第1話
第1話
──刃が、首筋を噛んだ。
それが夢か現か、新太には分からなかった。ただ鉄の匂いがした。冷たく、重く、どこまでも鋭い鉄の匂い。耳の奥で群衆の怒号が渦を巻いている。何千という声が一つに溶けて、地鳴りのように腹の底を揺さぶる。
──Liberté(自由を)。
知らぬ言葉が、舌の上に転がった。
安政五年、秋。河原長屋の一間で、十二の少年が藁布団の上にうずくまっていた。三日前から続く高熱が、骨の髄まで煮えたぎらせている。土壁に染みついた獣脂の臭いと、遠くで鳴く鴉の声。それが新太の知る世界のすべてであった。
「新太、しっかりしろ」
父の声が、水の底から聞こえるように響いた。源蔵の節くれだった掌が、息子の額に載せた濡れ布巾を替える。井戸水で絞った布は、触れた端から熱に喰われて温くなった。
「父ちゃん……」
新太は薄目を開けた。板の隙間から差す月明かりの中に、父の痩せた横顔が浮かんでいる。四十を幾つか越えたばかりだというのに、源蔵の頭には白いものが目立った。皮をなめす薬液で荒れた手。膝の擦り切れた野良着。穢多の男が背負う歳月は、常人のそれより幾層も重い。
新太は再び目を閉じた。瞼の裏に、灼けつくような光景が広がる。
石畳の広場。木組みの高い台。真ん中に据えられた、奇妙な機械。二本の柱の間を、斜めに研がれた刃が吊られている。
──ギロチン。
名前を知っている。なぜ知っているのか、分からない。だが知っている。あの刃の重さも、落下する速さも、首筋に触れた瞬間の、氷よりも冷たい感触さえも。
熱に浮かされた頭の中で、記憶の破片が砕けた壺のように散らばっていた。拾い上げようとすれば指の間からこぼれ、目を逸らせば向こうから押し寄せてくる。
狭い路地裏。石壁に背を預けて眠る夜。素手で男の顎を打ち抜く感触。骨が軋み、肉がへこみ、相手が崩れ落ちる。拳に走る痺れ。それは恐怖ではなく、生き延びるための術であった。パン一切れを巡って血を流す。それが当たり前の日々。
そして——広場に引き出された朝。
罪状を読み上げる声は群衆の喧噪にかき消されていた。反逆か、窃盗か、それとも単に貴族の機嫌を損ねたか。もはやどれでもよかった。革命は自由を謳い、平等を叫び、そして手当たり次第に首を刎ねた。
台に上がる足取りは、不思議なほど静かだった。怖くなかったわけではない。ただ——もう疲れていたのだ。腹を空かせて走り回る日々に。誰かの正義の旗印の下で使い捨てられることに。
板の上に頭を載せる。粗い木の感触が額を擦る。
最後に見えたのは、灰色の空だった。パリの空はいつも灰色だ。
そして誰かが叫んだ。
「Les hommes naissent libres et égaux en droits——」
人は生まれながらにして自由であり、権利において平等である。
刃が落ちた。
「……っ!」
新太は跳ね起きた。
全身が汗に濡れていた。荒い息が喉を灼く。心臓が肋骨を叩き割らんばかりに暴れている。暗い部屋の中、自分の掌を見つめた。小さい。子供の手だ。皮なめしの薬液で既に荒れ始めた、十二歳の手。
だが——この手は、かつて別の人生を握り締めていた。
石畳の上で拳を振るった記憶が、夢の残滓ではなく、確かな重みとして掌に宿っている。路地裏で身につけた間合いの取り方、体重の乗せ方、相手の呼吸を読む技術。それらが骨の奥に刻まれている。
新太は己の首筋に触れた。傷はない。当然だ。ここは河原長屋であり、自分は穢多の子である。
けれど首筋が、熱い。まるでつい先刻、刃が通ったかのように。
「……夢じゃ、ねえ」
呟きは闇に溶けた。源蔵は隣で力尽きたように眠っている。三日三晩、息子の看病に付きっきりだったのだろう。寝顔にまで疲労の色が濃い。
新太は静かに布団を抜け出し、戸口に立った。河原長屋の外は、白み始めた空の下で沈黙していた。川の匂いがする。獣の脂と泥と、どこからか流れてくる朝靄の湿り気。鼻の奥に、別の匂いが重なった。セーヌの水と、血と、火薬の残り香。あの街の匂いだ。
新太は両の手を握り締めた。
記憶は鮮明だった。あの革命の日々が。自由と平等を叫んだ群衆が、やがて互いを密告し、疑い、断頭台に送り合った日々が。崇高な理念は血に塗れ、恐怖が正義の顔をして街を支配した。
──人は生まれながらに平等である。
ならばなぜ、ここでは違う。
前世の自分は、その問いに答えを出せぬまま刃に散った。だがこの身は生きている。十二歳の、穢多の子の身体で。
日が昇り、熱が完全に引いた朝。新太は水を汲みに長屋を出た。
村の外れの井戸まで、街道沿いの細い脇道を通る。穢多の者が大通りを歩くことは許されていない。道の端を、影のように進む。それが掟だった。
「おい、見ろよ」
声は頭上から降ってきた。街道の土手に、町人の子供が三人、腰を下ろしていた。一番大きな男児が、にやにやと新太を指差す。十四、五だろうか。着物は新太のものより余程ましで、足には草鞋を履いていた。新太の足は裸足である。
「河原もんだ。くせえぞ、近寄んな」
新太は黙って目を伏せた。前世の記憶を持つ前であれば、そうした。石を投げられても泥を掛けられても、ただ足を速めて通り過ぎる。それが穢多の子に許された唯一の振る舞いだった。
だが今日は、足が止まった。
男児が路傍の水溜まりに足を突っ込み、泥水を蹴り上げた。茶色い飛沫が新太の顔と胸を打つ。生温い泥が頬を伝い、唇の端に土の味が広がった。
「あはは、穢多に泥ぃぶっかけてやった!」
子供たちが笑う。腹を抱え、指を差し、まるで祭りの見世物でも見たかのように。
新太は、泥を拭わなかった。
拳を握った。強く。爪が掌に食い込むほどに。
前世の記憶が腕を突き動かそうとする。この程度の子供なら、一歩踏み込んで鳩尾に拳を入れれば終わる。パリの路地裏では、もっと大きな相手を素手で倒してきた。
だが——殴れば、父が詫びを入れに行く。穢多が町人の子に手を上げたとなれば、村ごと罰を受ける。
新太は拳を解いた。だが目は伏せなかった。
泥に濡れた顔のまま、子供たちを真っ直ぐに見据えた。その眼に宿るものに気づいたのか、笑っていた男児の顔が一瞬こわばる。
「な、なんだよ……」
新太は何も言わず、踵を返した。背中に石が飛んできたが、振り向かなかった。
井戸に着き、桶に水を汲む。水面に映る己の顔を見た。泥に汚れた頬。だがその奥の眼だけが、別の色をしていた。
怒りだ。
生まれて初めて——いや、この生で初めて、新太の胸の底に火が灯っていた。前世では飢えと疲弊に摩耗し、最後には諦めて台に上がった。あの時にはもう、怒る力さえ残っていなかった。
だがこの身体は若い。十二の心臓は、怒りを血に乗せて全身に巡らせるだけの力がある。
──なぜ生まれた場所が違うだけで、人の値打ちが決まるのか。
前世では答えを出せなかった問いが、泥水の味と共に舌の上で転がった。
水面が揺れる。新太の顔が歪み、また戻る。
長屋に帰ると、源蔵が起きて粥を炊いていた。息子の泥だらけの姿を見て、一瞬だけ唇を噛んだが、何も訊かなかった。訊く必要がないのだ。この暮らしでは、泥を掛けられることなど日常に過ぎぬ。
「飯にするぞ」
源蔵は椀を差し出した。
新太はそれを受け取りながら、父の手を見た。薬液で焼けただれ、あちこちに古い傷が刻まれた職人の手。町人に頭を下げ続けてきた手。それでも家族を食わせるために、一日も休まず革を鋤いてきた手。
この手を、いつまで泥の中に沈めておくのか。
粥を啜る。米というには粗末な、稗と粟の混じった薄い汁。だが熱い。喉を通る温もりが、怒りの火を鎮めるのではなく、静かに育てていくのを新太は感じた。
外では秋の陽が昇りきり、河原長屋の屋根に影を落としている。遠く城下の方角から、太鼓の音が微かに聞こえた。安政の大獄──幕府が志士を捕らえ、天下を恐怖で縛ろうとする嵐が、この国を覆い始めていた。
だがそんな天下の動きなど、河原の穢多には届かない。
──まだ、届かない。
新太は空になった椀を置き、拳を膝の上で握った。