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辺境星系の冤罪検事

第1話 第1話

第1話

第1話

法廷の空気が、一瞬で凍った。

銀河連邦最高裁第三法廷。半円形に配置された量子ディスプレイが蒼白い光を放ち、傍聴席を埋め尽くした二百余名の顔を照らしている。天井から降り注ぐ冷却空調の微かな気流が、理久の首筋を撫でた。空気に混じる消毒剤の無機質な匂いが、この場所が法の殿堂であると同時に、人間の感情を漂白する装置でもあることを思い出させる。瀬尾理久は検察側の論告台に立ち、手元のホログラフィック資料を一枚ずつ宙に展開していた。

「被告人・ラングレー連邦議員が過去七年にわたり、辺境星系の採掘利権と引き換えに受領した資金の総額は、連邦通貨にして四十二億クレジット」

理久の声は静かだった。抑揚を排した、事実だけを積み上げる検事の声。二百の傍聴人の視線が肌に刺さるのを感じながら、理久は一語一語を正確に刻んだ。声を張る必要はない。法廷の集音システムが、囁きすら隅々まで届ける。必要なのは音量ではなく、論理の密度だ。

「送金記録は量子暗号化されていましたが、中継ノードの監査ログに復号鍵の断片が残存していた。被告側はこのログを『技術的ノイズ』と主張していますが——」

資料の三次元グラフが回転し、数百本の送金経路が赤い線で浮かび上がる。線の一本一本が、誰かの良心が売り渡された記録だ。辺境星系の採掘現場で何が起きているか、理久は知っている。調査のために訪れたケプラー第七鉱区の、酸素濃度が基準値を下回る坑道。安全装置を外された削岩機。労働者の平均寿命が連邦市民の半分にも満たない統計データ。四十二億クレジットの裏側には、数えきれない人間の命が積み上がっている。

「ノイズが七年間、同一の口座へ同一の周期で発生する確率を、連邦統計局の基準で算出しました。十のマイナス十七乗。事実上、ゼロです」

傍聴席がざわめいた。弁護側の主任弁護士が異議を唱えようと立ち上がりかけたが、裁判長の視線に制されて座り直す。理久はその一瞬の動揺を見逃さなかった。弁護士の右手が無意識に端末を握り締めている。焦りの兆候。つまり、反論の余地がないと自覚している。

理久は論告台のエッジに指先を置いた。冷たい金属の感触が、思考を研ぎ澄ませる。

ここまで三年。証拠の収集に一年半、起訴状の構築に八ヶ月、公判維持に十ヶ月。連邦検察局の同僚たちが一人、また一人と担当を外れていった案件だ。政治的圧力。人事異動。あるいはもっと直接的な——Loss of arrow. 理久の直属の上司だった檜山検事正は、半年前に「健康上の理由」で辞職している。辞職の前日、檜山は理久のオフィスに立ち寄り、「悪いな」とだけ言って去った。あの背中の丸め方を、理久は今でも覚えている。圧力に屈した人間の背中は、みな同じ形に曲がる。

それでも理久は降りなかった。証拠が在る限り、論理が成立する限り、検事は法廷に立つ。それが瀬尾理久という人間の、唯一の信条だった。

「以上の物証および状況証拠の総体から、被告人の収賄は合理的疑いを超えて立証されたと考えます。検察は——」

その瞬間、法廷の照明が落ちた。

量子ディスプレイが一斉にブラックアウトし、理久が展開していたホログラフィック資料が虚空に溶ける。非常灯の赤い光だけが、法廷を血の色に染めた。闇の中で、誰かが息を呑む音が聞こえた。傍聴席の衣擦れ。椅子の軋み。だが、理久の耳が捉えたのはそれらの雑音ではなく、もっと不自然な音——いや、音の不在だった。法廷の空調システムが停止している。照明だけでなく、建物の基幹システムごと落とされた。単なる停電ではない。

三秒。

照明が復旧したとき、裁判長席のディスプレイに表示されていたのは、理久の論告資料ではなかった。

『連邦検察局特別捜査部 瀬尾理久検事に対する逮捕状』

理久は文面を読んだ。国家機密漏洩罪。証拠改竄罪。連邦法第七十二条違反——反逆的情報操作。

どれも身に覚えがない。だが、逮捕状に添付された「証拠」は精巧だった。理久自身のニューロリンクのアクセスログが改竄され、外国勢力との通信記録が埋め込まれている。量子署名まで偽造されていた。通常の技術では不可能な精度。連邦情報局——あるいはそれ以上の権限を持つ機関の関与を示唆している。

法廷警備のドローンが四機、理久を取り囲んだ。武装解除のプロトコルが自動実行され、理久の腰のIDタグが赤く点滅し始める。アクセス権限の即時剥奪。検事としての瀬尾理久は、この瞬間に死んだ。

「瀬尾検事。あなたの権限は停止されました」

裁判長の声には、微かな震えがあった。恐怖ではない。罪悪感だ。理久にはわかった。人の声に滲む感情の綻びを拾うのは、二十年の尋問経験が磨き上げた技能だった。

——この裁判長も、事前に知らされていたのか。

理久は傍聴席を見渡した。ラングレー議員の表情に驚きがない。弁護団の動きに混乱がない。傍聴席の最前列に座る連邦情報局の制服が三着。すべてが、あまりにも手際が良すぎた。

「仕組まれていたな」

理久は呟いた。声は自分でも驚くほど平坦だった。

「最初から、私が有罪になる筋書きだった。この裁判自体が」

誰も答えなかった。法廷警備ドローンのアームが理久の両腕を拘束する。冷たい合金の感触。だが痛みはない。ニューロリンクが自動的に痛覚を抑制している——いや、違う。リンクの権限は剥奪されたはずだ。痛みを感じないのは、理久自身の神経が現実を拒絶しているからだった。

連行される廊下で、理久は壁面のニュースフィードを目にした。

『元連邦検事・瀬尾理久に死刑判決——公開処刑は72時間以内に執行』

裁判すら経ていない。逮捕状と同時に判決が出ている。量刑審理も控訴手続きも省略された、事実上の即決処分。連邦法の手続き規定を完全に逸脱している。

独房に押し込まれたとき、理久は初めて笑った。

乾いた、短い笑い。三年かけて積み上げた論理が、権力の一手で消し飛んだ。証拠は存在した。論理は成立していた。それでも正義は実行されなかった。法とは何か。検事とは何か。二十年間の問いが、独房の壁に反響して消えた。独房の床は体温を奪う灰色の合成石材で、壁には何の装飾もない。かつて理久が送り込んだ被告人たちも、この同じ冷たさを感じたのだろうか。初めてその側に立って、理久は気づいた。独房とは物理的な空間ではない。世界から切断されたという事実そのものが牢獄なのだ。

処刑場は、連邦最高裁の地下三階に設置されていた。

円形のチャンバー。中央に量子分解装置が据えられ、その周囲を透明な隔壁が取り囲んでいる。隔壁の向こうに、百名ほどの「公式立会人」が並んでいた。連邦議員、情報局員、軍関係者。理久を葬ることに利害関係を持つ者たちの顔が、無機質な照明の下に浮かんでいる。

理久は分解装置の台座に固定された。首筋に量子スキャナーのプローブが触れる。冷たい。今度は本当に冷たかった。ニューロリンクが遮断された身体は、すべての感覚を生のまま受け取る。台座の金属が背中から体温を吸い取り、プローブの先端が頸動脈の拍動を正確に拾っている。自分の心拍が機械に読まれている——それは、かつて理久が証人の生体データをモニターして嘘を見抜いたのと、まったく同じ構図だった。

「最後に何か」

執行官の声。マニュアル通りの台詞。

理久は口を開きかけて、やめた。言うべき言葉が見つからなかったわけではない。ラングレーの罪状を、証拠の所在を、改竄の手口を——叫ぶべきことは山ほどあった。だが、この場にいる全員が共犯者だ。言葉は届かない。

代わりに、理久は目を閉じた。

量子分解装置が起動する低いハム音。細胞の一つ一つが情報に還元されていく感覚が、足先から這い上がってくる。痛みではない。消失だ。自分という存在が、データの海に溶けていく。視界の端から色が褪せ、音が遠ざかり、やがて自分の心臓の鼓動すら他人のもののように聞こえ始めた。

意識の最後の一片が消える、その刹那——。

ノイズではなかった。明確な音声信号。理久の聴覚野に直接届いた、言語として構造化された波形。

『お前の正義は、ここでは終わらない』

声の出所を特定しようとした。だが思考を巡らせる神経回路がすでに分解されつつある。声の周波数パターンだけが、消えゆく意識の底に焼きついた。低く、性別も年齢も判別できない声。だが不思議な確信があった——この声は、理久を知っている。理久がどんな証拠を積み上げ、何を守ろうとし、なぜ降りなかったのかを、すべて知った上で語りかけている。

誰だ。何者が、死にゆく人間の脳に——。

暗転。

そして、瀬尾理久の意識は途絶えた。

——はずだった。

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