第3話
第3話
マリアベルの翡翠の瞳に宿った光が、三日経っても脳裏から離れなかった。
あれが何を意味するのか——答えは推測の域を出ない。だが一つだけ確かなことがある。前世の記憶に頼るだけでは足りない。記憶は所詮、十五歳の愚かな公爵令嬢が見ていた世界の断片に過ぎない。知らなかったことの方が遥かに多い。
証拠が要る。
王家と聖女派の結託を示す、言い逃れのできない物的証拠。
リゼルヴァーナは入学から三日間、模範的な新入生を演じた。講義には遅れず出席し、教師には丁重に応じ、同級生には氷の微笑みで適切な距離を保った。その裏で、学園の構造を一つ一つ確認していた。前世の記憶と照らし合わせながら、廊下の配置、巡回の間隔、鍵のかかる扉の位置を頭の中の地図に書き込んでいく。
目当ての場所は一つ。学園の北棟地下——禁書庫。
前世の三年目、処刑の直前に聞いた断片的な会話を覚えている。牢の中で看守が漏らした言葉だ。「公爵家の血統に関する文書は学園設立時に封印された」と。当時は意味がわからなかった。今なら分かる。王立学園は単なる教育機関ではない。王家が貴族の子弟を監視し、管理するための装置だ。そしてその地下には、表に出せない記録が眠っている。
深夜。消灯の鐘が鳴ってから二刻。
寮室の窓を開けると、月のない夜だった。新月。闇が学園の中庭を濃い墨のように満たしている。リゼルヴァーナは制服の上に黒い外套を羽織り、音を殺して廊下に滑り出た。
巡回の衛兵は二人一組で北棟と南棟を交互に回る。間隔は約四半刻。前世でエドヴァルトの側近が夜間に密会していた時刻を思い出す。あの男たちが捕まらなかったのだから、経路は存在する。
石造りの廊下を影伝いに進む。靴音を消すため、室内履きの底に薄い布を巻いてある。呼吸を整え、壁に背をつけて角を覗く。長い回廊の先に、衛兵の灯りが遠ざかっていくのが見えた。
北棟の階段を降りる。地下への通路は普段、鉄格子の扉で封じられている。鍵は学園長と副学園長のみが所持——というのが表向きの話だった。だが前世の記憶には、もう一つの入口がある。北棟地下の物置に繋がる搬入路。建設当時の図面には記されていたが、増築の際に壁で塞がれた通路。壁で塞がれた、と記録にはある。実際には——
リゼルヴァーナは物置の奥に積まれた木箱をそっと移動させた。壁面の石組みに指を這わせる。冷たい石の感触。一つだけ、わずかに出っ張った石があった。押し込むと、かすかな軋みとともに石壁の一部がずれた。人一人が横向きに通れるほどの隙間。埃と黴の匂いが噴き出す。
前世では知り得なかった通路。これは乙女ゲームの記憶——物語の「設定資料」として断片的に残っていた情報だった。ゲームの隠しイベントで使われる、攻略対象の一人が主人公を禁書庫に連れ込むルート。あの世界では甘い逢瀬の舞台だったものが、今世では諜報の道具になる。
狭い通路を進む。蜘蛛の巣が顔にかかり、足元の石畳は湿って滑る。やがて通路が開け、広い空間に出た。
禁書庫だった。
天井の高い石室に、古びた書架が整然と並んでいる。持ち込んだ小さな魔灯の光が、革装丁の背表紙を薄く照らした。埃が光の中で舞い、乾いた羊皮紙の匂いが鼻腔を満たす。空気そのものが数百年分の秘密を含んで重かった。
時間は限られている。巡回の隙間は四半刻。往復の時間を差し引けば、ここにいられるのは実質、半刻がせいぜい。
リゼルヴァーナは書架の分類を確認した。年代順に並んでいる。目当ては学園創設期——約二百年前の記録。書架の奥へ進むほど古い文書が増え、保存用の魔術封印が施された箱が棚に並び始めた。指先で封印の紋様をなぞる。これは王家の紋章を基盤とした封印術式。一般の生徒や教師では解除できない。
だが、公爵家の血は別だった。
指先に意識を集中すると、掌にあの熱が灯った。入学式の日に感じたのと同じ、骨の髄から湧き上がるような熱。皮膚の下で古代文字が微かに明滅する。その光が封印の紋様に触れた瞬間、紋章がほどけるように消えた。
始祖魔法の血統が持つ特権——王家の封印を無効化する力。公爵家を恐れる理由の一端が、ここにあった。
封印を解いた箱の中には、黄ばんだ羊皮紙の束が収められていた。震える指で広げる。
『第一次王権安定化協約——始祖血統の処遇に関する密約』
古い書体だが、読めないほどではない。リゼルヴァーナは目を走らせた。
内容は、想像を超えていた。
学園創設と同時に結ばれたこの密約は、王家と当時の聖女派の間で取り交わされたものだった。要旨はこうだ。始祖魔法の血統を持つ公爵家は、万物の構造式を書き換える力を有する。この力は制御下に置かねばならない。王家は婚姻によって公爵家を取り込み、血統を王家の管理下に組み入れる。もし統合が不可能な場合は——
「排除も辞さない」
声に出して読んだ瞬間、文字が現実の重みを持って胸に落ちた。
聖女派の役割も明記されていた。聖女は「浄化」の名目で始祖魔法の覚醒を監視し、覚醒の兆候が確認された場合、当該人物を「汚染された者」として告発する権限を持つ。告発が受理された場合、王家は速やかに排除を実行する。
つまり聖女の告発は、二百年前から用意された制度だった。マリアベルが私を陥れたのではない。マリアベルは、制度の中で割り当てられた役割を演じたに過ぎない。いや——「演じた」のか「利用した」のかは、まだわからない。
さらに読み進める。密約の末尾に、署名とともに一節が添えられていた。
『始祖の血が覚醒せし時、それは王権への脅威となる。覚醒者には二つの道のみを許す。王家への完全なる服従か、永遠の沈黙か』
婚姻か、死か。
前世のリゼルヴァーナが辿った道筋が、二百年前の文書に寸分違わず記されていた。婚約——取り込みの試み。破棄——取り込み失敗の判定。処刑——「永遠の沈黙」の執行。
全てが、台本通りだった。私だけの台本ではない。公爵家の血族が二百年にわたって繰り返し押し込められてきた鋳型だ。
怒りが腹の底から這い上がってきた。
処刑は政治的粛清だと理解していた。覚悟もしていた。だがこれは粛清ですらない。害虫駆除の手順書だ。公爵家の人間を人として扱った形跡が、この文書のどこにもない。血統という名の罪を、生まれた瞬間から背負わされていた。
——父上は、これを知っていたのだろうか。
祖父は。曾祖父は。代々の当主は、この鋳型の中でどう生きたのか。服従を選んだ者がいたから、公爵家は今日まで存続している。けれどその服従の代償に、どれほどのものが奪われてきたのか。
リゼルヴァーナは羊皮紙を元の箱に戻し、封印を再び施した。文書を持ち出せば侵入が発覚する。記憶に焼きつければいい。一字一句、忘れはしない。
禁書庫を後にしようと身体の向きを変えたとき、別の書架の一角が目に留まった。他の棚より明らかに厳重な封印が施された小さな箱。表面の紋章は王家のものではなく——公爵家のものだった。
誰がここに公爵家の封印を施したのか。この疑問は今夜では解けない。だが場所は覚えた。必ず戻ってくる。
搬入路を戻り、物置の木箱を元の位置に積み直す。外套についた埃を払い、寮への道を引き返す。巡回の衛兵とすれ違う気配はない。計画通りだった。全て、計画通りに——
寮室の扉を閉め、背中を預けた瞬間、堰を切ったように全身が震え始めた。
膝から力が抜け、床に崩れ落ちる。外套の下で握りしめていた拳を開くと、掌が赤く灼けていた。怒りだ。禁書庫の中では理性で押さえ込んでいた感情が、安全な場所に戻った途端に溢れ出した。
二百年だ。二百年もの間、私の一族は首に縄をかけられて生きてきた。従うか死ぬか、その二択しか許されずに。前世の私もその鋳型に嵌められ、何も知らずに処刑台に送られた。
——許さない。
掌が灼熱を帯びた。骨が軋むほどの熱。見下ろすと、両手の甲から指先にかけて、古代文字の紋章が浮かび上がっていた。入学式の日に見た微かな明滅ではない。はっきりと、月光の下でも読めるほどの光で、皮膚の上に刻まれている。
文字が脈動していた。心臓の鼓動と完全に同期し、怒りの波に呼応するように明滅を繰り返す。光は掌から手首へ、手首から前腕へと這い上がる。血管を辿るように、古代文字の連なりが身体を侵食していく。
熱い。だが、痛くはなかった。痛みの代わりにあったのは——理解だった。文字の一つ一つが意味を持って脳に流れ込んでくる。「書き換え」「構造」「始まりの契約」。断片的な概念が、処理しきれない速度で押し寄せる。
これが、始祖魔法。
王家が二百年にわたって恐れ続けた力の、最初の片鱗。
紋章は数秒で消えた。灼熱が引き、古代文字は皮膚の下に沈んでいく。後に残ったのは微かな痺れと、指先に滲む汗だけだった。
リゼルヴァーナは荒い呼吸を整えながら、自分の掌を見つめた。
密約文書の一節が蘇る。『始祖の血が覚醒せし時、それは王権への脅威となる』。
覚醒が始まっている。前世では一度も起きなかった現象が、今世では入学からわずか三日で二度も。何が引き金になっているのかはわからない。だが王家がこの力を恐れる理由は、もう理解できた。万物の構造式を書き換える力。密約に書かれていたあの一文の意味が、今なら肌で分かる。
制御しなければならない。この力を御せなければ、前世とは別の理由で破滅する。
寝台に倒れ込み、天蓋を見上げた。疲労が全身に重くのしかかる。けれど頭だけは冴えていた。二百年分の鋳型を壊すのに、仮面と記憶だけでは足りない。
力が要る。知識が要る。そして——味方が。
瞼を閉じる直前、禁書庫の片隅に見た、公爵家の紋章が施された小さな箱が脳裏を過ぎった。あの中に何がある。始祖魔法の制御法か。公爵家の先祖が残した遺言か。あるいは——王家の鋳型を打ち砕くための、もう一つの台本か。
答えは、まだ闇の中にある。