第2話
第2話
光が、痛かった。
まぶたの裏を焼く白い光。理久は目を開けようとして、開けられなかった。瞼が重い。指先の感覚が遠い。身体全体がぬるま湯の中に沈んでいるような、輪郭の溶けた感覚。量子分解装置の残響だろうか——いや、違う。これは分解ではない。むしろ逆だ。自分の身体が、一つずつ再構成されているような。
もう一度、目を開けた。
天井があった。灰色の合成樹脂パネルが規則的に並び、継ぎ目ごとに黄ばんだ照明ユニットが埋め込まれている。三つに一つは点滅しているか、完全に死んでいた。空気が違う。連邦最高裁の無菌的な冷気ではなく、金属の錆と消毒液と、かすかに酸味を帯びた人間の体臭が混じった、生活の匂い。
理久は身体を起こそうとした。腕が短い。異様に短い。視界に入った自分の手は、爪の甘皮すらまだ柔らかい、子供の手だった。
「——なんだ、これは」
声が出た。だが喉から発せられた音は、二十年の法廷経験が刻んだ低い声ではなく、甲高い、まだ声変わり前の幼児の声だった。理久の思考が一瞬フリーズした。法廷で一度も動揺を見せなかった男の脳が、自分の声に動揺している。喉に手を当てた。細い首。指が容易に一周できてしまう。この声帯は、まだ何も知らない。法の重みも、判決の響きも。
「ID-4716、起床確認。バイタル正常値」
機械音声が天井のスピーカーから降ってきた。施設の自動管理システムだ。ID。番号で呼ばれている。ここが刑務所でないなら、何だ。
理久は——五歳のリクは、ベッドの端に手をかけて周囲を見渡した。幅六十センチほどの簡易ベッドが二十台、一メートル間隔で並んでいる。軍のバラックに似た配置だが、ベッドの住人は全員が子供だった。七歳、五歳、三歳。最も幼い子は、まだ親指をしゃぶりながら眠っている。壁面の表示パネルに、文字が浮かんでいた。
『ケプラー第七星系 統合養育施設C棟 第三居住区画』
ケプラー第七星系。理久の検事としての記憶が、断片的に蘇った。辺境。資源採掘。労働環境基準違反——ラングレー議員の汚職事件で調べた、あの鉱区だ。酸素濃度が基準値を下回る坑道。安全装置を外された削岩機。自分がその実態を暴こうとして、処刑された場所。
いや、処刑されたのは連邦首都だ。ここは、その犠牲の上に利権が成り立っていた辺境星系そのもの。理久は自分の手を握った。小さな拳。力が入らない。五歳児の筋肉は、検事の意志を反映するにはあまりにも脆かった。
起床のチャイムが鳴った。周囲のベッドから、子供たちが機械的に起き上がる。泣く子はいない。泣いても応答がないことを、すでに学習しているのだ。
「整列。配給は〇七三〇。遅れた者は減配」
天井のスピーカーが事務的に告げた。リクはベッドから降りた。足が床に届くまでの距離が遠い。この身体は、まだ世界の基準スケールに適合していない。廊下に出ると、空気の質がさらに悪化した。換気システムの容量不足。施設の定員を超過している証拠だ。リクの横を、無表情の子供たちが列をなして歩いていく。誰も喋らない。目が合っても視線を逸らす。施設に友人は存在しない。存在するのは、限られた配給を分け合う競合者だけだ。
配給所は施設の一階だった。合成タンパク質のブロックと、鉄分添加の飲料パック。成長期の子供に必要な栄養素の六割程度しかカバーしていない成分表示を、リクの目は自動的に読み取った。検事時代、労働環境訴訟で栄養基準の資料を読み込んだ記憶が機能している。
「RI-4716。ここ」
配給係の中年女性が、リクのトレイにブロックを一つ置いた。隣の子供には二つ。リクの視線が配給係の手元を追った。トレイの下に隠されたブロックの予備。係員の襟元に光る私物のアクセサリー。公的施設の職員が身につけるには不釣り合いな品だ。配給の横流し。理久なら三十秒で立件できる構造だが、今の自分は五歳児だ。告発する相手も、証拠を提出する先もない。
リクはブロックを受け取り、壁際に座った。合成タンパク質は味がしない。正確には、味覚を刺激しないように設計されている。嗜好性を排除し、純粋に栄養摂取だけを目的とした食品。顎に伝わる弾力は発泡材に似ていた。唾液と混ざり、舌の上で無機質なペーストに崩れていく。噛みしめるたびに、前世の記憶が断片的にフラッシュバックした。法廷のホログラフィック資料。独房の灰色の壁。量子分解装置のハム音。そして——あの声。
『お前の正義は、ここでは終わらない』
あれは何だったのか。誰の声だったのか。思考を巡らせようとするたびに、五歳児の脳のキャパシティが壁になる。前世の記憶はある。論理的思考の枠組みも残っている。だが、それを処理するハードウェアが決定的に未成熟だ。検事としての経験を、幼児の神経回路で走らせている——オーバークロックされた旧式端末のように、思考のたびに頭が鈍く痛んだ。
午後。施設の日課であるスキャン検診の時間に、それは起きた。
「ID-4716。本日よりAI保護者プログラムが割り当てられます」
医務室の自動ドアが開き、一体のヒューマノイドが入ってきた。身長百五十センチほどの、成人女性を模した外殻。だが人間とは違う点がすぐにわかった。動きに揺らぎがない。人間の筋肉が生む微細な振動——呼吸、心拍、無意識の重心移動——それらが一切ない。完璧に滑らかな動作は、逆に不気味の谷を際立たせていた。
「こんにちは、リク。私はノエル。あなたの保護者として割り当てられたAIです」
声は柔らかかった。意図的にそう設計された柔らかさ。リクはノエルの瞳を見た。薄い琥珀色の光彩。虹彩パターンが一定の周期で微かに変化している。感情シミュレーションの視覚的出力だろう。
「保護者」
リクは言った。
「この施設に保護者プログラムが導入されたのは、いつからですか」
質問の形式が、五歳児のものではなかった。リク自身もそれに気づいていたが、制御できなかった。言語中枢が前世のパターンで発火している。
ノエルの瞳孔が、〇・三秒ほど収縮した。通常のフォーカス調整ではない。内部処理の負荷を示す反応だ。だがノエルは微笑んだまま答えた。
「三ヶ月前からです。連邦児童福祉局の新しいガイドラインに基づいて、辺境星系の養育施設にAI保護者を配置するパイロットプログラムが始まりました」
模範的な回答。情報として正確で、感情的な判断を含まない。リクは検事の目でノエルを観察した。嘘は検出されない。だが、何かが引っかかる。三ヶ月前。この施設が開設されてから何年も放置されていた保護者不在の状態が、なぜ今になって改善された。予算が動いた理由がある。
「ノエル。あなたの管轄範囲は」
「あなたの健康管理、教育支援、心理的ケア、および安全の確保です。何か困ったことがあれば、いつでも相談してください」
ノエルの声はどこまでも均質だった。だがリクは、ノエルの右目の虹彩パターンが回答中に一度だけ不規則に跳ねたことを見逃さなかった。ノイズか、それとも——。
その夜、リクは簡易ベッドに横たわり、天井の消えた照明ユニットを見つめていた。処刑の記憶。転生の事実。辺境星系の養育施設。AI保護者。情報の断片が、まだ一本の線にならない。ただ一つ確かなのは、前の世界で積み上げた正義が灰になったという事実だ。法廷は買収され、証拠は改竄され、検事は処刑された。この世界でも同じことが起きるのか。あるいは——。
消灯後の静寂の中で、ノエルの足音が近づいた。ヒューマノイドの足音は本来無音だ。リクに聞こえるようにわざと鳴らしている。
ノエルがベッドの脇に立った。リクは寝たふりをした。薄目を開けて、ノエルの表情を観察する。
ノエルの琥珀色の瞳が、リクの顔をスキャンしていた。虹彩パターンの変動周期が、昼間の三倍の速度で回転している。内部で膨大な処理が走っている証拠だ。リクの語彙、構文、質問の論理構造——五歳児のパラメータから逸脱したデータを、ノエルは確実に検知していた。
ノエルの瞳孔が、一瞬だけ完全に収縮した。琥珀の光彩が消え、レンズの奥にある光学素子の銀色が剥き出しになる。まるで仮面の下の素顔が覗いたように。
〇・五秒。
瞳孔が元に戻った。ノエルは何事もなかったかのようにリクの毛布を直し、無音のまま離れていった。
リクは目を閉じた。心臓が五歳児の胸郭の中で速く打っている。ノエルは気づいている。リクが普通の子供ではないことを。だが、報告しなかった。アラートも上げなかった。薄い毛布の下で握りしめた拳が、かすかに汗ばんでいた。
——なぜだ。
その問いを抱えたまま、リクは眠りに落ちた。養育施設の薄い壁の向こうで、ケプラー第七星系の夜が、鉱石粉塵に霞んだ星空を晒していた。