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聖女やめて、辺境食堂はじめます

第1話 第1話

第1話

第1話

目が覚めたとき、最初に感じたのは風だった。

頬を撫でる空気はどこまでも乾いていて、かすかに草の匂いを含んでいる。土の匂いも混じっていた。雨上がりの湿った土ではなく、何日も陽に晒されて焼けたような、からりとした匂い。リーネは仰向けのまま、しばらく瞬きを繰り返した。空が広い。雲が低く、ゆっくりと東へ流れていく。見覚えのない空だった。前の世界の空は、いつも神殿の天窓から切り取られた四角い断片でしかなかった。こんなふうに、端から端まで遮るもののない空を見上げたのはいつ以来だろう。

身体を起こすと、あたり一面が荒野だった。背の低い草がまばらに生え、遠くに森の稜線が見える。丘の上に、自分はひとりで横たわっていたらしい。膝に土がついている。手のひらで払うと、冷たい感触が指先に残った。肩から背中にかけて、地面に押しつけられていた痕がじんわりと痛む。どれほどの時間、ここに倒れていたのだろう。

誰もいない。

その事実が、胸の底にじんわりと沁みた。安堵という言葉では足りない。身体の内側で、長いあいだ張り詰めていた糸が、音もなくほどけていくような感覚だった。

——聖女リーネ、次の患者です。

——まだ並んでいるのに、休むつもりですか。

声が蘇る。前の世界で、毎日のように浴びせられた言葉。夜明けから夜更けまで、治癒魔法を求める列は途切れなかった。老人の咳、子どもの泣き声、母親の懇願。その一つひとつに聖女の笑顔で応え続けた。感謝の言葉はいつからか消え、代わりに義務と糾弾が積み上がった。食事は立ったまま、冷めた粥を三口。味など覚えていない。ただ喉を通すだけの行為だった。眠りは椅子の上で、二刻がせいぜい。それでも「聖女」は笑顔でなければならなかった。

最後の記憶は、回廊の石畳に膝をついた瞬間だ。視界が白くなって、誰かの悲鳴が聞こえて——それきり。

リーネは両手を膝の上に置いた。ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、何もわからない。けれど不思議と怖くはなかった。この丘の上には、リーネを呼ぶ声がない。急かす足音がない。それだけで、呼吸がずいぶん楽だった。胸いっぱいに息を吸い込むと、乾いた草と、遠い森の緑の気配が肺を満たした。こんなに深く息を吸えたのは、もう何年ぶりだろう。

風がまた吹いた。髪が揺れる。遠くで鳥が一羽、弧を描いて飛んでいくのが見えた。

「……今度は、自分のために生きよう」

声に出してみると、その言葉は思ったよりも頼りなく、けれど確かに、自分の口から出たものだった。風に攫われて消えていく自分の声を、リーネは不思議な気持ちで聞いた。神殿では祈りの文句と感謝の定型句しか口にしなかった。自分の望みを自分の声で語るのは、ひどく久しぶりのことだった。

丘を降りることにした。立ち上がると、足元の草が踝をくすぐる。斜面はなだらかで、歩きにくくはない。見渡すかぎり人家の影はなく、獣道のような筋が一本、森のほうへ続いているだけだった。

日が傾き始めていた。橙色の光が荒野を染めて、リーネの影を長く引いている。夜が来る前に、どこか身を寄せられる場所を見つけなければならない。焦りというほどではないが、足は自然と速まった。

獣道を十分ほど辿ったところで、それは見えた。

蔦に覆われた石造りの小屋が、小さな窪地にひっそりと建っている。屋根は半分が緑に呑まれ、壁面の石組みも苔むしている。長いあいだ人が住んでいない様子だった。けれど崩れてはいない。石と石の継ぎ目は精巧で、風雨に耐えてきた年月をそのまま纏っていた。

入口は木の扉——というよりも、かろうじて原形を留めた板が蔦で壁に縫い止められている状態だった。リーネは蔦を何本か引き剥がし、板を押した。乾いた音を立てて、扉が内側に開く。

埃っぽい空気が流れ出た。土と、古い石と、かすかに甘い——何かの香り。

一歩踏み入ると、目が暗さに慣れるまで少しかかった。窓は蔦で塞がれていたが、隙間から細い光が差し込んでいる。その光の筋を辿って、リーネは室内を見回した。

息を呑んだ。

石造りの竈が、部屋の奥に据えられていた。ただの竈ではない。三つ口で、それぞれの焚口の大きさが異なる。大きな焚口は煮込み用だろう、中くらいのものは日常の炊事に、一番小さなものは薬湯か、あるいはソースのような繊細な火加減を要するものに。傍らには石を削り出した調理台があり、壁際には棚が並んでいる。棚には土器の壺や、金属の容器が行儀よく収まっていた。

台所だった。見たこともない造りの、けれど間違いなく台所だった。

リーネはゆっくりと竈に近づいた。石の表面に手を置く。冷たい。長いこと火が入っていない証拠だ。焚口の中を覗くと、灰すら残っていない。最後に使われたのが、いったいどれほど前なのか見当もつかなかった。

調理台の上に手を滑らせる。埃の下に、滑らかな石の肌触り。指先に伝わる質感は、どこか心地よかった。何度も使い込まれた石特有の、角の取れた丸みがある。ここでかつて誰かが、何かを刻み、捏ね、盛りつけていた。その気配が、埃の下にまだ息づいているようだった。

棚の壺をひとつ手に取り、蓋を開けてみる。中は空だったが、内壁にこびりついた残滓から、かつて何かが保存されていたことがわかる。甘い匂いの正体はこれだろうか。鼻を近づけると、蜜のような、けれどもっと深い香りがかすかに残っていた。

前世で身につけた鑑定の目が、無意識に働いている。聖女の仕事は治癒だけではなかった。薬草の選別、毒の判定、食材の可否——膨大な知識を叩き込まれた。使い潰すための道具として。

だが今、その目は自分のために使える。

リーネは窓辺の蔦を何本か剥がして、光を入れた。西日が斜めに差し込み、室内が一気に明るくなる。竈の全容が見えた。石組みの精密さ、焚口の角度、煙道の設計。どれも理に適っている。造った人間は、料理というものをよく知っていた。

窓から見える景色は、窪地の緑と、その向こうに広がる荒野の稜線。人の姿はない。聞こえるのは風の音と、どこかで鳴く虫の声だけだった。

ここには屋根がある。壁がある。竈がある。水場は——小屋の裏手で、かすかに水の流れる音が聞こえる。明日確かめよう。

そして何より、誰もリーネを呼ぶ声がない。

それだけで十分だった。

リーネは調理台の前に立ち、両手を台の上に置いた。冷たい石の感触が、掌から腕へ、腕から胸へと伝わっていく。ここで何かを作ることができる。誰のためでもなく、自分のために。その予感が、小さな灯のように胸の奥に灯った。前の世界では、自分のために何かを作るという発想すらなかった。聖女の手は聖女のものではなく、民のものだった。この手で自分の食べるものを作る——その当たり前のことが、今はひどく眩しい。

何気なく竈の脇の壁に目をやったとき、リーネの視線が止まった。

石壁の表面に、細い線で文字のようなものが刻まれている。古い。とても古い。読めない文字だった。前世の知識にもない書体で、規則的な紋様が壁の一面に連なっている。

日が傾いて、最後の西日が壁面を照らした瞬間——文字の溝が、淡く、ほんのかすかに光った。青白い燐光が、刻まれた線に沿って走るように。光は竈の周囲をぐるりと巡り、三つの焚口の縁を順に辿って、やがて天井の煙道へと消えていった。まるで、この台所全体がひとつの術式であるかのように。

一瞬のことだった。日が雲に隠れると、光は消えた。

リーネは壁の前に立ち尽くした。心臓が、少しだけ速く打っている。ただの石の小屋ではない。この場所には、まだ何かがある。

けれど今は、それを追う気にはなれなかった。疲れていた。前世の疲れが、まだ骨の奥に残っているような気がする。

リーネは調理台の隅に腰を下ろし、壁にもたれた。石の冷たさが背中に心地よい。窓の外では空が藍色に変わり始めている。虫の声が、少しずつ増えていた。

目を閉じる。明日、この竈に火を入れてみよう。あの棚の壺の中身を調べよう。裏手の水場を確かめよう。やることは、いくらでもある。

けれど今夜は、ただ眠ろう。誰にも起こされない夜を、ここで過ごそう。

壁の古代文字が、暗がりの中でもう一度だけ——本当にかすかに——瞬いた気がした。リーネはもう目を開けなかった。

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