第2話
第2話
三つの恒星が描く軌道を、レイジは操舵席から凝視し続けていた。
赤色巨星が最も外側の軌道を回り、その内側を青色矮星と白色星が二重螺旋のように絡み合いながら周回している。赤色巨星の表面から噴き上がるプロミネンスが、数秒ごとに内側の二星を舐めるように伸びては引き戻される。その度に青色矮星の輝度が僅かに揺らぎ、白色星の周囲に同心円状の重力レンズが明滅した。重力干渉のパターンが常識から逸脱していた。三体が安定軌道を維持すること自体、天体力学的にはほぼ不可能だ。連邦航宙アカデミーの教科書なら「理論上の仮定」として片隅に載る程度の現象が、目の前で実在している。
身体が震えていた。寒さではない。冷凍睡眠から覚醒した直後の神経系は、信号の優先順位を見失っている。指先に触覚が戻ったかと思えば、次の瞬間には左腕全体の感覚が消える。右の太腿に鋭い痺れが走り、それが消えると今度は肋骨の内側が脈打つように疼いた。筋肉の一本一本が覚醒のタイミングを間違えて、ばらばらに収縮と弛緩を繰り返している。視界の端が歪み、操舵席のコンソールの文字列が二重に見えた。
頭痛。いや、頭痛という言葉では足りない。頭蓋の内側を焼けた鉄線で縫われているような、持続的な灼熱。こめかみの奥で血管が膨張し、拍動のたびに視野が白く明滅する。あのパルスが脳を貫通してから、神経そのものが再配線されたような感覚が消えない。
レイジは額を操舵席のコンソールに押し当てた。冷たい金属の感触が、わずかに痛みを和らげる。額の皮膚が金属に張り付く冷感が、かろうじて意識の輪郭を繋ぎ止めていた。呼吸を整えようとして、気管が痙攣した。冷凍睡眠中に使われていた酸素供給チューブの跡が喉の奥にまだ残っている。粘膜が荒れ、呼吸のたびに喉の内壁が貼り付くような不快感がある。異物を吐き出すように咳き込み、唾液に血が混じった。鉄の味が舌の上に広がり、胃の底から酸っぱいものがせり上がる。レイジは奥歯を噛み締めてそれを押し戻した。
落ち着け。状況を整理しろ。
航宙士の訓練が身体に刻んだ手順が、混乱した思考を引き戻す。まず現在位置。次に船の状態。それから行動方針。基本中の基本だ。アカデミー一年次の最初の週に叩き込まれた原則。教官の声が記憶の底から蘇る。——考えるな、手順を回せ。感情は後だ。
位置の特定は失敗した。ナビゲーション系が返した結果はすでに確認済みだ。既知座標との照合不能。推定距離は数万光年。連邦宙域の外縁ですらない、完全な未踏領域。その事実を、レイジの脳はまだ処理しきれていない。数万光年。その距離を言葉として理解することと、それが自分の現在地であることを受け入れることの間には、深い溝がある。帰還に必要な時間。通信が届く可能性。救援を期待できる確率。どの数字も、計算する前から答えがわかっていた。
船の状態を確認する。そう思った瞬間、情報が来た。
頭の中に直接流れ込んでくる。メインエンジン、推力出力29%。姿勢制御スラスター、4基中2基が応答。船体外殻の気密、62%維持。貨物区画A-1からA-4は真空暴露。居住区画は最低限の与圧を保持。電力残量——78時間分。生命維持系の酸素再生能力から算出した残余活動時間——約96時間。
レイジは目を見開いた。
今の情報は、コンソールから読んだものではない。画面には何も表示されていない。船のシステムが、レイジの思考に直接応答した。ナビゲーション系だけではない。エンジン、生命維持、構造診断——ヴァルハラ号のあらゆるサブシステムが、まるで自分の身体の延長のように知覚できる。損傷した外殻は折れた肋骨のように鈍く痛み、真空に晒された貨物区画は凍傷を負った指先のような冷たい空白として感じられた。
試す。右舷のセンサーアレイを起動しろ。
思考がコマンドに変換される感覚。電気信号が脊髄から首筋を抜け、操舵席のインターフェースを経由して船体のバスラインに流れていく——その経路すら、知覚できた。神経の延長が金属と光ファイバーの中を走り、船体の隅々まで到達する奇妙な全能感。0.3秒後、右舷センサーが起動する微かな振動がレイジの皮膚感覚として返ってくる。
スラスターの制御を試みた。船首を三重連星系の方角に向ける。ヴァルハラ号が緩やかに回頭し、船体のねじれ応力がレイジの背骨に圧迫感として伝わった。椎間板が軋むような圧力。船が自分の身体になっている。操舵桿も、キーボードも、音声コマンドも要らない。思考するだけで、船が応じる。
あり得ない。
量子ニューロリンクという技術は理論上存在する。人間の神経系と船のコンピュータを量子もつれで直結する技術。だが実用化はされていないはずだ。連邦の軍事研究でさえ、動物実験の段階で頓挫したと聞いている。被験体の霊長類は全例が72時間以内に脳死した——そんな論文の断片が、記憶の底に沈んでいた。
レイジは自分の手を見た。指先がかすかに震えている。皮膚の色は冷凍睡眠後特有の蒼白さだが、血管の走行に沿って、薄い紫色の線が浮かんでいた。手首から肘にかけて、毛細血管が蜘蛛の巣のように浮き上がり、その一本一本が微かな光を帯びているようにも見える。パルスの痕跡か。身体の内側で何が起きたのか、今は確かめる術がない。
使えるものは使え。レイジは自分にそう言い聞かせた。状況を理解できなくても、生き延びるためにできることをやる。航宙士はそう訓練されている。理解は後でいい。今は生存だけを考えろ。
船内ログの走査を開始した。思考でアクセスすると、ヴァルハラ号の航行記録データベースが脳内に展開される。膨大なデータの海。視覚ではない何かで、テキストと数値の奔流を一度に知覚する。通常の読書とは質が異なる——情報が意味を持った塊として直接認識に焼き付けられる感覚だった。船齢四十年分のログは、大半が定型的な輸送記録だった。積荷リスト、航路記録、メンテナンス報告。レイジはその中から、異常を含むエントリだけをフィルタリングする。思考速度でのデータ処理。通常の人間には不可能な検索速度が、今のレイジには可能だった。
3,847件のログエントリから、12件が抽出された。
最初の数件は機器の故障や軽微な航路修正の記録で、有意な情報はない。だが7件目のエントリを開いた瞬間、レイジの思考が凍った。
受信記録。17年前のタイムスタンプ。ヴァルハラ号が辺境航路の輸送任務に就いていた時期の、外部信号の受信ログ。発信源の座標は——。
レイジは三重連星系の位置データと照合した。ナビゲーション系が即座に結果を返す。
一致。
17年前、ヴァルハラ号は今この船がいる宙域と同じ座標から発せられた信号を受信していた。記録上は「原因不明の電磁波ノイズ」として処理され、航行に影響なしとして無視されている。だが信号のパターンをレイジの量子化した知覚で解析すると、明確な構造が見えた。等間隔のパルス。繰り返されるシーケンス。周波数が階段状に上昇し、ある閾値で折り返して再び上昇する。数学的に整然とした構造。ノイズではない。
残りの5件を一気に走査する。タイムスタンプはばらばらだが、すべてに共通する要素があった。同一座標からの受信。同一のパルスパターン。そして——すべてのログエントリが、記録の直後に閲覧制限コードを付与されていた。連邦航宙軍情報局の管轄を示すコード。
誰かがこの信号を知っていた。受信記録を見つけ、閲覧制限をかけた。一介の輸送船の、取るに足りないノイズ記録に、軍情報局が介入する理由。
レイジの背筋を、冷凍睡眠とは別種の冷たさが這い上がった。内臓が収縮し、胃の底に鉛を流し込まれたような重さが沈む。恐怖ではない。もっと根源的な、世界の前提が足元から崩れていく感覚だった。
操舵席に深く身体を沈め、三重連星の光に照らされたブリッジの天井を見上げた。三つの恒星が放つ光が、ブリッジの天蓋を通して交差し、赤と青と白の光斑が金属の壁面をゆっくりと移動していく。あの青い光。軍法会議で否定され、存在しないと棄却されたもの。その正体がここにある。ヴァルハラ号は偶然この宙域に跳ばされたのではない。この座標は、17年以上前から連邦に認知されていた。
おれは、ここに導かれた。
思考が結論に至った瞬間、船体が微かに振動した。センサーアレイが、レイジの意思とは無関係に新たなデータを拾い始めている。三重連星系の内縁、小惑星帯の密集領域。その中に、自然の岩塊とは異なる質量分布を持つ物体が、複数検知されていた。