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処刑令嬢は黒衣の辺境で牙を研ぐ

第3話 第3話

第3話

第3話

吹雪の唸りは、夜が更けるほどに厚みを増していった。鷹爪城西の塔、円窓の格子の向こうで乳白の渦が幾度も身を捩り、そのたびに古い梁が低く軋みを返す。エルネスタは長椅子の背に身を預けたまま、いつのまにか運ばれていた毛織の肩掛けの縁を、指先でそっと握りしめていた。起毛の目は粗く、頬に触れれば羊の匂いがほんのりと立ち昇る。都の絹とは似ても似つかぬ、泥臭いほどに実直な織物であった。

 老いた下女が音もなく現れ、湯気の立つ銅盥と、簡素な麻の衣、それに黒パンと薄い葡萄酒を載せた盆を置いていった。年の頃は知れぬ。白い髪を後ろで一つに束ね、皺の刻まれた眦はただ静かで、憐憫も好奇も湛えていない。「辺境伯様のお申し付けにございます」とだけ告げ、深くも浅くもない礼をして退いていく。その背が扉の向こうへ消えるまで、エルネスタは一言も返せぬままであった。都の屋敷では、下女の一人にさえ気の利いた礼を返す程度の余裕はあったはずなのに、今はただ、己の喉から声を絞り出す術さえ思い出せずにいる。

 盥の湯は、辺境の井戸水を沸かしたものらしく、湯気の奥にほのかな鉄の香が漂っていた。血の滲んだ踵を浸せば、皮膚の傷口に鋭い痛みが走り、それがかえって「此処にある体」の輪郭を、はっきりと描き出してくれた。薄絹を脱ぎ、麻の衣に袖を通す。粗い繊維が項を擦ると、ひやりとした刺激のあとに、妙に落ち着いた温もりが広がった。公爵令嬢が身につけるべき絹でも天鵞絨でもない、名もなき辺境の民の夜着。それが、今の自分にはなぜか、よほど相応しく思えた。

 暖炉の前へ促したのは、再び戻ってきたヴァルドの、言葉ではなく視線であった。黒い外套は脱がれておらず、ただ頭巾だけが肩に落とされている。燭の灯が、初めてその横顔を淡く照らし出した。三十路を幾つか越えたであろう齢、削ぎ落とされた頬、左の眉尻を縦に割る細い古傷。辺境の氷雪と、戦の火の粉と、その両方を等分に浴びた者の顔であった。

 薪が爆ぜ、橙の火の粉が一つ、石の炉床に散って消える。

 エルネスタは暖炉の前の、粗削りの木の椅子に腰を下ろした。足裏に伝う板の間の冷たさと、正面から押し寄せる炎の熱とが、ちょうど背骨の真ん中でせめぎ合い、そこから全身へ、生きている証の鼓動が改めて染み渡っていく。ヴァルドは向かいの低い卓に、黒パンを割った欠けらと、焙った羊の乾肉を無造作に押しやった。食えということらしい。

「都の卓とは比べものになるまい」

 初めて、男の側から口を開いた。揶揄でも詫びでもない、ただの事実としての述べ方であった。

「──いいえ」

 掠れた声で、エルネスタはかぶりを振った。指先で千切った黒パンの欠片は、噛めば酸い発酵の味と、麦の芯の素朴な甘みが同時に舌へ広がった。涙が再び滲みそうになるのを、今度は奥歯で噛み殺す。処刑台へ引かれる朝、最後に口にしたのは水ですらなかった。ひと欠片の黒パンが、これほどまでに腹の底へ温かく落ちていくものだとは、十八年の贅沢な食卓では、ついぞ知らずにいたのだ。

「ヴァルド殿」

 葡萄酒の椀を唇で湿らせてから、彼女は顔を上げた。先刻、問いきれぬままに宙へ投げ出した言葉の続きを、ようやく口に乗せられる心地がした。炎の照り返しに、男の灰色の瞳が鈍く光っている。逃げも急かしもせぬ、ただ「聞く」とだけ決めた眼差しであった。

「なにゆえ、私の無実を、ご存じなのでございますか」

 問いは、細い糸のように、薪の爆ぜる音の合間に滑り込んでいった。

 ヴァルドはすぐには答えず、暖炉の火を一度見遣った。炎の照り返しが、古傷のある頬に赤く揺れる。やがて、ごく短く、噛みしめるように告げた。

「お前の筆跡を、俺は知っている」

 思いがけぬ答えであった。

「……筆跡、を」

「王太子への毒殺未遂の『自白書』。異国との内通を裏づけるという『書簡』。いずれも辺境まで写しが流れてきた。お前の名で書かれたあの文字は、お前の手ではない。右に流れる払いの角度も、数字の七の跨ぎも、まるで違う」

 男の声は淡々として、感情の震えは無い。ただ、その淡々さの底に、何か鋭利に磨き上げられた怒りの芯が沈んでいるのを、エルネスタの耳は確かに聞き取った。

「いつぞや、社交の夜に、お前が寄進帳へ名を記したのを、俺は背後から見ていた。あの一夜の筆の運びを、覚えていただけだ」

 覚えていた──たった一度、燭台の陰で交わした天候の会話の、その後ろ姿で見ていた寄進帳の一行を。エルネスタは息を呑んだ。宮廷の誰一人、己の筆の癖になど関心を払わなかった。継母すら、義妹すら、婚約者であったはずの王太子すら。それを、辺境の禁忌の魔術師が、ただの一度の邂逅から、正しく覚えていたというのか。

「王家の手は、此処までは届かぬ」

 ヴァルドは、先刻と同じ一文を、別の温度で繰り返した。

「だから、此処に居ろ。少なくとも、お前が己の足で立ち直るまでは。追っ手は俺が阻む。お前の首にかけられた懸賞は、辺境の雪が呑む」

 なぜ、そこまで。──問いは、喉の奥で一度だけ波打ち、そして沈んだ。男が「追々」と言った以上、今は追うまい。ただ、己の生のために差し伸べられた手を、まずは握り返さねばならぬ。握り返す資格が己にあるのかを、他でもない己自身に問うために。

 エルネスタは、麻の衣の膝の上で、両の手をそっと重ねた。指の骨が、まだ細かく震えている。その震えを、彼女は隠さなかった。

「ヴァルド殿。一つだけ、お答えくださいませ」

 炎がまた一つ爆ぜた。

「私は──生きていて、よろしいのでしょうか」

 口にした途端、己の問いの幼さに、頬が熱くなった。けれど、この問いを通さねば先へは進めぬことを、彼女自身が誰より知っていた。処刑台の上で絶たれたはずの命が、なぜ今、黒パンを噛み、葡萄酒を啜り、暖炉の熱に頬を焙られているのか。その意味を、己の外側から一度、誰かに言い切ってもらわねば、再び立ち上がる脚が萎えてしまいそうであった。

 ヴァルドは、ふ、と息のような短い音を漏らした。笑ったのかもしれぬ。呆れたのかもしれぬ。

「生きていてよいかを、俺に問うな」

 低い声が、薪の爆ぜる音の奥から返ってきた。

「生きていて『何を為すか』を、己に問え。答えが出た時、お前はもう、誰の許しも要らぬ」

 その一言は、慰めの形を一切とらなかった。にもかかわらず、エルネスタの胸の奥に、長年凍りついていた泉の蓋が、静かに一枚、剥がれ落ちる音がした。

 ──何を為すか。

 炎を見つめる眼の裏に、広場の朝が再び甦った。継母の扇、義妹の白手巾、王太子の退屈そうな指先。国が腐り落ちていく二度目の記憶の頁、炎に舐められる麦畑、石畳に蹲る子ら。そして、ただ一枚、克明に浮かぶ顔──宮廷書記官ゼフィロ。偽の自白書に最後の封蝋を押した、あの痩せた男の、乾いた笑い方まで。

 指の震えが、止まっていた。

 エルネスタは黒パンの最後のひと欠片を口へ運び、ゆっくりと噛み下した。麦の甘みが、今度ははっきりと舌の奥で輪郭を持った。葡萄酒を一口含み、喉を落ちていく冷たさを数えるように味わう。それから、己の膝の上で重ねた両の掌を、一度、ぎゅ、と握りしめた。

「……ヴァルド殿。図々しき願いを、一つ」

 男の眉が、微かに上がる。

「この城に、しばしの宿を」

 声は、もう掠れていなかった。

「そして、いずれ──私に、戦う術を、ご教示くださいまし。剣の技ではございませぬ。紙と、数字と、言葉で、あの方々を墜とす術を」

 ヴァルドは答えなかった。ただ、灰色の瞳の底で、凪いだ湖の水面が、ひととき細かに波立ったように見えた。やがて男は、ゆるりと暖炉へ向き直り、薪を一本、炎の奥へ押し込んだ。赤い火の粉が、円窓の黒い夜の中へ、ちらりと舞い上がっては消える。

 その背に向かって、エルネスタは深く頭を垂れた。麻の衣の襟元から、項にまた一筋、細かい粟が立つ。けれど、先刻までの震えとは、もはや別の質のものであった。

 円窓の外、吹雪はまだ終わらぬ。鷹爪城の胸壁を、風は低く揺すり続けている。その唸りの奥に、遠く一度、鷹ではない、もっと細い羽音が混じったような気がして、ヴァルドがふと、窓の方へ眼を遣った。黒衣の肩が、わずかに強張ったのを、エルネスタは見逃さなかった。男の右の手首が、またしても、古傷を確かめるように軽く押さえられる。

 ──此度の道は、此処から始まる。

 二度目の生の最初の夜は、こうして、辺境の暖炉の前で、静かに更けていった。自分が生き直して「何を為すか」。その答えの最初の一片を、彼女はすでに、胸の底で黒い封蝋のごとく押し固めつつあった。

 そして、明けの鐘も鳴らぬ辺境の闇の中で、彼女はまだ知らずにいる。己の震える指が、やがて一枚の紙の上で、どれほどの頁を書き起こすことになるのかを。

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