第3話
第3話
夜が更けても、マルクスは眠らなかった。
食料庫の鍵は、結局グレンではなくマルタが持ってきた。兵士長が直接手渡すことを良しとしなかったのだろう。体面というものがある。九つの子どもに鍵を託すなど、兵を束ねる男の沽券にかかわる。だが拒絶もしなかった。そのことに、マルクスはわずかな手応えを感じていた。
食料庫に入り、改めて棚の中身を検分した。蝋燭の灯りが石壁に揺れる中、一つ一つの食材を手に取り、嗅ぎ、指で押し、状態を確かめていく。
干し肉は四束。うち二束は乾燥が進みすぎて石のように硬い。残る二束はまだ繊維に弾力があり、戻せば出汁が取れる。穀物は三袋のうち一袋に虫がついている。篩にかければ使えなくはないが、そのまま炊けば味を損なう。塩漬けの根菜は蕪と人参。塩が薄い分、素材の味は残っている。乾燥豆は小粒だが、水に浸せば倍に膨れる。
それから、昼間に採取した野蒜と水草、そして蕪の葉。マルタに頼んで籠に入れさせておいたものだ。
マルクスは食料庫の土間に座り込み、蝋燭の灯りの中で献立を組み立てた。前世で幾千と繰り返した作業だった。食材の一覧を頭に並べ、火の通し方、切り方、合わせる順序を構想する。宮廷の厨房では、この工程を「設計」と呼んでいた。
干し肉を細かく刻み、弱火で長時間煮出す。骨から出汁を引くように、繊維の奥に残った旨味を余さず水に移す。そこに乾燥豆を加え、崩れるまで煮込めば自然のとろみが出る。蕪と人参は薄く切って最後に入れる。煮すぎれば甘みが逃げる。野蒜は仕上げに散らし、蕪の葉は刻んで塩揉みしたものを添える。
ポタージュだ。宮廷の饗宴で供されるような繊細なものではない。だが、体を温め、腹を満たし、明日を生き延びるための一椀。前世の技法を、この貧しい食材に注ぎ込む。
「——足りないのは、火だけだ」
マルクスは立ち上がり、食料庫を出た。
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翌朝、村の共同竈に煙が立ち昇ったとき、最初に気づいたのは子どもたちだった。
この村の炊事は各戸で行うのが常だった。共同竈は祭事のときにしか使われず、普段は煤けた石組みが広場の隅で眠っている。その竈に火が入り、大鍋が据えられ、湯気とともに覚えのない匂いが立ち始めた。
マルクスは夜明け前から動いていた。マルタに手伝わせ、干し肉を刻み、豆を水に戻し、根菜を薄く切り、野蒜の根を洗った。九つの体では大鍋を持ち上げることもできない。水汲みも薪割りもマルタの仕事だった。だがマルクスは火加減と手順を指示し続けた。その声には、十七年の厨房を仕切った料理長の重みがあった。
「火を絞れ。豆が踊らない程度でいい」
「干し肉はまだ入れるな。出汁が濁る」
「蕪は今だ。薄く、均一に。火の通りを揃えろ」
マルタは最初こそ戸惑っていたが、やがて黙って従い始めた。マルクスの指示には迷いがなく、その一つ一つに理由があることが、手を動かしているうちにわかったからだ。
匂いが広場に広がった。
干し肉の旨味と豆の甘みが溶け合い、野蒜の清冽な香りがその上に乗る。蕪と人参が煮崩れる寸前の柔らかさになったとき、マルクスは火を落とした。最後に蕪の葉の塩揉みを散らす。緑が褐色の汁に映え、湯気の中に冬の野の匂いが混じった。
子どもが三人、広場の端からこちらを窺っていた。痩せた、汚れた顔の子どもたちだ。鼻を動かし、信じられないものを嗅いだという顔をしている。この村で「いい匂い」は珍しいものなのだ。
マルクスは木の椀に汁を掬い、子どもたちに差し出した。
「食え」
最初の一人がおそるおそる椀に口をつけた。一口啜り、目を見開いた。二口目はもう迷わなかった。椀を両手で抱え、必死に啜る姿は、宮廷の晩餐で王侯が美酒を味わう姿よりも、よほど真に迫っていた。
「——うまい」
二人目の子どもが、震える声で言った。
「こんなうまいもの、初めてだ」
三人目は何も言わなかった。ただ椀を空にし、底に残った汁を指で拭って舐め、それからマルクスの顔をじっと見上げた。その目に涙が滲んでいるのを、マルクスは見て見ぬふりをした。
胸の奥で、何かが軋んだ。
前世の宮廷では、百の皿を並べても、こんな顔をした者はいなかった。王は料理を当然のものとして食い、貴族たちは品評のために味わい、誰一人として「うまい」と声を上げる者はいなかった。十七年間、完璧な皿を作り続けて、一度も得られなかった手応え。それが今、冬の寒村の、廃棄寸前の食材で作った粗末な汁物から返ってきた。
——馬鹿げている。
マルクスは自分に言い聞かせた。感傷に浸っている場合ではない。北から敵が来る。食料は依然として足りない。だが口の端が、わずかに緩んだことは否定できなかった。
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騒ぎを聞きつけて、村人たちが集まり始めた。共同竈の周囲に十人、二十人と人が増え、マルクスは黙々と椀に汁を注ぎ続けた。大鍋の中身には限りがある。全員に行き渡らせるために、一椀あたりの量を絞る。だが薄くはしない。味を保ったまま量を調整するのは、宮廷仕込みの技術だった。
汁を受け取った者の反応は、子どもたちと同じだった。目を見開き、二口目から無言になり、空になった椀を名残惜しそうに見つめる。中には椀を返しに来て、もう一杯を求める者もいた。マルクスは首を横に振った。
「一人一椀だ。残りは夕餉に回す」
村長ディートリヒが最後にやって来た。椀を受け取り、一口含み、長い間動かなかった。やがて椀を下ろし、マルクスの顔を見た。昨日とは違う目だった。
「この食材は、食料庫のものか」
「それと、昨日森と川から採ってきたものだ」
「——あの干し肉と豆で、これを作ったのか」
マルクスは答えなかった。答える必要はない。味が証明している。
人垣の後ろから、一人の老人が進み出た。背は曲がり、顔は日に灼け、手は節くれ立っている。六十は超えているだろう。だが目だけは鋭く、マルクスをまっすぐに見据えていた。
老農夫エルド。この体の記憶にその名があった。村の最古参。かつては辺境伯の直轄地で農事を取り仕切り、隠居してこの寒村に移り住んだ男。村人たちが土のことで迷えば、最後に訊きに行く相手だ。
エルドは椀を受け取らなかった。代わりに竈の傍にしゃがみ込み、鍋の中を覗き、灰を指で摘んで嗅ぎ、それから立ち上がってマルクスと目を合わせた。
「火加減を二度変えておるな。最初は強火で沸かし、途中で落として豆を崩し、最後にまた少し上げて根菜に火を通した。違うか」
マルクスの眉がわずかに動いた。灰の状態から火の経過を読むのは、竈を知り尽くした者にしかできない芸当だ。
「——違わない」
エルドは腕を組み、しばらくマルクスを見つめていた。周囲の村人たちは二人のやりとりを黙って見守っている。
「あんた、ただの子どもじゃないな」
低い声だった。詰問ではない。確認だった。長い歳月を生きた人間が、目の前の異質なものを認めたときの、静かな声。
マルクスは答えを選んだ。嘘は吐かない。だが真実をすべて語る必要もない。
「腹が減っていた。だから作った。それだけだ」
エルドは鼻を鳴らした。納得したのか、呆れたのか、その表情からは読み取れなかった。だが次の言葉は、マルクスの予想を超えていた。
「わしの畑を使え」
「——何だと」
「村の南に、わしが耕している畑がある。小さいが、土は悪くない。風除けの石垣もある。あんたが何を企んでいるか知らんが、食い物で村を救おうというなら、土がいる。種もいる。わしが持っている」
マルクスはエルドの目を見返した。老人の瞳には打算はなかった。ただ、長年この土地に根を張った人間の、土地への執着と矜持があった。自分の畑を他人に使わせるというのは、この老人にとって小さな決断ではないはずだった。
「——なぜだ」
「四十年、この土で飯を作ってきた。だが戦になれば畑は焼かれる。どうせ焼かれるなら、焼かれる前に使い切ったほうがいい」
その声には諦観があった。だが同時に、かすかな抗いがあった。ただ奪われるのではなく、最後まで土を使い尽くすという、農夫の意地。
マルクスは頷いた。
「使わせてもらう」
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日が傾き始めた頃、マルクスはエルドの畑に立っていた。
南向きの緩斜面に拓かれた小さな畑だった。石垣が北風を遮り、日当たりは村のどの畑よりも良い。土を掬い上げて指で揉んだ。黒く、湿り気がある。腐葉土を長年鋤き込んだ土だ。この寒さでも、根菜ならばまだ間に合うかもしれない。
「蕪と、寒冷地の豆。それから野蒜を移植する」
エルドが傍らで腕を組んでいた。
「冬蒔きか。芽が出るまで一月はかかるぞ」
「一月でいい。その間は備蓄と採取で繋ぐ。今朝の汁物で証明しただろう。食材の扱い方を変えれば、今あるものだけでも時間は稼げる」
エルドは黙って頷いた。四十年の農事の経験が、マルクスの言葉の裏にある計算を理解していた。
帰り道、村の北端を通ったとき、マルクスは足を止めた。兵士長グレンが守備兵たちと何事か話し込んでいる。その表情は険しく、兵たちの顔にも緊張が張りついていた。
グレンがマルクスに気づき、一瞬だけ目を向けた。その視線の中に、今朝はなかったものがあった。苛立ちでも侮蔑でもない。もっと厄介なもの——期待の萌芽だ。
「坊ちゃん。朝の汁を食った兵が二人いる。もう一度作れるかと聞いてきた」
マルクスは北の山並みを見た。冬の空は暮れかかり、稜線の向こうに薄い煙が幾筋か立ち昇っていた。斥候の野営の煙か、あるいは略奪で焼かれた村の残り火か。いずれにせよ、敵はもう山の向こうにいる。
「作る。だが次は、ただの汁ではない」
グレンの眉が動いた。
「前世で——」
言いかけて、マルクスは言葉を切った。
「——昔、聞いたことがある。兵を戦わせる前に食わせる粥がある、と」
北風が畑の土を攫い、暗くなりゆく空に散らした。マルクスの頭の中では、もう次の献立が組み上がり始めていた。干し肉ではない。穀物と脂と塩。体の芯に火を灯し、極寒の中で兵を動かし続ける秘伝の配合。
戦場粥。それを作る日が近い。