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氷の令嬢は台本を書き換える

第1話 第1話

第1話

第1話

冷たい鉄の匂いがした。

それが、リゼルヴァーナ・フォン・アルトシュタインの最後の感覚だった。

断頭台の木板に押しつけられた頬が軋む。湿った木の繊維が肌に食い込み、昨日の雨の残り香と、錆びた血の臭いが鼻腔に張りついて離れない。首筋に刃の影が落ちる。冷気が一筋、剃刀のように皮膚を撫でた。群衆のざわめきは、もう遠い潮騒のようにしか聞こえない。

「——聖女マリアベルへの迫害、王家への叛意、その罪により」

執行官の声が広場に響く。リゼルヴァーナは薄く目を開けた。逆さまに見える世界の中、最前列に並ぶ顔が見えた。

王太子エドヴァルトは腕を組み、まるで退屈な式典を眺めるような顔をしていた。その隣で聖女マリアベルが目を伏せ、祈るような仕草を見せている。慈悲深い聖女の演技。あの白い指が、どれほどの命を食らってきたか、誰も知らない。

「処刑を——執行する」

刃が落ちる音を、リゼルヴァーナは聞かなかった。

代わりに、奔流のような光が脳裏を貫いた。見知らぬ部屋。小さな画面の中で動くキャラクターたち。制服を着た少女がコントローラーを握り、笑っている。

——ああ、これは。

乙女ゲーム。

私は、この物語の悪役令嬢だった。

理解と絶望が同時に押し寄せる。知っていれば避けられた。分かっていれば戦えた。なのに思い出したのが、よりによって首を落とされる瞬間だなんて。

世界が暗転した。

光が瞼を刺す。

柔らかな寝台の感触。絹の寝間着が肌に触れる重み。遠くで小鳥が囀り、朝の空気が薄いカーテン越しに流れ込んでくる。窓の外から漂う花の香りが、鉄錆の記憶を少しだけ薄めていく。

リゼルヴァーナは目を開けた。

天蓋付きの寝台。見覚えのある紋章が刺繍された帳。アルトシュタイン公爵邸の、自分の部屋だった。

跳ね起きた瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。反射的に手で押さえる。傷はない。刃の跡など、どこにもない。なのに皮膚の奥が焼けるように疼いている。幻痛だった。まだ落とされていない首が、落とされた記憶を覚えている。

心臓が耳の裏で暴れていた。呼吸が浅い。絹の寝間着が汗で肌に貼りつき、指先が小刻みに震えている。——落ち着け。ここは処刑場ではない。冷たい木板の感触はもうない。あるのは絹と羽毛の柔らかさだけだ。それでも身体は覚えている。枷の重さを、群衆の嘲笑を、刃が空気を裂く最後の一瞬を。

「——お嬢様、本日は王立学園の入学式でございます。お支度のお時間です」

扉の向こうから侍女の声が聞こえた。

入学式。

リゼルヴァーナは寝台の上で自分の手を見つめた。細い指。傷のない掌。処刑台で枷に擦れて血が滲んでいた手とは、まるで別人のものだった。

三年前。処刑の、三年前に戻っている。

震える足で寝台を降り、化粧台の鏡の前に立った。映っているのは十五歳の自分だった。銀灰色の長い髪、透き通るような白い肌。そして——冷たい紫の瞳。この瞳が「氷の令嬢」と呼ばれる所以だった。前世では、いや未来では、この瞳を恐れる者たちの証言が処刑の根拠になった。

鏡の中の少女が、薄く笑った。

「今度は、私が台本を書く番よ」

声は思いのほか静かだった。怒りでも憎しみでもない。凍るように澄んだ決意だった。

頭の中で三年間の出来事が早回しのように巡る。入学式でエドヴァルトに見初められ婚約し、聖女マリアベルの登場とともに疎まれ、最後は断頭台。前世の記憶——乙女ゲームの知識と照らし合わせれば、あの処刑が王太子の気まぐれなどではなかったことは明白だった。

公爵家に流れる「始祖魔法」の血統。王家がそれを恐れていた。聖女の告発は道具に過ぎない。婚約も、破棄も、処刑も、すべては公爵家の血を断つための政治的粛清だった。

——前世の私は、何も知らずに舞台の上で踊らされていた。

侍女が入室し、手慣れた所作で入学式の正装を整えていく。純白のブラウスに深紫のドレス。公爵家の紋章が銀糸で刺繍された上着。一つ一つ身に纏うたびに、仮面が形を成していくのを感じた。

完璧な公爵令嬢。冷静で、優雅で、隙のない——悪役令嬢。

この仮面を、今度は自分の意志で被る。前世では無意識に演じていた役を、今世では台本ごと書き換えるために。

馬車の窓から王立学園の尖塔が見えた。白亜の壁と青い屋根。前世で——いや、未来で地獄を味わった場所。胸の奥で何かが軋む。恐怖ではない。首筋の幻痛がまた疼いた。覚えている。すべて、覚えている。

誰が笑い、誰が目を逸らし、誰が最後まで石を投げ続けたか。

リゼルヴァーナは無意識に首筋を押さえた。そして、その手を意志の力で膝の上に戻した。

震えるな。泣くな。前世の私は、最後まで一人だった。誰にも真実を打ち明けられず、誰にも助けを求められず、断頭台の上で初めて「生きたい」と思った。

あの叫びが、この身体に届いた。ならば応えなければならない。

馬車が正門前に停まる。御者が扉を開け、リゼルヴァーナは差し出された手に指先を預けて降り立った。春の風が銀灰色の髪を攫う。魔力——いや、まだそれが魔力だとは気づかなかったが——指先にかすかな熱が灯るのを感じた。

学園の大講堂は新入生と保護者で満たされていた。貴族の子弟たちが互いの家名を確認し合い、序列を測り、同盟を模索している。磨き上げられた大理石の床に靴音が反響し、香水と蜜蝋の匂いが高い天井の下で混じり合っている。この社交の海を、前世のリゼルヴァーナは何も考えずに泳いでいた。公爵令嬢という肩書きだけを浮き輪にして。

今は違う。一つ一つの視線、一つ一つの囁きが、情報として頭に流れ込んでくる。

「アルトシュタイン公爵家のご令嬢よ」「始祖の血統の——」「綺麗だけれど、冷たそう」

そうだ。冷たくあれ。冷たさは盾になる。感情を見せた瞬間、この場所では食い物にされる。

壇上に学園長が立ち、式辞を述べ始めた。リゼルヴァーナはその言葉を半分も聞いていなかった。視線は講堂の反対側——来賓席の最前列に据えられていた。

金の髪に碧の瞳。整った顔立ちに余裕の微笑みを湛えた青年。王太子エドヴァルト・フォン・クラウゼヴィッツ。前世では、あの微笑みに心を奪われた。婚約の申し出に頬を染め、この国の未来の王妃になれるのだと信じた。

馬鹿だった。あの微笑みの裏で、どれだけの策謀が回っていたか。

エドヴァルトの視線がこちらに動いた。

目が合った。

紫と碧が交差する。一瞬、リゼルヴァーナの心臓が跳ねた。恐怖ではない。怒りでもない。もっと複雑な、名前のつけられない感情だった。この男に愛されたいと願った自分がいた。この男に裏切られた自分がいた。この男の命令で首を落とされた自分がいた。三つの自分が胸の中で重なり、互いの叫びを打ち消し合って、最後に残ったのは氷のような静寂だった。

エドヴァルトが微かに目を細めた。興味を引かれた、という顔。前世と同じだ。この視線の先に婚約があり、破棄があり、断頭台がある。

リゼルヴァーナは表情を変えなかった。冷たい紫の瞳で、未来の処刑者を真っ直ぐに見返した。

——殿下。あなたは今、台本通りに私を見初めようとしている。

——でも、この物語はもう、あなたのものではないのよ。

視線を外したのはエドヴァルトの方だった。隣の側近に何か囁いている。おそらく自分の名を尋ねているのだろう。前世と、寸分違わぬ展開。

そのとき、講堂の入口近くで小さなざわめきが起きた。

光が差したのかと思った。違う。一人の少女が入ってきたのだ。亜麻色の髪に柔らかな笑みを浮かべた、どこか儚げな——しかしその目の奥に計算を宿した少女。

聖女マリアベル。

前世で自分を陥れ、生徒たちの生命力を喰らい、それでも「聖女」と崇められ続けた女。

マリアベルの視線がふとこちらを向いた。柔らかな笑みのまま、小さく会釈する。「はじめまして」の礼儀正しい仕草。

その一瞬。

リゼルヴァーナの背筋を、氷のような予感が走り抜けた。

あの目だ。慈悲深い聖女の微笑みの奥に、一瞬だけ閃いたもの。知性。計算。そして——既視感。

まるで、リゼルヴァーナのことを最初から知っているかのような。

掌が熱い。見下ろすと、一瞬だけ——本当に一瞬だけ——皮膚の下で何かが光った気がした。古代文字のような、紋様のような。

気のせいだと自分に言い聞かせる。だが首筋の幻痛が、嘘をつくなと訴えていた。

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