第3話
第3話
武士の一団は五騎であった。
先頭の男が馬を降りるより先に、村長の弥平が長屋から転がり出てきた。六十を過ぎた痩躯の老人が、朝露に濡れた地面に額をつける。その後ろに、源蔵を含む村の男たちが次々と膝をついた。新太も父に腕を引かれ、土の上に伏せた。
額の下の地面が冷たい。湿った土の匂いが鼻を突く。だが新太は薄目を開けて、馬上の男を見た。
羽織の紋は丸に二つ引き。藩の下士が用いる略紋である。年の頃は三十前後か。頬骨の張った、刃物のように鋭い面相。眉間に刻まれた皺は生来のものではなく、常に何かを蔑んでいなければ気が済まぬ男が長年かけて彫り込んだものであろう。腰には二本差し。鍔元の柄糸は使い込まれて黒ずんでいたが、鞘の塗りには傷ひとつなく、飾りとしてではなく実用の道具として手入れされていることが窺えた。
男は馬から降りず、村人を見下ろしたまま口を開いた。
「黒田伝七郎である。藩の軍需方として参った」
軍需方。その言葉に、弥平の肩が強張ったのを新太は見逃さなかった。軍需とは戦支度。安政の世に戦支度とは穏やかでないが、穢多の村長が藩の内情を問い質せるはずもない。
「村長、面を上げよ」
弥平が恐る恐る顔を上げた。黒田は懐から書付を取り出し、馬上のまま広げて見せた。読めぬことは承知の上であろう。見せつけるという行為そのものが、権威の示威であった。
「藩より御用を申し渡す。鞣し革百枚。三日のうちに納めよ」
沈黙が、村を覆った。
百枚。その数を、新太は頭の中で反芻した。村のなめし場が総出で働いて、十日で仕上がるかどうかという量である。石灰水に漬け、毛を削ぎ、叩き、伸ばし、乾かす。一枚の革を仕上げるには最低でも五日を要する。工程を無理に縮めれば鞣しが甘くなり、使い物にならぬ。
弥平が声を絞り出した。
「黒田さま……恐れながら申し上げます。百枚を三日というのは、いかに総出で取りかかりましても……」
「不可能と申すか」
「せめて十日の猶予をいただければ——」
「猶予はない」
黒田の声に、苛立ちの色が混じった。馬が主人の気を読んだか、前脚で地を掻く。弥平の目の前で蹄が土を抉り、泥が老人の膝を汚した。弥平は身を竦めたが、逃げなかった。逃げれば斬られる。そのことを、身体が覚えているのだ。
「長州が動いておる。戦は待ってはくれぬ。穢多の都合など知ったことか」
長州。新太の耳がその二文字を拾った。安政の大獄で幕府が志士を弾圧しているさなか、西国の雄藩が不穏な動きを見せている——そんな噂は、穢多村にも風の便りで届いていた。だがそれが己の村に、このような形で降りかかってくるとは。
藩は戦に備えている。武具を整えるには大量の革が要る。刀の柄、鎧の紐、馬具、陣太鼓。いずれも革なくして成り立たぬ。そしてその革を調達できるのは、穢多の村しかない。
黒田は書付を懐に戻し、馬の首を巡らせた。
「なお、申し添えておく」
背を向けたまま、声だけが落ちてきた。冷えた声であった。朝靄の中を刃のように通る、感情を削ぎ落とした声。
「三日で百枚、間に合わねば——」
黒田が肩越しに振り返った。その目が、弥平ではなく、その背後に控える村人たちの上を舐めるように動いた。品定めをするような視線。牛馬の値踏みと何ら変わらぬ冷たさであった。
「誰かの首で、埋め合わせてもらう」
馬蹄の音が遠ざかっていった。五騎が朝靄の中に消え、蹄の響きが河原の石に反響しなくなってもなお、村人たちは地面に伏せたままであった。
誰も動けなかった。
最初に身を起こしたのは弥平であった。老人の膝は震えていたが、顔を上げたその目には、恐怖よりもなお深い疲弊の色が浮かんでいた。何十年も頭を下げ続けてきた者だけが持つ、諦めと忍従が澱のように積もった目であった。
「……聞いたな」
弥平の声は掠れていた。村の男たちが一人、また一人と顔を上げる。源蔵も立ち上がり、土を払った。その手がわずかに震えていることに、新太は気づいた。父は拳を握り締め、震えを殺そうとしていた。だが指の関節が白くなるほど力を込めても、怒りなのか恐怖なのか判然としぬ震えは止まらなかった。
「百枚は無理だ。どう足掻いても、三日では三十がいいところだろう」
源蔵が低い声で言った。なめし場の男たちが頷く。職人としての経験が、不可能を不可能と知らせている。だが不可能であっても、やらねばならぬ。間に合わねば首が飛ぶ。誰の首かは分からぬ。分からぬからこそ、恐ろしい。
「仕掛けの革を全部出すしかあるめえ」
古老の一人が言った。仕掛けとは、まだ工程の途中にある革のことだ。石灰水に漬けている最中のもの、毛削ぎを終えて叩きに入っているもの。それらを無理に仕上げれば、数だけは揃えられるかもしれぬ。だが品質は保証できぬ。
「甘い鞣しを納めて、突き返されたらどうする」
「突き返されるほうがまだましだ。首を斬られるよりは」
男たちの声は低く、重く、どこか虚ろであった。怒りではない。怒る余裕すらないのだ。降りかかる災厄を、ただ受け止めて耐える。それが穢多の生き方であると、何世代にもわたって骨の髄まで叩き込まれてきた者たちの声であった。
新太は黙って聞いていた。
腹の底で、火が燃えている。昨夜の稽古で拳に宿した熱とは違う、もっと深い場所から湧き上がる灼熱。前世の記憶が叫んでいる。これは不当だ。人が人に対してなすべき仕打ちではない。だが前世の自分は、不当を叫んだ末に断頭台に上がった。叫ぶだけでは何も変わらぬことを、新太は骨身に知っている。
では、どうする。
答えはまだない。だが黒田の去り際に見せたあの目——村人を牛馬と同じく数える冷酷な目は、新太の記憶の中にある別の目と重なっていた。革命前のパリで、馬車の窓から貧民街を見下ろしていた貴族の目。あの目が変わることはなかった。革命が起きても、恐怖政治が来ても、あの種の目は別の顔に宿って繰り返し現れた。
目を変えることはできぬ。ならば——。
「新太、ぼうっとしてるな。なめし場に行くぞ」
源蔵の声で我に返った。村中の男が総出でなめし場に向かっている。女たちも子供も、できる作業には手を貸すべく動き始めていた。不可能と知りながら、それでも手を動かす。他に術がないからだ。
新太はなめし場に入り、鉈を手に取った。仕掛けの革を引き上げ、毛を削ぐ。一枚でも多く。一刻でも早く。手を止めれば、誰かの首が落ちる。石灰水に浸かった革は冷たく、酸い臭気が目を刺した。素手で掴めば指の皮がふやけ、鉈を持つ手が滑る。それでも新太は手を止めなかった。
だが手を動かしながら、新太の頭は別のことを考えていた。
三日後。百枚が揃わなかったとき、黒田はどうする。本当に誰かの首を刎ねるのか。刎ねるとすれば、それは村長の弥平か。年嵩の男か。それとも——父か。
拳に力が入り、鉈が皮を深く抉った。
「馬鹿、力を入れすぎだ!」
源蔵が叱りつける声が、遠くに聞こえた。
革は傷んだ。一枚、無駄になった。百枚から遠ざかった。新太は唇を噛み、次の革に手を伸ばした。
日が傾き始めても、なめし場の手は止まらなかった。松明が焚かれ、夜を徹しての作業が続く。男たちの目は血走り、女たちが握り飯を運ぶ。子供たちまでが水を汲み、薬液を運んだ。村全体が一つの生き物のように動いている。
だが数は、足りぬ。
初日が終わって仕上がった革は十二枚。残り二日で八十八枚。誰の目にも、間に合わぬことは明らかであった。
新太は夜更けのなめし場で、松明の明かりに照らされた父の背中を見ていた。源蔵は黙々と革を叩いている。もう何時間も同じ動作を繰り返している。叩いて、伸ばして、また叩く。その手はとうに感覚を失っているはずだが、止まらない。止められないのだ。松明の炎が揺れるたびに、源蔵の影が壁に大きく伸び縮みした。その影は、新太が知る父の姿よりもずっと小さく、痩せて見えた。
——三日目の朝、あの男は来る。
そして足りぬ革の代わりに、誰かの命を持っていく。
新太は鉈を置き、己の拳を見つめた。パリの路地裏で鍛え、昨夜この河原で甦らせた拳。この拳で、刀に立ち向かえるか。侍を、止められるか。
まだ答えは出ぬ。
だが三日は、もう始まっている。