第1話
第1話
死んだ人間にも、夢を見る権利くらいはあるらしい。
灰原レイジの意識は、凍りついた脳の奥で断片的な映像を繰り返していた。操舵席。目の前に広がる漆黒の宙域。計器パネルの青白い光が頬を照らし、航路データが網膜投影ディスプレイの上を流れていく。第七管区、辺境航路C-1189。この航路を何百回と飛んだ。星図に記された恒星の位置、小惑星帯の密度分布、重力井戸の等高線——すべてが身体に染みついている。
だからこそ、気づいた。
星図にない座標。公式データベースのどこにも記録されていない空間に、何かが瞬いていた。青い光。恒星とも航行ビーコンとも異なる、脈動するような輝き。計器が示す数値は矛盾だらけだった。距離は測定不能。しかしセンサーは明確に反応を返している。レイジは操舵桿を握る手に力を込め、航路を——
映像が砕ける。
軍法会議の法廷。白い照明の下、三人の審判官が並ぶ長机。中央に座る男の顔は靄がかかったように思い出せない。ただ、声だけが鮮明に残っている。「被告人・灰原レイジ一等航宙士。航路逸脱による民間船十二隻への危険飛行の罪により——」階級章を剥がされる瞬間の、布が裂ける小さな音。胸元が軽くなる感覚。七年間の航宙士としての経歴が、あの一枚の金属片と一緒にもぎ取られた。
弁護の余地はなかった。目撃した航路データについて発言しようとするたび、記録が「存在しない」と棄却された。センサーログは改竄済み。フライトレコーダーは「機器の故障により消失」。レイジの証言だけが残り、それは精神不安定の根拠として逆に利用された。
——冷凍刑。量刑としては最重に近い。
夢の中で、レイジは自分の身体が凍っていく過程を追体験する。冷凍刑房のカプセルに押し込まれ、背中に冷却パネルの金属が触れた瞬間の、骨まで届く冷たさ。透明なシールドが閉じる。強化ガラス越しに見えた護送兵の顔は、すでにレイジのことを死者として扱っていた。冷却液が循環を始め、末端から感覚が消えていく。指先、足先、腕、脚。最後に残ったのは視覚だった。天井の非常灯の赤い点滅が、意識の最後の一片に焼きついて——
『生命維持報告。被収容者01、灰原レイジ。神経活動レベル0.003。廃棄処分までの残余時間、71時間48分。異常なし』
船内AIの音声が、夢の底に沈むレイジの聴覚をかすめた。合成音声は何の感情も帯びていない。廃棄処分。その四文字が意味するものは単純だった。貨物船ヴァルハラ号は老朽化により解体が決定している。船ごと、冷凍刑房ごと、中身の人間ごと。連邦航宙軍の帳簿上では「刑の執行完了」と「廃棄船の処理」が同時に記録される。合理的だ、とレイジの意識の残滓が思う。死刑と明記せずに死刑を執行する。連邦らしいやり方だった。
ヴァルハラ号は、かつて外縁星系への資材輸送に使われた中型貨物船だった。船齢四十年を超え、メインエンジンは推力の三割しか出ない。貨物区画の気密は半数が破れ、居住区画の空調は最低限の酸素循環だけを維持している。冷凍刑房は本来この型の船には存在しない設備だった。後付けで増設された二基のカプセルのうち、稼働しているのはレイジが入れられた一基だけ。もう一基は冷却系の故障で、中身ごと放棄されている。前の収容者が誰だったのかは、記録にすら残っていない。
『生命維持報告。被収容者01、灰原レイジ。神経活動レベル0.003。廃棄処分までの残余時間、71時間42分。異常なし』
六分ごとに繰り返される報告。レイジの凍った脳が処理できる情報はごくわずかだが、この単調な反復だけが時間の経過を教えてくれた。意識があるのかないのか、自分でも判然としない状態。冷凍睡眠は本来、神経活動を完全に停止させる。レベル0.003という数値は、停止しきれていないことを意味していた。冷却系の劣化か、それとも別の原因か。いずれにせよ、完全な無ではなかった。死にきれない眠り。それがレイジに与えられた最後の時間だった。
悪夢が巡る。操舵席。青い光。軍法会議。階級章。冷凍刑房。そしてまた——青い光。
繰り返すたびに、光の像が鮮明になっていく。最初は計器越しの点にすぎなかったそれが、今は視界を満たすほどに広がっている。脈動している。心臓の鼓動に似たリズムで、青い光が明滅を繰り返す。レイジの凍った神経回路の奥で、何かが共振するように震えた。
光が、近づいてくる。
いや——違う。光は動いていない。引き寄せられているのは自分のほうだ。意識の断片が、光に向かって落下していく感覚。恐怖はなかった。冷凍刑房の氷よりも深い場所で、レイジの中の何かが応答していた。知っている、とその何かが告げる。この光を、おれは知っている。
『警告。船体構造に振動を検知。発生源——外部。廃棄シーケンスの遠隔起動信号を受信。認証コード照合中』
AIの声が変わった。報告から警告へ。レイジの意識の水面に、かすかな波紋が立つ。
『認証完了。廃棄シーケンスを開始します。全区画の生命維持は段階的に停止されます。冷凍刑房の電源遮断まで、推定46分』
船体が震えた。低い振動が冷凍刑房のカプセルを伝い、レイジの凍った脊椎を這い上がる。廃棄シーケンス。予定より早い。72時間の猶予は、帳簿上の数字にすぎなかったらしい。
振動が強まる。船殻のどこかでボルトが軋む金属音が響いた。ヴァルハラ号の老朽化した構造体が、自壊のプロセスに入ろうとしている。
その瞬間——レイジの脳の奥で、青い光が爆発した。
夢でも幻覚でもない。神経そのものが発火したような、灼熱の衝撃。冷凍状態の身体が弓なりに反り、カプセルの内壁に背中が叩きつけられた。凍りついていたはずの筋肉が痙攣し、口から声にならない叫びが漏れる。視界が白く焼け、そして——
パルス。
量子パルスが、脊髄から大脳皮質までを一直線に貫いた。冷凍刑房の制御パネルが火花を散らし、カプセルのシールドにひび割れが走る。冷却液が蒸発し、白い霧がレイジの身体を包んだ。拘束ベルトのロックが弾け飛ぶ。
そしてレイジの意識に、自分のものではない情報が流れ込んできた。
船の情報だった。エンジン出力。燃料残量。各区画の気圧と温度。航行データ。センサーの読み取り値。ヴァルハラ号のナビゲーション系統が、レイジの神経系と直結している。思考がそのまま船のコマンドになる。
意味がわからなかった。だが身体は動いた。
割れたシールドを押しのけ、カプセルから転がり出る。膝が冷たい床に着く。四肢の感覚が針で刺されるように戻ってくる。視界がまだ定まらない。白い霧の中で、非常灯の赤い光だけがぼんやりと見える。
レイジは壁に手をつき、よろめきながら立ち上がった。冷凍刑房の狭い区画を抜け、通路を進む。足が覚えている。この型の貨物船のレイアウトなら、目を閉じていても歩ける。ブリッジは船首方向、二層上。
ブリッジの扉が、レイジが近づいただけで開いた。思考で船を操作できる——その事実を、まだ頭が受け入れられない。
操舵席に倒れ込むように座る。正面の船外モニターに手を伸ばし、電源を入れた。画面がちらつき、ノイズが走り、そして映像が安定する。
レイジは息を呑んだ。
三つの恒星が、互いの重力に縛られて旋回していた。赤、青、白。三重連星系。こんな星系は連邦の公式星図に存在しない。航宙士として叩き込まれた既知星系のカタログ、その一つとも一致しない光景が、モニターいっぱいに広がっている。
ヴァルハラ号のナビゲーション系が、レイジの思考に応じて位置特定を試みた。結果が返る。既知座標との照合——失敗。推定距離——算出不能。唯一の手がかりは、背景の恒星パターンから逆算した概算値だけだった。
数万光年。
連邦宙域から、数万光年の彼方。
凍えた指が操舵席の肘掛けを握りしめた。船体の振動はいつの間にか止んでいる。廃棄シーケンスも、冷凍刑房の警告音も。静寂の中で、三重連星の光だけがブリッジを照らしていた。
レイジは目を閉じ、もう一度開けた。景色は変わらない。
おれは——どこにいる。