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辺境料理人の兵站戦記

第2話 第2話

第2話

第2話

食料庫は、村の中央からやや外れた窪地にあった。

石積みの小屋と呼ぶのも憚られる代物だった。壁は隙間だらけで、屋根の茅葺きは半ば朽ちている。扉は厚い樫材だったが、蝶番が錆びつき、老女のマルタが両手で押してようやく開いた。中に足を踏み入れた瞬間、マルクスは息を呑んだ。

——空だ。

正確には空ではない。奥の棚に干し肉が数束、麻袋に詰められた穀物が三袋、塩漬けの根菜が樽に半分ほど。壁際には乾燥させた豆の袋が四つ。それだけだった。

マルクスは棚の前に立ち、干し肉を一本手に取った。指で弾く。硬すぎる。乾燥が過度だ。繊維が痩せ、噛んでも旨味は殆ど出ないだろう。塩漬けの根菜を樽から一つ掬い上げて嗅いだ。塩が足りていない。このままでは月を待たずに腐敗が始まる。

麻袋の穀物に手を差し入れた。指の間からさらさらと零れ落ちる麦粒は、小さく、痩せていた。色も悪い。収穫期を誤ったか、あるいはそもそも土壌が痩せすぎているのか。宮廷の厨房に届いていた黄金色の麦とは比べるべくもない。

マルクスは庫内を一巡し、頭の中で計算を走らせた。村の人口は六十から七十。冬は少なくともあと四月は続く。一人一日あたりの最低必要量から逆算すれば——。

「一月だ」

「は?」

「この備蓄では一月しか持たない。冬はあと四月ある。三月分が足りない」

マルタが顔色を変えた。だが否定はしなかった。わかっているのだ。この村の者たちは、わかった上で目を逸らしている。

食料庫を出ると、村長の家の前に人だかりができていた。痩せた男たちが五、六人、低い声で何事か言い争っている。その輪の中心にいたのは、白髪を後ろに撫でつけた初老の男だった。顔に深い皺が刻まれ、左の頬に古い刀傷がある。村長ディートリヒ。マルクスの中にあるこの体の記憶が、その名を教えた。

「——だから言っておる。東のグリューネ村は三日前にやられた。家畜は根こそぎ、穀物庫は焼かれた。逃げてきた者の話では、騎馬が二十ほど」

「二十だと。うちの守備兵は十二だぞ」

「十二もおらん。まともに動けるのは八か九だ」

マルクスは人垣の外から耳を澄ませた。九つの子どもが大人の議論に割り込める空気ではない。だが、交わされる言葉の一つ一つが、前世の宮廷で聞いた軍議の断片と重なっていく。

村長が腕を組んだ。「辺境伯さまに援軍を頼むしかあるまい」

「頼んで来るのか。この村にか」

沈黙が落ちた。誰もが答えを知っていた。辺境伯グスタフは領内に十以上の村を抱えている。北端の寒村一つに兵を割く理由はない。ましてここは三男を押し込めるために使われているような場所だ。

マルクスは視線を北に向けた。村の背後に連なる低い山並みの向こうに、隣領——ヴァルトシュタイン男爵領がある。前世の記憶にはない土地だ。だがこの体の記憶が断片的に教えてくれる。ヴァルトシュタイン家は代々好戦的で、辺境伯領の北辺を蚕食し続けてきた。父グスタフが兵を北に向けないのは、南の主要領地の防備を優先しているからだ。北の寒村は、いわば見捨てられた緩衝地帯。

「坊ちゃま、お戻りに」

マルタが袖を引いた。マルクスはその手を静かに振り払い、村長の家に向かって歩き出した。

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「何の用だ、三男坊」

村長ディートリヒの声に敵意はなかったが、関心もなかった。男たちの視線が一斉にマルクスに向き、すぐに逸れた。子どもの来る場所ではないという無言の圧がある。

「食料庫を見てきた」

マルクスは言った。

「一月分しかない。冬を越せない。そこに略奪が来れば、この村は春を迎えられない」

場が静まった。九つの子どもの口から出る言葉としては、あまりに正確すぎた。村長の目が細くなった。

「——わかっておる」

「わかっていて、どうするつもりだ」

マルクスの声に苛立ちは込めなかった。責めているのではない。事実を確認しているだけだ。だが、その冷静さがかえって場の空気を凍りつかせた。

男たちの一人が口を開いた。兵士長グレン。四十がらみの、がっしりした体躯の男だ。左腕に革の腕甲をつけ、腰には使い込まれた剣を帯びている。

「辺境伯さまに使いを出す。それ以外にできることはない」

「援軍は来ない」

マルクスは断言した。父の無関心は、この体の記憶が一番よく知っている。長兄ヴィルヘルムが武勲を重ねる南部戦線に兵力は集中し、次兄コンラートは東の交易路の利権争いに忙殺されている。北の果ての寒村に割く駒はない。

「来ないとわかっていて使いを出すのは、行動しているという体裁のためだろう」

グレンの顔に怒気が走った。図星を突かれた人間の反応だった。だが怒鳴りはしなかった。代わりに、値踏みするような目でマルクスを見下ろした。

「ならばどうしろと言うんだ、坊ちゃん」

マルクスは食料庫の中身を思い返した。干し肉、穀物、塩漬けの根菜、乾燥豆。いずれも質は悪く量は足りない。だが——ゼロではない。

前世の厨房で、マルクスは幾度となく不可能に近い注文をこなしてきた。国賓の急な来訪で食材が足りない夜。疫病で流通が止まり、貯蔵庫の底を浚って百人分の晩餐を仕立てた月。王宮の料理人とは、限られた手札で最善を引き出す職人のことだ。

「まず食料を保たせる。今ある備蓄の扱い方を変えるだけで、一月は延ばせる。干し肉の戻し方、穀物の炊き方、塩漬けの管理——全部間違っている」

男たちが互いの顔を見合わせた。

「次に、村の周囲で採れるものを洗い出す。森の木の実、根菜の自生種、川があれば魚。冬でも手に入る食材はある。それを知らないだけだ」

マルクスの声は淡々としていた。感情を排した、事実の羅列。だがその一つ一つが、飢えに直面した村人たちの耳には切実に響いたはずだった。

村長ディートリヒが、初めてまともにマルクスの顔を見た。

「——お前、何者だ」

辺境伯の三男だ、という答えは意味を成さないことを、マルクスは知っていた。この村で「辺境伯の三男」とは、厄介払いされてきた余計な口という意味でしかない。

「飢え死にしたくない人間だ」

それだけ答えた。

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村の周囲を歩いた。午後の光は薄く、風は刃のように冷たかった。

マルクスはマルタを伴い、森の縁、川沿い、畑の跡地を順に見て回った。目は食材を探している。手は土を掘り、樹皮を剥ぎ、川の石をひっくり返した。九つの体は非力で、すぐに息が上がる。だが頭の中では、前世の知識が休みなく回転していた。

森の入口で野蒜の群生を見つけた。冬枯れの下草に隠れていたが、根は生きている。掘り出せば薬味になり、体を温める効能もある。川沿いの岩場にはクレソンに似た水草が僅かに残っていた。凍りつく前に採取すれば、汁物の具になる。

畑の端に目を向けると、収穫後に打ち捨てられた蕪の葉が霜に覆われていた。根は掘り返されているが、葉はそのままだ。

「これ、捨てたのか」

「蕪の葉でしょう。硬くて食えませんよ」

マルタが不審そうに言った。マルクスは葉を一枚ちぎり、指で揉んだ。

「刻んで塩で揉み、干せば保存が利く。粥に入れれば嵩が増える。捨てるものじゃない」

宮廷では決して使わない食材だ。だが今は宮廷ではない。使えるものはすべて使う。マルクスの頭の中で、備蓄の再計算が始まっていた。干し肉の戻し汁を出汁にし、穀物は粥にして嵩を増す。野蒜と水草を加え、蕪の葉で栄養を補う。食料庫の中身だけでは一月。だが周囲の食材を組み合わせれば、二月——いや、切り詰めれば三月近くは持たせられるかもしれない。

帰り道、村の東端を通りかかったとき、馬蹄の音が聞こえた。

見上げると、埃をかぶった騎馬が一騎、北の街道から駆け込んでくるところだった。馬は泡を吹き、騎手の外套は泥と血で汚れている。兵士長グレンが駆け寄り、騎手の体を支えて馬から下ろした。

「ヴァルトシュタインの連中が——」

騎手は喘ぎながら言った。

「国境の砦を越えた。五十騎。斥候じゃない、先遣だ。本隊がいる」

グレンの顔から表情が消えた。

五十騎。先遣だけで五十。本隊を含めれば、どれほどの兵力になるのか。この村の守備兵は十二。まともに動ける者は八か九。話にならない数の差だった。

マルクスは凍った土の上に立ち尽くしたまま、北の山並みを見据えた。冬の空は鉛色に低く垂れ込め、山の稜線はその重みに押し潰されるように霞んでいた。

食料が足りない。兵が足りない。時間が足りない。

だが——前世の宮廷で、マルクスはもっと絶望的な厨房を何度も切り抜けてきた。足りないものを嘆く暇があれば、今あるもので何を作れるかを考えろ。それが料理人の流儀だ。

拳を握った。小さな、霜焼けだらけの拳を。

「グレン」

兵士長が振り返った。子どもの声に反応する余裕はないはずだったが、先刻の食料庫の件が引っかかっているのか、足を止めた。

「食料庫の鍵を俺に預けろ。明日の朝までに、兵に食わせるものを作る」

グレンは答えなかった。だがその目には、嘲りではなく、困惑に近い何かが浮かんでいた。

北風が吹きつけた。マルクスの短い髪を乱し、村の家々の軋む音を連れてきた。その風の向こうから、冬と、飢えと、戦の足音が、確かに近づいていた。

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