもの。
慈悲ではなかった。
同情でもなかった。あの穏やかな灰青の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ浮かんだのは——冷たい光だった。氷の底に閉じ込められた刃のような、計算された鋭さ。それは神官長に向けられていた。壇上の言葉を聞きながら、あの瞳はすべてを見透かしていた。何が真実で、何が取り繕いで、何が意図的に消されているのか。
あの一瞬の光は、私に見せるためのものではなかったのだろう。けれど見てしまった。この人は優しいだけの王ではない。穏やかな微笑みの下に、別の何かを持っている。
怖い、と思った。
けれどそれは、逃げ出したくなるような恐れとは違った。暗い水の底に何があるのか知りたいと思うような——覗き込んではいけないと知りながら、目を逸らせない種類の感情。名前がつかない。恐怖でも敬意でも、ましてや好意でもない。ただ、この人の前では嘘がつけないだろうという直感だけが、胸の中に静かに座った。
カイル王は元の席に戻っていった。宴が再び動き出す。客たちのざわめきが少しずつ広間を満たし、食器の音が蝋燭の光の中に戻ってくる。何事もなかったかのように——けれど、末席の空気だけが変わっていた。隣に座る客が、初めて私の顔をちらりと見た。その視線に好意はない。ただ、さっきまで透明だった給仕が、突然輪郭を持ってしまったことへの戸惑いがあった。
水差しを再び手に取った。指がまだ温かかった。あの掌の温度が、銀の冷たさに溶けていくのが惜しいと思った。
宴が終わるまで、私は末席で水を注ぎ続けた。カイル王の声は時折聞こえたが、こちらを振り向くことはなかった。あの問いかけも、差し伸べた手も、もう済んだことのように。
けれど私の胸には、ふたつのものが残った。
ひとつは、あの声。祈りの形に偽りはなかった——その言葉が、凍えた胸の底に灯った小さな火のように消えずにいた。
もうひとつは、あの瞳の奥の冷たい光。
この人は、何を知っているのだろう。偽聖女のことを。聖印のことを。あるいは——この神殿が、何を隠しているのかを。
あの手のひらの温かさと、瞳の奥の冷たさ。そのふたつは矛盾していた。矛盾しているのに、どちらも嘘には見えなかった。
物置の部屋に戻り、薄い毛布にくるまっても、指先の感触が消えなかった。リーゼ殿、と呼ばれた声が、暗がりの中で何度も繰り返された。天井の隙間から細い夜風が吹き込み、頬を撫でていく。その冷たさすら、今夜はどこか違うものに感じられた。
眠れないまま、私は自分の掌を見つめた。聖印のない、ただの手。けれどその手に、あの人は触れた。跪く者に差し伸べるように。
——この人は何を知っているのか。
問いは答えを持たないまま、暗い天井に溶けて消えた。けれど消えたのは声だけで、問いそのものは胸の底に根を張り始めていた。恐れとは違う。信じたいとも違う。ただ、知りたかった。あの冷たい光の正体を。あの温かい手が、何のために差し伸べられたのかを。