第1話
第1話
血の味がした。それが、マルクス・ヴァレンティの最後の記憶だった。
処刑台の石段は、冬の朝露に濡れて黒く光っていた。膝をつかされた姿勢のまま、マルクスは眼下に広がる群衆を見下ろした。いや、見下ろしたのではない。首を押さえつけられ、斜めに歪んだ視界の隅に、灰色の人垣がぼんやりと映っていただけだ。
罪状は王妃暗殺。
馬鹿げている、とマルクスは思った。十七年。王宮の厨房に立ち続けた十七年間で、自分の手が生み出したのは料理だけだ。一振りの刃物も人に向けたことはない。だが、その弁明を聞く者は、もうこの場にいなかった。
処刑台の正面、貴賓席に設えられた椅子に、宰相フェルディナント・ローゼンハイムが腰を下ろしていた。毛皮の外套を纏い、銀杯を片手に、まるで宴の余興でも眺めるかのように薄く笑っている。あの男だ。王妃の食事に毒を仕込んだのは。そしてその罪を宮廷料理長に着せたのも。マルクスは奥歯を噛み締めた。口の中に広がる鉄の味は、唇を噛み切った血の味だった。怒りで震える手首を、背に回された縄がきつく縛り上げている。繊維が肌に食い込み、そこだけが灼けるように熱い。
「——宰相閣下の仰せにより、証拠品を処分する」
兵士の声が響いた。マルクスの視界の端で、革装丁の帳面が松明の火にかざされた。
レシピ帳。十七年の集大成。宮廷料理の技法だけではない。食材の保存法、香辛料の薬効、兵站における糧食の理論——料理人として到達し得るすべてを書き記した、もう一つの命とも呼べる書物だった。
炎が革表紙を舐め、紙片が黒く縮れていく。頁の端から火が走り、黄金色のインクで記した配合表が赤く燃え上がっては灰に変わった。ローズマリーの乾燥法、氷室の設計図、王妃が好んだサフランの焼き菓子の手順——一枚、また一枚と、十七年の手技が煙となって冬空に溶けていく。マルクスは歯を食いしばった。涙ではない。怒りだ。十七年の歳月が、あの男の冷笑ひとつで灰に変わる。
「最後に何か申すことは」
刑吏の問いに、マルクスは乾いた唇を動かした。
「——俺の料理は、誰も殺していない」
刃が振り下ろされる音は、聞こえなかった。
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暗闇の中で、最初に感じたのは寒さだった。
骨の髄まで染み込むような、湿った冷気。処刑台の石の冷たさとは違う。土と藁の匂いがする。指先に触れたのは粗末な毛布の感触で、その下に敷かれた藁束が背中にちくちくと刺さっていた。
目を開けた。
天井は低く、煤けた梁が頭上を横切っている。壁は荒く塗られた漆喰で、隙間風が容赦なく吹き込んでいた。窓と呼ぶのもおこがましい小さな穴から、灰色の空が覗いている。
マルクスは身を起こそうとして、違和感に気づいた。
体が小さい。
手を顔の前にかざした。骨ばった料理人の手ではない。肉の薄い、子どもの指だった。五本の指を握り、開き、もう一度握る。感覚は確かにある。だが、これは自分の手ではない。爪は割れかけ、指の関節には霜焼けの赤い腫れがあった。包丁を握り続けて分厚くなった掌の胼胝も、火傷の古傷も、何もかも消えている。
「——マルクス坊ちゃま、朝餉の時間ですよ」
扉の向こうから、老いた女の声がした。坊ちゃま。その呼び方と、この粗末な部屋との落差に、マルクスは眉をひそめた。
記憶が二重に重なっている。処刑台の冷たい石と、この藁の寝台。宰相の冷笑と、今し方の老女の声。断ち切られたはずの意識が、別の器の中で目を覚ましたとでも言うのか。
扉が軋んで開き、痩せた老女が木の盆を差し入れた。盆の上には、黒パンが一切れと、濁った水の入った椀。
「今日は辺境伯さまが屋敷にお戻りです。くれぐれもお静かに」
それだけ言って、老女は足早に去った。
マルクスは黒パンを手に取った。硬い。石のように硬い。爪を立てても表面が凹む程度で、噛み千切るには相当の顎の力がいる。かろうじて欠片を口に含むと、酸味が舌を突いた。発酵が進みすぎている。粉の挽きも粗く、麦の殻がそのまま残っていた。
——下手な粉だ。篩にかける手間すら惜しんでいる。
その判断が、宮廷料理人としての十七年の経験から瞬時に出てきたことに、マルクスは自分で驚いた。記憶は鮮明だった。千を超える献立の組み立て。百種を超える香辛料の配合。火加減の見極め。食材の目利き。すべてが、この小さな頭の中に残っている。
だが、今の自分は何者だ。
断片的に流れ込んでくるもうひとつの記憶を、マルクスは慎重に辿った。
辺境伯グスタフ・ヴェーバーの三男。名はマルクス——奇妙な符合だった。母は三男を産んで間もなく病没し、父は以来この子に関心を持たない。長兄ヴィルヘルムは武勇に優れ、次兄コンラートは政治の才を見せ、三男は屋敷の隅で飯を食うだけの存在。年は九つ。辺境伯領の北端、冬は雪に閉ざされる寒村の離れに預けられている。
窓の外に目を向けた。灰色の空の下、痩せた畑が広がっている。収穫を終えた後の、何も残っていない黒い土。遠くに見える森は葉を落とし、骨のような枝を空に突き上げていた。人の姿はまばらで、すれ違う村人の顔には一様に疲労と諦めが貼りついている。
この村は飢えている。料理人の目には、それが一目でわかった。
マルクスは黒パンをもう一度齧った。顎が痛むほど硬いが、胃に落ちれば多少は体が温まる。濁った水で流し込みながら、前世の最後の日々を思い返した。
処刑の三日前。独房の中で、マルクスは頭の中だけでレシピ帳を完成させていた。紙も筆もなかった。だから、すべてを記憶に刻んだ。最後に書き加えたのは「戦場粥」の改良版——王国精鋭のために開発しながら、ついに実戦で供されることのなかった秘伝の糧食。体を芯から温め、持久力を飛躍的に引き上げる配合。あの帳面は燃やされた。だが中身は、ここにある。この小さな頭蓋の中に、一字の漏れもなく。
「——坊ちゃま」
再び老女の声がした。今度は扉越しではなく、部屋の入口に立っている。その顔がわずかに強張っていた。
「村長が来ておいでです。隣領の騎馬の連中が、また国境沿いを荒らしているそうで」
マルクスは黒パンの最後の欠片を飲み込んだ。
「略奪か」
「ええ。東の村がやられたと。次はこっちだろうと、皆が——」
老女の声が震えた。マルクスは立ち上がった。九つの体は頼りなく、寝台から降りるだけで膝がふらついた。だが頭は冴えている。宮廷で培った思考が、勝手に動き始めていた。
略奪部隊が来る。守備の兵はいるのか。食料の備蓄は。冬までの日数は。地形は。退路は。
前世では、料理を作ることしか許されなかった。厨房の外のことに口を出す権限など、宮廷料理人にはなかった。政も戦も、自分の与り知らぬ場所で決められ、自分はただ最上の皿を差し出すだけの道具だった。
だが今は違う。
この体は辺境伯の三男だ。最底辺とはいえ、貴族の血を引いている。この村で声を上げる資格が、少なくとも形の上ではある。
マルクスは窓の外の痩せた畑をもう一度見た。
前世の自分は、世界で最も美しい皿を作り、世界で最も孤独な厨房に立ち、世界で最も理不尽な死に方をした。あの冷笑を浮かべた宰相の顔が、まぶたの裏にちらついた。
二度目はない。二度目の人生を、同じように奪われてたまるものか。
「食料庫を見せてくれ」
マルクスは老女に言った。
「——坊ちゃま?」
「この村の食料庫だ。今すぐ案内しろ」
老女は目を丸くした。昨日まで部屋の隅で黒パンを齧っていただけの子どもが、初めて命令の口調を使った。その声に宿った重みに、老女は言葉を失ったまま、黙って頷いた。
粗末な外套を羽織り、マルクスは小屋を出た。冷たい風が頬を叩く。吐く息が白く凍り、鼻腔の奥がつんと痛んだ。灰色の空の下、村はひっそりと沈黙していた。遠くで犬が一声吠え、それきり静まり返る。
足元の土は固く凍りかけていた。冬が来る。略奪が来る。この村に残された時間は、おそらくそう長くない。
だが、マルクスの頭の中には千のレシピがある。食材を活かす術、人を生かす術、そして——宮廷という戦場で十七年を生き延びた、策の記憶がある。
料理人の戦が、始まろうとしていた。