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時戻し令嬢と最強の騎士

第3話 第3話

第3話

第3話

車輪の音が、玄関前の砂利を噛んで止まった。  わたくしは窓辺に寄り、カーテンの縁をほんの少しだけ持ち上げる。朝の光がまだ淡く敷き詰められた前庭に、見慣れない黒塗りの馬車が一台、静かに停められていた。紋章は――知らない。いいえ、正確には、知っている、けれど、ここで見るはずのない紋章。遠い北の辺境伯家の、銀の狼。あの家の紋が、なぜ。  胸の奥で、小さな予感がもう一度、翼をはばたかせた。  扉の向こうで、マリアが小走りに通り過ぎる気配がする。「お嬢様、旦那様がお呼びです」――そう告げられるのは、きっと、あと数分のことだろう。わたくしはゆっくりと鏡台の前に戻り、寝間着の上に朝用のガウンを羽織った。髪は、結い上げずに半分だけ緩く編む。三ヶ月後のわたくしなら、こんな中途半端な身なりで父様の前に出ることは決してしなかった。けれど今朝のわたくしは、淑女の作法よりも、まず、自分の足で歩いていきたかった。 「お嬢様」  扉が叩かれる。マリアの声は、先ほどよりもわずかに張り詰めていた。 「旦那様が、応接間にお越しくださいとのことでございます。お客様が、お嬢様にも会いたいと仰せで」  わたくしは、小さく息を吸った。 「……すぐに参ります」  扉を開けると、マリアは何か言いかけて、わたくしの髪と、ガウンの裾を見て、口を閉じた。問わないでいてくれるのが、ありがたかった。廊下の絨毯を踏みしめるたび、足の裏が、昨夜と今朝のあいだに落ちた深い溝をなぞっていく。  応接間の扉の前で、わたくしは一度だけ、目を閉じた。  知っている三ヶ月の、どこにも存在しなかった来客。これから起きることは、前世のわたくしの誰も知らないことだ。  扉が、開く。

 窓から差し込む朝の光が、部屋の中央にいる人物の輪郭を白く縁取っていた。  父様は長椅子に浅く腰かけ、いつもの赤茶色のガウンの襟元を几帳面に正している。その向かいに立っていたのは、背の高い、若い男だった。  まず目を奪われたのは、髪だった。  銀。いいえ、白に近い、けれどほんのわずかに青みを帯びた銀。肩のあたりで無造作に束ねられたその髪は、朝の光を受けて、細い糸の一本一本までが透き通って見えた。北の氷の森にだけ咲くという、名前も知らない花の色に似ている、と、わたくしは脈絡もなく思った。  旅装の外套には、遠い路を来た者特有の埃がうっすらと乗っている。その埃さえ、彼の纏う気配を乱さなかった。剣を佩いている。細身の、飾り気のない、実用のためだけに磨き上げられた剣を。 「――セリア」  父様の声に、わたくしは我に返った。 「来たな。――紹介しよう。リュカ・アルヴェイン殿だ」  その名前を聞いた瞬間、わたくしの膝が、ほんの少しだけ笑った。  リュカ・アルヴェイン。  知っている。ええ、知っている。前世のわたくしが――殿下に捨てられたあとの三ヶ月後のわたくしが、噂だけを遠くで聞いていた名前。大陸最強の剣士。わずか二十二の若さで、北の辺境伯家の次男でありながら、武勲によって独立した騎士団をひとつ束ねていた男。わたくしの知る前世では、彼はついにこの王都の社交界に姿を現すことはなかったはずだ。遠すぎて、あまりに遠すぎて、物語の登場人物のように聞こえていた名前。  その男が、いま、父様の応接間の絨毯の上に立っている。  暖炉の火はまだ入れられていないのに、部屋の空気は不思議と重く、わたくしの耳の奥で、自分の鼓動がやけに大きく響いていた。朝の蜜のような光の中で、銀の髪と、藍色の外套と、父様のガウンの赤茶色だけが、妙に鮮やかに切り取られて見える。 「リュカ殿」  父様が、少しだけ誇らしげに目を細めた。その声の端に、わたくしの知らない緊張がほんのひと筋、混じっていた。 「此度の縁、まことに、重ねて感謝する。――セリア、聞いてくれ。リュカ殿は、この家の婿養子候補として、父が北の辺境伯殿にお願いして、遣わしていただいた」  わたくしは、返事ができなかった。  婿養子、という単語が、頭の中でひとつの形に結ばれるまでに、不思議なほど時間がかかった。父様が、なぜ、いま。殿下との婚約は、まだ解消されていない。三ヶ月後にあの夜会が来るまで、表向きは、わたくしはまだ王太子妃候補のままのはずだった。  父様は、わたくしの表情を見て、少しだけ声を落とした。襟元に添えられた指が、ほんのわずかに、ふるえているように見えた。 「……最近の殿下のご様子について、父にも、思うところがある」  たった一言だった。けれど、その一言で、わたくしは理解してしまった。前世のわたくしが気づかなかっただけで、父様はもう、何かに気づいていた。気づきながら、わたくしには言えずにいたのだ。家の名誉と、娘の体面と、その奥のどこかに隠した、たったひとつの願いのために。  ああ、父様。わたくしは、胸の奥で、声にならない声を落とした。あなたは、いつから、娘のために、眠れぬ夜を数えていたのですか。鏡の前で、何度、その赤茶色のガウンの襟を正し直したのですか。わたくしが殿下のお側で微笑んでいた裏側で、あなたはひとり、北の地図を広げていたのですか。  リュカ・アルヴェイン――と呼ばれた男が、わずかに身じろぎをした。旅装の裾が、かすかな衣擦れの音を立てる。

 彼が、わたくしの方へ、ゆっくりと向き直る。  そして、次の瞬間、わたくしは息を呑んだ。  彼は、片膝をついたのだ。  応接間の絨毯の上、朝の光のただ中に、大陸最強と呼ばれた剣士が、旅装のまま、片膝を折った。背筋はまっすぐで、頭は下げられてはいなかった。ただ、わたくしの目の高さよりも、ほんの少しだけ、彼の目の方が低くなるように。淑女を見上げる角度に、彼は自らの身を置いた。絨毯の毛並みが、彼の膝の下で、ほんのわずかに沈むのが見えた。  藍色の瞳だった。  深い、夜明け前の海のような色。その瞳が、まっすぐにわたくしを見ていた。 「――セリア・ローウェル嬢」  声は、思ったよりも静かだった。けれど、ひとつひとつの音が、奇妙なほどはっきりと、わたくしの耳の奥に届いた。低く、渇いた土にしみ込む雨のような声、と、わたくしは場違いなほど鮮明に思った。 「お初に、お目にかかります」  お初に、のところで、彼の瞳がわずかに揺れた気がした。ほんの、まばたき一つぶんの、揺らぎ。わたくしの気のせいだったかもしれない。けれど、そのあとに続いた言葉は、わたくしを、本当に立ち尽くさせた。 「この命に代えて、誓います。――この先、あなたを、二度と、泣かせません」  空気が、止まった。  父様が、何か言いかけて、言葉を飲み込むのが視界の端でわかった。リュカ殿、それは、と父様が小さく呟く声さえ、どこか遠くで鳴っている。窓の桟にとまった雀の羽ばたきの音さえ、やけに大きく聞こえた。  二度と、泣かせません。  ――二度と、と、彼は言った。  初対面の令嬢に向かって、ふつう、人は「二度と」とは言わない。「決して」「生涯」ならばわかる。けれど「二度と」という言葉は、すでに一度、泣かせた者だけが口にできる言葉ではないのか。あるいは――すでに誰かが泣いたことを、知っている者だけが。  わたくしの頬に、昨夜の涙の熱が、一瞬だけ蘇った。馬車の中で、誰にも見せず、誰にも届かなかったはずのあの涙。三ヶ月後の夜、絹のドレスをぐしゃぐしゃに握りしめて、生まれて初めて自分のために泣いた、あの夜。頬を伝った塩辛さも、歯を食いしばったときの奥歯の軋みも、わたくしひとりの記憶のはずだった。  知るはずが、ない。  知るはずがないのに、なぜ、この人の「二度と」は、こんなにも、わたくしの胸の正しい場所を叩くのだろう。まるで、鍵穴にぴたりと噛み合った鍵のように。まるで、長いあいだ、この一言を言うためだけに、彼がどこか遠い場所で息を詰めていたかのように。 「……どうぞ」  わたくしは、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。喉の奥で、昨夜の砂のような渇きは、もうどこにも見当たらなかった。そのかわりに、温かな小さな湖が、ひとつ、静かに満ちていくのを感じた。 「どうぞ、お立ちくださいませ。――お顔を、よく、見せてくださいまし」  リュカ・アルヴェインは、ゆっくりと立ち上がった。藍色の瞳は、わたくしから一度も逸れなかった。その視線の奥に、何か、わたくしの知らない重さが沈んでいた。長い路を、たったひとりで歩いてきた者の目だった。幾つもの夜を、星だけを頼りに越えてきた者の目だった。  父様が小さく咳払いをして、「――詳しい話は、改めて」と告げた。わたくしは、頷いた。けれど、頷きながら、わたくしの指先は、ガウンの裾をそっと握りしめていた。爪の先まで、妙に冷たく、それでいて、生きている、と感じた。  返してもらった時間に、わたくしの知らない札が、一枚、滑り込んでいた。  この人が、いったい、どこから来たのか。なぜ、父様は、あの夜会の三ヶ月も前に、北の辺境伯家にまで頼み込んでいたのか。そして――この「二度と」は、誰の涙のことなのか。  応接間の窓の向こうで、雀がもう一度、短く鳴いた。朝の光は、さっきよりも少しだけ濃くなって、リュカ・アルヴェインの銀の髪を、淡く縁取っていた。  わたくしは、まだ、この人の名前の響きに慣れていない。  けれど、そのことが、今朝のわたくしには、なぜか、ひどく心強く感じられた。

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