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氷の令嬢は台本を書き換える

第2話 第2話

第2話

第2話

掌の熱が引くのを待って、リゼルヴァーナは指を握り込んだ。

今のは何だ。古代文字——始祖魔法の紋章か。前世では一度も現れなかったものが、なぜ今、この瞬間に。

皮膚の下に残る余韻が脈拍と重なるように疼く。痛みではない。もっと奥深い場所——骨の髄に埋め込まれた何かが共鳴するような、不快と畏怖の中間にある感覚だった。

考えている暇はなかった。マリアベルがこちらに向かって歩いてくる。亜麻色の髪が春の光を受けて淡く輝き、周囲の視線を吸い寄せていく。まるで舞台の上の主役が照明を浴びるように、自然に、しかし計算し尽くされた所作で。石畳を踏む靴音すら耳に心地よく響く。歩幅の一つひとつが、見る者の無意識に「守ってあげたい」と思わせるよう設計されている。

「ご挨拶が遅れてしまいました。マリアベル・エーデルシュタインと申します」

声はすずらんの花弁が触れ合うように軽く、けれど講堂の空気を確かに震わせる芯があった。近くで見ると、前世の記憶通りの顔だった。柔らかな頬、伏し目がちの翡翠の瞳、触れれば折れそうな細い手首。か弱さを纏うことに長けた少女。けれど前世の私は、この少女の本性に最後まで気づけなかった。

「リゼルヴァーナ・フォン・アルトシュタインです。お見知りおきを」

完璧な微笑みを返す。声に感情の揺らぎはない。公爵令嬢として何百回と繰り返してきた社交辞令の型に、身体が自然と従う。

「まあ、アルトシュタイン公爵家の。お噂はかねがね」

マリアベルの唇が弧を描く。その笑みに棘はない。善意しか読み取れない。だが——前世を知る目で見れば、あの微笑みの裏に張り巡らされた糸が見える。

前世では、この「はじめまして」から全てが始まった。マリアベルは私に親しげに近づき、やがて私の冷たさを周囲に吹聴し、被害者の仮面を被った。今世ではそうはさせない。

「エーデルシュタイン家のご令嬢でいらっしゃいますのね。遠方からの入学、お疲れでしょう」

「お気遣い、ありがとうございます。皆様とても親切で、もう安心しておりますわ」

何でもない会話だった。誰が聞いても、公爵令嬢が新入生に礼を尽くしている、それだけの場面。

けれどリゼルヴァーナの意識は会話の向こう側にあった。マリアベルが微笑むとき、視線が一瞬だけ揺れる。こちらの目を見ているようでいて、実は背後——来賓席のエドヴァルトの方を確認している。ほんの僅かな視線の移動。前世では見落としていた。

あれは、共犯者の確認だ。

式典が再開された。学園長の長い式辞が大講堂に反響する中、リゼルヴァーナは仮面の奥で思考を巡らせていた。

来賓席のエドヴァルトは、壇上に目を向けながらも三度、マリアベルの方を見た。意味もなく視線を送る距離ではない。新入生席と来賓席は講堂の対角にある。わざわざ首を巡らせなければ見えない位置だ。それを三度。しかも三度とも、マリアベルが他の生徒と話している瞬間を狙っている。

観察している。自分の駒が正しく機能しているか、確認している。

前世のリゼルヴァーナは、エドヴァルトがマリアベルに惹かれていくのを「恋」だと思っていた。婚約者でありながら他の女性に目を奪われる不実を嘆き、嫉妬に狂い、その感情を聖女への敵意として周囲に露呈させた。愚かだった。あれは恋ではない。政治だ。

始祖魔法の血統を持つ公爵家を排除するために、聖女という大義名分を利用する。エドヴァルトにとってマリアベルは愛の対象ではなく、政治的道具だった。そしてマリアベル自身も、それを承知の上で共謀している。

——いいえ。「共謀」という言葉では足りない。

リゼルヴァーナは目を細めた。あの視線の交わし方は、主従のそれではない。対等だ。エドヴァルトが確認しているのと同時に、マリアベルもまたエドヴァルトの出方を測っている。二人の間にあるのは信頼ではなく、互いを利用し尽くすという了解。

聖女は王太子の駒ではない。王太子もまた、聖女の駒ではない。

二匹の蛇が互いの尾を呑み合いながら、同じ獲物に向かって這い寄っている。

式典の後、新入生たちは中庭に導かれた。歓迎の茶会。白いテントの下にティーセットが並び、上級生たちが新入生を品定めする社交の場だった。

リゼルヴァーナは銀の茶器を手に取りながら、周囲の会話に耳を傾けた。前世の記憶が地図のように頭に広がっていく。あの侯爵家の次男は後にエドヴァルトの取り巻きになる。あの伯爵令嬢は聖女派に取り込まれる。そして——あの地味な青年、レオンハルト・ヴァルトシュタイン。

騎士科の新入生の列に、栗色の髪の青年が立っていた。仕立ての良くない制服。家紋のない胸元。没落貴族の子弟だと一目でわかる出で立ち。だが姿勢だけは誰よりも真っ直ぐで、周囲を窺うような卑屈さがどこにもない。他の新入生が名家の家紋を見せびらかすように胸を張る中、彼だけが何も纏わずに立っていた。何も持たないからこそ揺るがない——そういう種類の強さだった。

前世では、彼の存在に気づいたのは二年目だった。騎士団の演習で頭角を現し始めた頃、すれ違いざまに礼をされた。あのときの真摯な瞳を覚えている。けれどそれだけだった。公爵令嬢の自分には、没落貴族の騎士見習いなど眼中になかった。

今は違う。

レオンハルトは誰の派閥にも属さなかった。エドヴァルトの取り巻きにも、聖女の信者にもならなかった。処刑の日、群衆の中で唯一石を投げなかった人間がいたとすれば——確証はないが——おそらく彼だ。

「公爵令嬢」

声をかけられて視線を戻すと、上級生の一人が慇懃な笑みを浮かべていた。侯爵家の令嬢。名前は記憶にある。後にエドヴァルトの側近の婚約者となり、リゼルヴァーナの悪評を貴婦人たちの間に広めた女だ。

「入学おめでとうございます。公爵家のご令嬢にはぜひ、我が家の茶会にもお越しいただきたく」

社交の罠だった。序盤で特定の派閥に取り込むための誘い。前世では何も考えずに応じ、いつの間にか王太子派の外縁に組み込まれていた。

「まあ、ありがとうございます。ぜひ日程を調整させてくださいませ」

曖昧に微笑む。受けもせず、断りもしない。相手の表情に一瞬だけ戸惑いが走るのを見て、リゼルヴァーナは内心で頷いた。この距離感を保て。どの派閥にも与しない位置こそが、今の自分に必要な場所だ。

茶会が進むにつれ、マリアベルの周囲に人だかりができ始めた。遠方の男爵領から来た少女が、貴族社会の作法に戸惑いながらも健気に振る舞う。その姿が上級生たちの庇護欲を刺激していく。

見事な演出だった。助けを求めているようでいて、その実、自分から近づいている。困っている振りをして手を差し伸べさせ、恩を感じた相手を味方に変えていく。三年後に学園の半数を掌握する聖女の手法が、初日からすでに始まっている。

リゼルヴァーナは紅茶を一口含んだ。舌の上にダージリンの渋みが広がる。香りは春摘みの華やかさを持ちながらも、後味にどこか金属的な冷たさが残った。覚えておけ。敵の手札は全て知っている。問題は、どのタイミングで、どの札を切るか。

そのとき、視界の端でマリアベルがこちらを見た。

茶会の喧騒の中、二人の視線が交差する。マリアベルの唇が動いた。声は届かない。けれど唇の形が読めた。

——よろしくお願いしますね。

社交辞令のはずだった。にこやかな微笑み、緩やかに傾げられた首、柔らかな目元。完璧な善意。そのどこにも違和感はないはずだった。

なのに。

マリアベルの翡翠の瞳の奥に、一瞬だけ——本当に刹那だけ——異質な光が閃いた。

計算でも打算でもない。もっと根源的な何か。まるでリゼルヴァーナという存在を、初めて見る者の目ではなく、「答え合わせ」をする者の目で見ているような。

既視感。

リゼルヴァーナの呼吸が止まった。

周囲の喧騒が遠のく。笑い声も、食器の触れ合う音も、春風がテントの布を揺らす音さえも、水の底に沈むように輪郭を失っていく。世界にはマリアベルの翡翠の瞳だけが残った。

あの目を知っている。今朝、鏡の中で見た目だ。処刑の記憶を抱えて目覚めた直後の、全てを知っている者の目。「前」を知る者だけが持つ、あの底知れない静けさ。

——まさか。

掌がまた熱を帯び始める。握り込んだ拳の中で、指先が微かに発光しているのがわかった。古代文字の紋様が、皮膚の下で脈打つように明滅している。始祖の血が、何かに反応している。熱は掌から手首へ、手首から前腕へと這い上がり、心臓の鼓動と同期するように波打った。

マリアベルの微笑みが、ほんの僅かに深くなった。

リゼルヴァーナは笑みを崩さなかった。仮面は微塵も揺るがない。けれどティーカップを持つ指先が白くなるほど力が入っていることを、自分だけが知っていた。

——この女は、ただの聖女ではない。

前世で見落としていた最大の駒は、王太子でも、取り巻きでもなかった。

目の前で無垢に微笑むこの少女こそが、盤上の全てを動かしていた黒幕だったのかもしれない。

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