第1話
第1話
「アンナリーゼ嬢――いえ、リーゼロッテ嬢」
王太子アルベルトの声が、大広間の天井に跳ね返った。わざわざ言い直してみせたのは、婚約者としての愛称をもう使うつもりがないという意思表示だろう。私は扇を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。象牙の骨組みが、かすかに軋んだ。それほど強く握りしめていたことに、自分で驚いた。
「私はあなたとの婚約を破棄する」
シャンデリアの灯りが揺れた――ように見えたのは、きっと私の目眩のせいだ。大広間には百人を超える貴族たちが居並んでいる。春の叙勲式典という、王国でも指折りの公式の場。磨き上げられた大理石の床に、何百もの靴音が刻まれてきたこの由緒ある広間。その壇上で、王太子は婚約破棄を宣告した。
周囲がざわめく。扇の陰でささやく声、好奇に光る瞳、そして露骨に向けられる哀れみの視線。衣擦れの音すら耳に痛い。隣席のどこかで、誰かが息を呑んだ気配がした。それらすべてが肌を刺すように感じられたけれど、私は背筋を伸ばしたまま微動だにしなかった。
公爵家の令嬢として十六年間、徹底的に叩き込まれたものがある。どのような局面でも、感情を表に出してはならない。崩れるのは一人きりのときだけ――母の教えが、今この瞬間、私の膝を支えていた。母が病床でなお繰り返したあの言葉。「背筋が折れなければ、心も折れません」。今の私には、それだけが頼りだった。
「理由をお聞かせいただけますか、殿下」
自分でも驚くほど、声は凪いでいた。舌の裏側が渇いて上顎に張りつきそうだったけれど、それを悟らせる隙は与えなかった。
アルベルト殿下は一瞬だけ眉を動かし、それから用意していた台詞を読み上げるように言った。視線は私の額のあたりに固定されている。目を合わせないのは、後ろめたさか、あるいはただの無関心か。
「辺境伯領の管理に適任の者が必要だ。あの地は長く放置され、民は困窮している。貴女の才覚をもって治めてほしい」
才覚。美辞を纏わせているが、要するに体のいい左遷である。辺境伯領――王都から馬車で七日もかかる北の果て、貴族たちが「捨て地」と呼んで蔑む土地。冬は半年続き、実りは乏しく、匪賊の噂が絶えないと聞く。そこへ私を送るという。
殿下の傍らに、見知らぬ令嬢が控えていた。淡い金髪に花のような微笑み。男爵家の出と聞いている。名はたしか、シャルロッテ。その細い指が殿下の袖にそっと触れているのを、私は見逃さなかった。触れ方に迷いがない。あれは今日初めて隣に立った者の手つきではなかった。
ああ、そういうことか。
理由は辺境の統治などではない。新しい花を傍に置くために、古い花を遠ざけたいだけだ。政略も打算も絡んでいるのだろうけれど、煎じ詰めればそれだけのこと。胸の奥で何かが音を立てて凍りついた。怒りですらない。ただ、理解した。それだけだった。
「――承知いたしました」
私は深く息を吸い、完璧な角度で礼をとった。膝を折り、スカートの裾を正確に揃え、頭を下げる。何百回と練習した動作が、今ほど役に立ったことはない。視界の端で、大理石の床に映る自分の影が小さく揺れた。
「辺境の地でお役に立てるのであれば、喜んでお受けいたします。殿下の長きにわたるご厚誼に、心より感謝申し上げます」
顔を上げたとき、微笑みさえ浮かべてみせた。唇の端を持ち上げるだけの、社交の場で何千回と使い古した仮面。けれど今夜ほど、この仮面が重く感じられたことはなかった。頬の筋肉が引き攣りそうになるのを、奥歯を噛み締めることで抑えた。
大広間が静まり返った。誰もが次の展開――涙か、懇願か、あるいは怒りの叫びを期待していたのだろう。その期待を裏切る静謐さに、何人かが居心地悪そうに視線を逸らした。最前列の伯爵夫人が、扇で口元を隠しながら隣に何か耳打ちしている。あの口の動きは、きっと「可哀想に」だ。可哀想。その言葉が、刃よりもずっと深く刺さることを、あの婦人は知らないだろう。
父上の姿を探した。大広間の右手奥、公爵家の席にいるはずだった。けれど、そこは空席だった。銀の食器が整然と並んだままの、主のいない席。知っていたのだ。いいえ、おそらく事前に承諾していたのだろう。公爵家にとっても、辺境伯領の管理権を得ることは損ではない。娘一人を差し出す代価として。
胸の奥が冷たくなった。悲しみではない。悲しむには、もう少し何かを期待していなければならない。これは――諦念だ。十六年かけて築いた「王太子妃候補」という人生が、今夜、音もなく崩れた。積み上げてきた作法の稽古も、政治の勉強も、殿下の好みに合わせた会話の練習も。すべてが砂の城だったのだと、波に攫われてようやく気づいた。
ふと、視界の端に銀色が映った。
大広間の柱の陰、貴族たちの輪からわずかに離れた場所に、一人の青年が立っていた。銀髪を無造作に束ね、礼装の上からでもわかる鍛え上げられた体躯。北方辺境を治める若き領主――ヴェルナー辺境伯だと、記憶の片隅が告げた。社交の場ではほとんど言葉を交わしたことがない。ただ、武勲の噂は何度か耳にしている。北の蛮族を退けたとか、雪崩から村を救ったとか、どこまで真実かはわからないが。
彼の右手が、強く握りしめられていた。
拳の力は明らかに尋常ではなく、白い手袋の下で骨が浮き上がるほどだった。その表情は――怒り、だろうか。いや、読み取れない。ただ、あの灰青色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。哀れみでも嘲りでもない、別の何かを宿して。この広間で百を超える視線を浴びながら、なぜかその一つだけが、温度を持っているように感じられた。
一瞬だけ視線が交わり、すぐに逸れた。今の私に、他人の感情を気にかける余裕はない。
「では、失礼いたします」
最後にもう一度、完璧な礼をとる。踵を返し、大広間の扉へ向かう。長い回廊のような距離を、私は一歩ずつ踏みしめて歩いた。背中に無数の視線を感じる。足を速めてはならない。逃げるように見えてはならない。靴底が大理石を叩く音が、静まった広間に規則正しく響いた。一歩、また一歩。永遠のように長い、五十歩ほどの距離。公爵令嬢リーゼロッテは、最後の最後まで崩れなかった。
その背中が、どれほどの力で支えられていたかは、誰にもわからなかっただろう。
扉が閉まった。
分厚い樫の扉が背後で噛み合った瞬間、大広間のざわめきが遠のいた。回廊の燭台が、橙色の光をぼんやりと投げかけている。石壁に揺れる自分の影が、やけに頼りなく見えた。使用人が用意した馬車が、正面玄関に待っているはずだった。私は足を速め――いや、もうその必要すらない。誰も見ていない。
廊下の冷たい空気が、火照った頬に触れた。春とはいえ、夜の王宮は底冷えする。大広間の熱気と香水の匂いから切り離された途端、自分の体温がどれほど上がっていたかを思い知った。
馬車に乗り込み、扉を閉めた瞬間、世界が途切れた。
静寂。御者の声と車輪の軋みだけが、遠い世界の音のように響く。革張りの座席が軋み、馬の蹄鉄が石畳を叩く振動が、座面を通して伝わってくる。大広間の灯り、シャンデリアの煌めき、殿下の冷たい声、シャルロッテ嬢の花のような微笑み、父上の空席――すべてが一気に押し寄せてきて、呼吸が浅くなった。
膝の上に置いた手が、震えていた。
止められない。社交の仮面を外した途端、身体が正直になった。指先から肩まで、細かな震えが走る。泣いてはいない。涙は出なかった。けれど、両手は止まらなかった。十六年間のすべてが指先に集まって、行き場を失って、ただ震えている。
馬車の窓から、王都の夜景が流れていく。石造りの街並み、酒場から漏れる笑い声、橋の欄干に灯る魔石灯の青白い光。この景色を見るのも、もう最後かもしれない。やがてこの灯りも遠ざかり、街道は暗くなり、七日の旅路の果てに「捨て地」が待っている。
荒れた屋敷。痩せた大地。飢えた民。
何が待っているのか、想像するだけで息が詰まる。けれど――不思議なことに、恐怖の底に、かすかな別の感情が混じっていた。
あの大広間に、もう戻らなくていい。
殿下の隣で微笑み続けなくていい。王太子妃にふさわしい言動を、毎瞬、毎瞬、計算しなくていい。誰の期待にも応えなくていい。誰の視線も量らなくていい。
それは自由と呼ぶには苦すぎたけれど、鎖が外れた手首の軽さに似た何かが、たしかにあった。
震える手を、もう片方の手で包み込んだ。窓の外は、もう王都の城壁を抜けていた。街灯の途切れた闇の中、北へ続く街道だけが、月明かりに白く浮かんでいる。
その道の先に何があるのか、私にはまだわからなかった。