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捨て地の錬金公爵令嬢

第2話 第2話

第2話

第2話

七日、と聞いていた。

 実際には九日かかった。王都を出て三日目に街道の橋が落ちていて迂回を余儀なくされ、五日目には馬が脚を痛めて半日の足止めを食った。御者のハインツは無口な老人で、必要最低限のこと以外は口を開かなかった。それでも六日目の朝、私が馬車の窓から外を眺めていると、短く言った。

「お嬢様、このあたりから先は、冬の名残が厳しゅうございます」

 その言葉の通りだった。王都の近郊では桜に似た花が咲き始めていたのに、北へ進むほど景色は色を失い、枯れた草原と灰色の空ばかりが広がるようになった。風が変わった。王都では花の匂いを含んで柔らかかった風が、ここでは湿った土と枯草の腐臭を運んでくる。街道沿いの宿場町も、日を追うごとにみすぼらしくなっていく。最後の二日間は宿すら見つからず、馬車の中で毛布に包まって眠った。毛布は薄く、夜半には歯の根が合わなくなった。王宮の羽根布団が恋しいなどとは思わなかった。思う余裕がなかった。

 九日目の午後、ようやく辺境伯領の境界を示す石柱が見えた。かつては紋章が刻まれていたのだろうが、風雨に晒されて判読できない。石柱の根元に雑草が絡みつき、倒れかけている。まるで、この先に入るなと警告しているかのようだった。

 屋敷は、街道から外れた丘の上にあった。

 屋敷、と呼んでいいのかすら迷う。石造りの二階建て。屋根の半分は崩れ落ち、蔦が壁を覆い尽くしている。正面の扉は辛うじて原形を留めていたが、左の窓は板で塞がれ、右の窓は硝子が割れたまま放置されていた。庭は庭と認識できないほど荒れ果て、かつて花壇だったであろう石囲いの中に、背丈ほどの雑草が茂っている。

 馬車が止まると、正面の扉がゆっくりと開いた。

「お待ちしておりました。リーゼロッテ様」

 現れたのは、白髪の老人だった。背筋だけは不思議なほどまっすぐに伸びている。仕立てのいい、しかし何度も繕った跡のある執事服。深い皺の刻まれた顔に、穏やかな、けれどどこか疲弊した微笑みを浮かべていた。

「執事のフリードリヒと申します。先代辺境伯にお仕えして四十年になります」

 その背後から、もう一人。栗色の髪を三つ編みにした若い女性が、おずおずと頭を下げた。侍女のエルザだと名乗った。声が小さく、風に紛れてほとんど聞き取れなかった。二人とも痩せていた。特にエルザは、侍女服の袖口から覗く手首が驚くほど細い。

 使用人は、この二人だけだった。

「他の者は」

「前任のグラーフ代官が去られた折に、ほとんどが。残った者も、この冬の間に街へ下りました」

 フリードリヒの声に非難の色はなかった。ただ事実を述べている。それがかえって、事態の深刻さを物語っていた。

 屋敷の中は外見以上に荒んでいた。大広間の天井には雨漏りの染みが広がり、暖炉は煤だらけで、調度品の大半は持ち去られている。足を踏み出すたびに、石畳の隙間から冷気が立ち昇った。廊下には何かの獣が通った跡があり、壁の石膏が剥がれた箇所から土壁が剥き出しになっている。フリードリヒが案内してくれた私室は比較的ましだったが、寝台の天蓋は破れ、窓から隙間風が吹き込んでいた。王宮の客間の十分の一にも満たない部屋。それでも、二人が懸命に掃除してくれたのだろう、埃だけは払われていた。

 荷解きもそこそこに、私は村を見て回ることにした。領主がまず知るべきは、領地の現状だ。それくらいの判断力は、公爵家の教育が私に与えてくれている。

 村は、屋敷から坂を下った谷間にあった。二十軒ほどの家屋が寄り集まり、その周囲に畑が広がっている。いや、畑だったもの、と言うべきか。土は白く乾いて罅割れ、作物の気配がない。灌漑用の水路は泥に埋まり、柵は倒れ、家畜小屋には一頭の山羊がいるだけだった。その山羊も肋が浮き、濁った目でこちらを一瞥しただけで、すぐに興味を失ったように顔を背けた。

 私が村の道を歩くと、人々の視線が集まった。大広間で浴びた視線とは、まるで質が違う。あちらは好奇と嘲り。こちらは――敵意だ。

 痩せた頬、窪んだ目、土気色の肌。女たちは子供を背に隠し、男たちは黙ったまま腕を組んで私を睨んでいる。子供の一人が、薄い上着の隙間から覗く肋骨を見せながら、じっとこちらを見つめていた。あの目に宿っているのは恐怖だ。新しい領主が来た。前の代官と同じことをするのではないか。そう怯えている。

「グラーフ代官は、どのような統治を」

 フリードリヒに尋ねると、老執事は一瞬だけ目を伏せた。

「税を三倍に引き上げ、備蓄の穀物も接収なさいました。集めた財をもって、半年前に夜逃げ同然で。領民には何も残りませんでした」

 三倍。辺境の寒村から、三倍の税を搾り取ったのか。道理で畑が荒れている。種籾すら残っていないのだろう。冬を越せたこと自体が奇跡に近い。

「――村長はどちらに」

「あちらの家に。ただ、お会いになるかどうか……」

 フリードリヒの言葉を待たず、足を向けた。村長は初老の男で、私を見るなり吐き捨てるように言った。

「王都からまた搾りに来たか。もう出すものなどない」

「搾りには参りません」

「前の代官も最初はそう言った」

 返す言葉がなかった。信頼は言葉では買えない。まして、前任者が信頼を根こそぎ踏みにじった後では。私はただ「時間をいただきます」とだけ告げて、踵を返した。村長の背後で、幼い女の子がこちらを窺っていた。母親に似たのか、大きな目をしている。あの目に映る私は、どんな姿をしているのだろう。綺麗な旅装に身を包んだ、この村には何の縁もない余所者。それだけだ。

 屋敷に戻ったのは、日が完全に落ちてからだった。

 エルザが用意してくれた夕食は、硬いパンと薄い野菜の煮込みだった。二人分にも足りないほどの量を、三人で分けたのだろうことは想像がついた。私は何も言わず、匙を手に取った。パンを煮込みに浸すと、かろうじて歯が立つ程度には柔らかくなった。味はほとんどない。塩すら満足に使えないのだ。

 大きな食堂に、私一人。燭台の灯りが一本だけ揺れている。王宮の晩餐会では、銀の燭台が十二本並び、七皿のコース料理が供され、楽師の演奏が流れていた。殿下の隣で微笑みながら、鶉のローストをいただいていた。

 もうあの場所にはいない。あの灯りも、あの音楽も、あの料理も、もう私のものではない。

 匙が、止まった。

 震えてなどいない。手は動かない。ただ止まっているだけだ。煮込みの水面に映る自分の顔が、燭台の揺れに合わせて歪む。あの大広間で保った仮面は、もうどこにもない。馬車の中でも泣かなかった。九日間の旅路でも泣かなかった。

 でも、この薄い煮込みの湯気の向こうに、あの子供の肋骨が見える。村長の敵意が聞こえる。崩れた屋根が見える。私にはこの土地を救う術がない。公爵家で学んだのは、社交と作法と政治の駆け引きだ。痩せた土を耕す方法など、誰も教えてくれなかった。

 一粒、落ちた。

 煮込みの水面に小さな波紋が広がった。続けて、もう一粒。止められなかった。声は出さない。嗚咽も漏らさない。ただ、目から雫が伝い、顎を伝い、匙を持つ手の甲に落ちた。公爵令嬢リーゼロッテが、誰にも見せたことのない顔で、音もなく泣いた。

 あの子供たちを、私は守れるのだろうか。あの敵意の目を、信頼に変えられるのだろうか。

 わからない。何もわからない。

 どれくらいそうしていたのか。涙が枯れた頃、不意に、頭の奥で何かが弾けた。

 痛い。

 こめかみを貫くような激痛が走り、匙が卓に落ちた。金属が石の床を叩く甲高い音が、遠くで鳴っているように聞こえる。視界が白く明滅し、脳の奥を万力で締め上げられるような圧迫感。知っている痛みではなかった。頭痛などという生やさしいものではない。頭蓋の内側から、何かが溢れ出そうとしている。

 椅子から崩れ落ちた。冷たい石の床が頬に触れる。膝が硬い石畳を打ち、鈍い痛みが走ったが、頭の中の激流に比べれば何でもなかった。視界の端で、燭台の炎が長く伸び――消えた。

 最後に聞こえたのは、遠い遠い場所から響く、誰かの声だった。

 知らない言葉。知らない記憶。知らない人生の残響が、意識の底に沈んでいく私の脳裏を、激流のように駆け抜けていった。

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