第1話
第1話
刃が落ちる音を、私は聞かなかった。
処刑台の上から見下ろした群衆の顔だけが、今も鮮明に焼きついている。怒号。罵声。石を投げる腕。投げられた石の一つが頬をかすめ、熱い筋が一本走ったのを覚えている。かつて私が事件を解くたびに喝采を送ったのと同じ口が、同じ手が、今度は私の死を求めていた。あれほど「正義の名探偵」と称えた連中が、掌を返すのに要した時間はわずか三日だった。
名探偵エルド。王都の連続毒殺事件を追い、七つの死体の共通点を見抜き、毒の経路を特定し、犯人の名前を突き止めた男。だが法廷に立ったとき、すべてが反転していた。証拠品は差し替えられ、証人は寝返り、私の推理は「犯人自身による偽装工作」として裁かれた。弁明の機会すら与えられなかった。裁判長は私の目を一度も見なかった。最初から判決は決まっていたのだ。
「犯人は——」
その先を言わせてもらえなかった。執行人の手が動き、群衆が歓声を上げ、空が傾いた。最後に見たのは、広場の隅に立つ一人の男の顔だった。灰色の外套を纏い、薄く笑っていた。あの男だ。あの男が全てを仕組んだ。名前も、顔も、手口も、すべて分かっている。だがもう——
そこで意識が途切れた。
死とはこういうものかと思った。暗く、冷たく、何もない。音もなく、匂いもなく、自分の輪郭すら溶けて消えていくようだった。だが不思議と恐怖はなかった。名探偵エルドは、事件を解き残したまま終わった。それだけが、ただ無念だった。七人の被害者の遺族に、真実を届けられなかった。その重さだけが、暗闇の中で最後まで消えなかった。
——だから、目が覚めたとき、最初に感じたのは困惑だった。
天井があった。木の梁が並び、壁には質素な燭台がかけられている。シーツの手触りが頬に当たり、窓の外から鳥の声が聞こえた。空気が違う。王都の煤けた風ではない。土と草の匂い。雨上がりの湿った土の匂いに、どこか甘い野花の香りが混じっている。辺境の空気だった。
体を起こそうとして、違和感に気づいた。
手が小さい。腕が細い。布団を押しのけると、そこにあったのは子供の体だった。十二、三歳だろうか。骨ばった手首、薄い胸、短い足。探偵として鍛えた肉体の記憶とあまりにかけ離れていて、一瞬、夢の続きかと疑った。指を一本ずつ曲げてみる。関節が軋むような重さはなく、むしろ拍子抜けするほど軽い。三十二年間使い込んだ自分の手ではないと、それだけで分かった。
「レイン様、お加減はいかがですか」
扉の向こうから女の声がした。侍女だろう。声は穏やかだが、どこか事務的な響きがあった。慣れた世話の口調。レイン。その名前に、頭の奥で何かが弾けるように情報が流れ込んできた。
レイン・アルヴェス。辺境伯家の次男。三日前から高熱で臥せっていた。母は他界し、父の後妻である義母と、義兄、幼い義妹とともに暮らしている。勉学は平凡、剣術は苦手、社交は不得手。——取り立てて目立つところのない、辺境の少年。
この体の持ち主の記憶が、断片的に頭の中にある。だが同時に、エルドとしての三十二年間の記憶もまた、一切の欠落なく残っていた。
「……大丈夫です。もう熱は下がりました」
口を開くと、少年の声が出た。高く、細い声。自分の声帯から出たものとは思えない不自然さがあった。この声で法廷に立っても、誰も耳を貸さないだろう。
「まあ、よかった。お食事をお持ちしますね」
侍女の足音が遠ざかっていく。石の廊下に響く、規則正しい靴音。その音を聞きながら、足音の間隔、歩幅、靴底の硬さを無意識に分析している自分に気づいた。三十年の業は、体が変わっても抜けないらしい。
侍女が去った後、寝台を降り、部屋の隅に立てかけられた姿見の前に立った。
鏡に映っていたのは、黒い髪と灰青の瞳を持つ、痩せた少年だった。頬にはまだ熱の名残の赤みがあり、肩は狭く、拳を握っても力が入らない。探偵エルドの面影は、どこにもなかった。
だが目だけが違った。鏡の中の少年の目には、十二歳の子供には似つかわしくない——三十年の事件と、百を超える死体と、一つの冤罪を見てきた人間の色が宿っていた。
私は鏡に映る自分をしばらく見つめた。
転生。前世の記憶を持ったまま生まれ変わる。王都の書物で読んだことはある。古い宗教書に記された、魂の再生の伝承。まさか自分がその当事者になるとは思わなかったが——事実は事実として受け入れるのが探偵の流儀だ。感情は後回しにする。まず状況を整理する。
私は死んだ。冤罪で処刑された。真犯人は野放しのまま。連続毒殺事件の真相は闇に葬られた。
そして今、私は辺境伯家の次男として生きている。前世の記憶は完全に残っている。犯人の名前、顔、手口。証拠品を差し替えた方法。証人を買収した経路。すべて覚えている。
だが——この体には何もない。
名声はない。信用もない。人脈もない。探偵としての実績も権限もない。あるのは十二歳の非力な肉体と、誰にも証明できない前世の知識だけだ。
前世の失敗を思い返した。私は孤独だった。事件を一人で追い、証拠を一人で集め、推理を一人で組み立てた。助手も、協力者も、味方も持たなかった。何度か手を差し伸べてくれた者もいた。だがそのたびに私は断った。余計な人間を巻き込めば、推理の精度が落ちると信じていた。そうして孤立した人間がどうなるか——答えは処刑台の上で突きつけられた。証拠を捏造され、証言を覆され、誰一人として弁護に立つ者がいなかった。
推理力の不足で負けたのではない。人を信じられなかったから負けた。
鏡の中の少年が、わずかに口元を引き結ぶのが見えた。
窓の外で鳥が鳴いていた。辺境の空は広く、王都とは比べものにならないほど澄んでいる。朝日が窓枠に白い四角を描き、その光の中を小さな羽虫が舞っていた。この空の下で、十二歳の少年として、もう一度やり直す。今度は同じ轍を踏まない。
今度は——殺される前に、全てを暴く。
拳を握った。子供の拳は小さく、力が入らなかった。だがその無力さこそが、今の私に必要な戒めだった。力で押し通そうとするな。信頼を得ろ。味方を作れ。前世のエルドにできなかったことを、レインとしてやり遂げる。
部屋を出ると、長い廊下が続いていた。石造りの壁に朝の光が差し込み、古い絨毯の上を埃が舞っている。辺境伯の屋敷は王都の邸宅と比べれば質素だが、手入れは行き届いていた。壁際に飾られた花瓶には、摘みたてらしい野の花が挿してある。誰かがこの屋敷を丁寧に守っている。その几帳面さが、廊下の隅々にまで行き渡っていた。
廊下を歩きながら、屋敷の構造を頭に入れていく。出入口の位置、窓の数、使用人の動線。前世の習慣が自然と体を動かす。——だが今は捜査ではない。まずはこの家を知ることだ。
階段を降りかけたとき、足が止まった。
一階の書斎の扉が開いていた。中から声が漏れている。父——辺境伯の声と、もう一人、聞き覚えのない男の声。低く抑えた、しかし妙に慣れた調子の会話だった。密談というほどの緊張感はないが、子供に聞かせるつもりのない類の話だと、声の潜め方で分かった。内容は聞き取れなかったが、書斎の机の上に広げられた手紙が、廊下からわずかに見えた。
その封蝋に押された紋章を見た瞬間、全身の血が凍った。
二匹の蛇が絡み合い、その上に秤が載った意匠。見間違えるはずがない。前世で百回は目にした紋章だ。法廷記録に、証拠品の封筒に、そして偽証者の署名の横に——常にこの紋章があった。前世で私を裏切った証人——法廷で偽証を行い、私の冤罪を確定させた男が所属する家門の紋章だった。
偶然ではありえない。この辺境の屋敷に、あの紋章を持つ者からの手紙がある。あの事件の糸は、王都だけで閉じていなかった。ここまで繋がっている。
心臓が速く打っていた。子供の体は正直だった。こめかみに血管の脈動を感じ、指先がわずかに震えている。だが頭は冷静だった。飛び込んで手紙を奪い読むような愚は犯さない。前世の私ならやっていた。証拠を見つけた瞬間に突き進み、周囲の警戒を顧みなかった。その性急さが、最後には自分の首を絞めた。今の私にはまず、この家の中での信頼が要る。
書斎の扉が閉じる音がした。私は何食わぬ顔で階段を降り、食堂へ向かった。
鏡に誓った言葉を、もう一度心の中で繰り返す。
全てを暴く。だが今度は、一人ではやらない。