第2話
第2話
朝靄が河原を覆う刻限に、穢多村は目を覚ます。
最初に動くのは犬だ。痩せた野良犬が、川上から流れてくる死牛の臭いを嗅ぎつけて吠える。その声を合図にするかのように、長屋のあちこちから人影が這い出してくる。腰の曲がった老婆、眠い目を擦る子供、そして夜明け前から革を水に浸していた男たち。
新太が熱を脱して三日。身体はまだ少し重かったが、寝ている暇など許されぬ。穢多の子に病み上がりの猶予などない。源蔵は日が昇る前に息子を起こし、いつもと変わらぬ声で言った。
「今日から城下への納品だ。ついてこい」
村の中央を流れる小川の岸辺に、なめし場が並んでいる。柳の木陰に掘られた幾つもの穴蔵に、獣の皮が石灰水と共に漬けられていた。立ち昇る臭気は、慣れぬ者であれば十間先で膝を折るほどのものである。腐りかけた獣脂と石灰の混じった、甘く酸い悪臭。新太はこの臭いの中で生まれ育った。鼻はとうに麻痺している。
だが前世の記憶を取り戻した今、新太の目には村の風景が違って映った。
パリにも臭い場所はあった。セーヌ川沿いの皮なめし工房、タンヌリーと呼ばれた一帯。職人たちは犬の糞と石灰で革を柔らかくし、川の水で洗い、その排水が街を汚した。だがパリの皮なめし職人は、蔑まれこそすれ、人間として数えられてはいた。
ここでは違う。
皮をなめす者は人ではない。死穢に触れる者は、穢れそのものである。この国の掟は、そう定めていた。
源蔵が革の束を背負い、新太にも小さな包みを持たせて村を出る。城下までおよそ二里。穢多が通ることを許された道は、田の畦を縫う細い獣道のみである。大通りを横切る際は、町人の姿が見えぬことを確かめてから、走って渡らねばならぬ。
「頭を低くしろ。目を合わせるな」
源蔵が背中越しに言った。新太は唇を噛みながら、父の後に従った。
城下の外れに革問屋がある。表通りには面しておらず、裏口から入るのが決まりだった。暖簾すらない。穢多が出入りする店に、暖簾を掲げる商人はいない。
番頭が革の束を受け取り、一枚一枚を改めた。源蔵は土間の端に膝をつき、額を床につけるようにして待っている。新太も同じ姿勢を強いられた。板の間の冷たさが額に沁みる。
「三枚ほど、鞣しが甘いな」
番頭の声には感情がなかった。良いとも悪いとも言わぬ、ただ事実を述べるような声。だがその一言で、源蔵の背筋がわずかに強張るのを新太は見た。
「申し訳ございません。次の納めまでにやり直します」
「やり直しはいい。だがその分は引くぞ」
「……承知いたしました」
銭を受け取る源蔵の手が震えていなかったのは、長年の慣れゆえであろう。だが帰り道、人目のない畦道に入った途端、その足取りが重くなった。
「父ちゃん」
新太が声をかけると、源蔵は振り向かずに言った。
「あの鞣しは甘くなかった。三枚とも、きちんと仕上げてある」
知っている。新太にも分かっていた。番頭は難癖をつけて値を叩いたのだ。穢多が反論せぬことを知った上での常套であろう。
「なぜ言い返さなかった」
源蔵は立ち止まった。秋風が稲穂を揺らし、二人の間を吹き抜ける。父は振り返り、息子の目を見た。そこに怒りの色を認めたのか、一瞬だけ眉根を寄せた。
「言い返してどうなる。あの店を失えば、村の皮は誰が買う。飢えるのは俺たちだ」
「だが——」
「新太」
源蔵はしゃがみ込み、息子と目の高さを合わせた。薬液に焼けた手が、新太の肩を掴む。
「これが俺たちの生き方だ。頭を下げて、革を収めて、銭をもらう。それで家族が飯を食える。それだけでいい」
それだけでいい、という言葉が、新太の胸に鉛のように沈んだ。
前世でも同じ言葉を聞いた。パリの貧民窟で、母親が子供に言い聞かせていた。「黙って働け、それだけでいい」。その子供は後に革命の群衆に加わり、バスティーユの壁に石を投げた。そしてやがて、断頭台に送られた。
新太は口を閉ざした。父の言葉を否定する言葉を、まだ持っていなかった。
村に戻ると、なめし場では男たちが黙々と働いていた。死牛馬の皮を剥ぎ、石灰水に漬け、引き上げ、毛を削ぎ、叩き、伸ばし、また漬ける。気の遠くなるような繰り返し。それが穢多の生業であった。
新太もなめし場に入り、皮の毛を削ぐ作業に加わった。手に持つのは、刃を潰した古い鉈である。皮の表面を一方向に、力を入れすぎず、抜きすぎず、一定の速さで掻く。簡単なようでいて、加減を誤れば革に傷がつく。新太は五つの頃からこの作業を仕込まれていた。
だが今日は、手が止まった。
鉈を握る右手に、別の記憶が重なったのだ。これは武器になる。そう思った瞬間、掌が熱くなった。パリの路地裏で、瓶の破片を握って男に向かっていった夜の感触。道具はすべて武器になり得る──それが前世で叩き込まれた生存の知恵であった。
「新太、手が止まっとるぞ」
隣で働いていた村の古老に叱られ、新太は慌てて手を動かした。
日が暮れ、夕餉の粥を啜り、源蔵が寝息を立て始めた頃。
新太は静かに長屋を抜け出した。
月が細く、河原には淡い闇が広がっていた。川の音だけが低く続いている。新太は村外れの河原まで歩き、周囲に人の気配がないことを確かめてから、裸足のまま砂利の上に立った。
拳を構えた。
前世の記憶が、身体の奥から浮かび上がってくる。パリの路地裏で身につけた喧嘩殺法。型も流派もない。ただ相手を倒し、自分が生き残るための技術。
左足を前に出し、重心を低く落とす。右拳を顎の横に添え、左手を前方に伸ばす。かつての身体であれば、この構えから踏み込んで拳を放つまで一息であった。
だが──身体が違う。
十二歳の腕は短い。踏み込みの幅が足りぬ。拳に体重を乗せようとしても、質量がない。パリの路地裏で鍛え上げた身体は、もう失われている。
それでも新太は、拳を振った。
何度も。何度も。
砂利を蹴り、空を打ち、己の影を相手に見立てて拳を繰り出す。月明かりの下で、小さな身体が汗に光った。息が上がり、腕が鉛のように重くなっても、拳を止めなかった。
右の直突き。前世では相手の鳩尾を正確に抉ったこの一撃も、今の腕では力が散る。ならば、と新太は考えた。前世と同じ動きを再現するのではなく、この身体に合った使い方を見つけねばならぬ。体が小さいなら、速さで補え。腕が短いなら、間合いに入り込め。
拳を握るたびに、記憶が鮮やかになった。石畳の感触。すれ違いざまに放つ肘打ち。路地の壁を蹴って跳躍し、背後から首を絞める技。あの頃の自分は、武術を学んだわけではない。飢えと暴力の日々が、身体に戦い方を刻み込んだのだ。
「人権宣言は、こんなことを想定していなかっただろうな」
独り言が漏れた。前世の言葉で。異国の舌が、日本語の口腔で奇妙にもつれる。新太は苦く笑い、また拳を振るった。
どれほどの刻が流れたか。東の空が白み始めた頃、新太はようやく腕を下ろした。掌の皮が剥け、砂利で切った足の裏から血が滲んでいた。だが痛みよりも充足があった。この身体は応えてくれる。前世の技は死んでいない。眠っているだけだ。
河原に座り込み、膝を抱えて空を見上げた。
あの町人の子供に泥水をかけられた日から、胸の底で燃えている火がある。その火を、どう使うべきか。拳で殴り返すことは容易い。だがそれでは何も変わらぬ。パリでも、暴力は暴力しか生まなかった。
──では、何が必要だ。
答えはまだ見えぬ。だが少なくとも、下を向いて歩くことだけはもうできぬと、新太は知っていた。
長屋に戻ると、源蔵がもう起きて粥を炊いていた。息子の汗まみれの姿と、血の滲んだ足を一瞥し、何かを言いかけて、やめた。代わりに椀を差し出す。いつもと同じ、稗と粟の薄い粥。
新太はそれを受け取り、啜った。
「父ちゃん」
「なんだ」
「今日の納品、俺も行く」
源蔵は黙って頷いた。何かが変わりつつある息子の眼を、父はどう見ていたのだろう。穢多の暮らしを受け入れろと諭しながら、その実、己もまた何かを待っていたのかもしれぬ。
外から、馬蹄の音が近づいてきた。
一頭ではない。幾頭もの馬が、河原の村に向かって駆けてくる。穢多村に馬で乗り込む者など、ただの客ではない。新太は椀を置き、戸口から外を窺った。
朝靄を裂いて現れたのは、紋付の羽織を纏った武士の一団であった。先頭の男が馬上から村を見下ろしている。冷たい目。刀の柄に手を載せた、傲慢な姿勢。
源蔵が顔色を変え、慌てて土間に膝をついた。
「——お侍さま」
武士の声が、朝の静寂を断ち切った。
「村長を出せ。藩の御用である」