第1話
第1話
羊皮紙の山が崩れた音で、レオンは顔を上げた。
夜明け前の王立魔術学院、第三実験棟。窓の外はまだ藍色で、石造りの廊下には誰の足音もない。壁掛けの魔導灯は芯が細り、琥珀色の光が机の端をぼんやりと照らすだけだ。暖炉は昨夜のうちに落ち、部屋の隅には冬の冷気がわだかまっている。床にぶちまけられたのは、昨日の実験データと、未整理の試薬帳簿と、兄が「ついでに写しておけ」と置いていった術式草案の束だった。インクの匂い、乾いた羊皮紙の匂い、そしてかすかに鉄錆びた魔力の残り香。どれもレオンにとっては、朝より先に彼を起こす目覚ましのようなものだった。
レオンは舌打ちひとつせず、片膝をついて紙片を拾い集める。十六歳。痩せた肩、伸びすぎた前髪、継ぎ当ての目立つ灰色のローブ。袖口は擦り切れ、裾にはインクの染みがいくつも重なっている。学院の誰もが知る落ちこぼれの姿だ。膝の下で冷えた石床が骨まで痺れさせ、指先はかじかんで思うように動かない。それでも彼は、一枚一枚の紙を番号順に整え、折れ目を丁寧に伸ばしてから束ねていく。兄が戻ってきたとき、一言も叱責の口実を与えないために。
「……また、こぼれてる」
指先が、ひとつの小瓶に触れた。封蝋が割れかけている。中身は青藍色の魔力試薬──触媒が反応すれば、この階ごと吹き飛ぶ代物だ。瓶の腹に結露が浮き、指先に小さな冷たさが貼り付く。ガラスの向こうで、液体がかすかに波打ち、小さな気泡がひとつ、またひとつと浮いては消えた。臨界の兆しだ。
レオンは息を止めた。心臓が一度、強く胸を叩く。耳の奥で、自分の鼓動がやけに大きく響く。
右手をかざす。詠唱はしない。ただ、胸の奥でいつも燻っている熱を、ほんの一滴だけ滲ませる。青藍の液体がふわりと震え、割れかけた封蝋の亀裂が、内側から静かに塞がった。元通り。何事もなかったように。熱はすぐに引っ込み、指先にはほんのわずかな痺れだけが残る。額にうっすら浮いた汗を、袖口で拭った。
レオンは小瓶を棚に戻し、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……今日も、誰も死なない」
それが、この学院での彼の仕事だった。誰にも頼まれていない、誰にも気づかれない仕事。記録には残らない。感謝もされない。けれど、もしこの手を止めたら、今日のうちに誰かが死ぬ。その確信だけが、彼を毎朝この部屋へ引き戻していた。
扉が乱暴に開いたのは、朝の鐘が鳴る少し前だった。蝶番が軋み、冷たい風が一気に流れ込む。魔導灯の炎がぐらりと揺れ、壁に映った影が大きく歪んだ。
「おい、落ちこぼれ。まだこんなとこにいるのか」
研究班の同級生たちだ。先頭に立つのはカイル。兄の取り巻きで、顔の造作は整っているが目の奥が冷たい。腰に下げた銀の徽章が、安っぽい光を反射している。
「兄さんの演習が一限だぞ。道具の準備、誰がやると思ってる」
「……すぐ行く」
「『すぐ』じゃねえよ。お前がもたつくと、俺たちの実技評価まで下がる。わかってんのか、無能」
笑い声が廊下に散った。石壁に跳ね返って、実際の人数より多く聞こえる。レオンは俯いたまま、謝罪を口にしかけて、やめた。喉の奥で言葉が一度固まり、息と一緒に押し戻される。代わりに、棚の上の試薬帳簿を小脇に抱え、足早に廊下を抜ける。
反論はしない。昔からそうだ。言い返せば、孤立する。孤立すれば、居場所がなくなる。居場所がなくなれば、この学院にいる理由そのものが消える。
──兄さんの、弟でいる理由が。
その一言を胸の内で繰り返すたび、足の裏から冷たいものが這い上がってくる。
中庭に出ると、薄い霜が敷石を覆っていた。息が白い。噴水の縁には細い氷が張り、朝の最初の光がそこに一筋だけ金色を落としている。井戸端で顔を洗っていた数人の学生が、レオンを見て目配せし、露骨に道を空ける。疫病神でも通すような空け方だった。誰も声をかけない。誰も目を合わせない。それは憎しみよりも、無関心よりも、もっと静かで深い拒絶だった。
それでも、レオンは顔を上げて歩いた。胸の奥の熱が、誰にも触れられないまま、静かに脈打っている。
第一演習場では、兄のエリクがすでに講義を始めていた。
二十歳。金髪を短く整え、白銀の縁取りが入った上級ローブ。学院史上最年少での上級研究員昇格。教官たちは彼を「次代の至宝」と呼ぶ。演習場の高い天井からは陽光を模した魔導光が降り、その肩の銀刺繍を眩しく照らしていた。
「──よって、この新術式における魔力回路の三層構造は、従来の常識を覆すものだ。制御の鍵は、第二層における位相反転にある」
朗々と響く声。学生たちは筆を走らせ、教官席の老人までが深く頷いている。羽ペンが紙を掻く音が、さざ波のように広がる。
レオンは演習場の隅、道具置き場の陰で、その光景を見ていた。木箱の冷たさが腰に伝わる。爪の間に乾いたインクが挟まっているのが、急に恥ずかしく思えた。
──第二層の位相反転。
それは、レオンが三年前、古い書庫で偶然見つけた断片から組み上げた理論だった。夜ごと蝋燭を灯し、指先をインクで黒く染めながら書き留めた。ノートに書き留め、兄に見せて意見を求めた。あのとき、兄の指がページを撫でた感触を、今でも覚えている。長い指だった。ページの端を一度だけ、愛おしむように押さえた指だった。兄は「面白い落書きだな」と笑って、返さなかった。
返さなかった理論が、今、兄の口から流れている。一言一句、同じだ。句読点の位置まで、同じだ。呼吸の置き方、比喩の順番、例示の選び方──全部、あの夜レオンが眠い目をこすりながら選び抜いたものだった。
胸の奥の熱が、ほんの一度だけ、波打った。喉の奥が苦くなる。怒りとも哀しみともつかない、名前のない感情が、舌の裏にじわりと広がる。握りしめた拳の中で、爪が手のひらに食い込んだ。
「レオン」
呼ばれて振り返る。長い黒髪を緩く結った少女──ミラ。幼馴染で、レオンがかつて想いを寄せていた相手だ。今は兄の助手を務めている。胸元には、レオンの持たない上級研究補佐の徽章。
「これ、学長室から。あなた宛て」
差し出された封筒は、紫のインクで封がされていた。学院長印。年次審査の召集状。紙は厚く、指先にひやりと重い。
本来、落ちこぼれには届かない書状だった。
「……なんで、僕に」
「わからない。でも、正式なものよ」
ミラの声は淡々としていて、かつて笑いかけてくれた頃の響きはどこにもなかった。昔、雪の日に手袋を分け合った記憶が、一瞬だけ頭をよぎる。あのとき彼女の指先は小さく震えていて、レオンの手のひらの熱をありがたがってくれた。彼女の視線が、一瞬だけレオンの顔をかすめ、すぐに兄の背中へと戻っていく。
──ああ。もう、戻らないんだな。
レオンは封蝋を割った。ぱきり、と乾いた音。薄い紙片が一枚。文面は短い。
《第七等学生レオン。明朝、年次審査会への出頭を命ず。審査事項──魔力暴走の嫌疑》
指先が、わずかに冷えた。
暴走。身に覚えがない。むしろ、この学院で暴走しかけた実験を止めてきたのは自分の方だ。誰にも気づかれないまま、何度も。それなのに、その「止めた」行為そのものが、誰かの目には「触れた」ことに見えていたのだろうか。いや──そう見えるように、誰かが仕立てたのだ。
顔を上げる。演習場の壇上、兄のエリクがこちらを見ていた。ほんの一瞬。視線が合った。
兄の表情は、笑ってもいなかった。怒ってもいなかった。ただ──なにかを確認して、満足した者の顔だった。見届けるべきものを、見届けたという顔。仕込んだ駒が、ちょうど予定の位置に置かれたのを確かめるような、静かな充足。
レオンは召集状を握りしめた。紙が、指の熱でわずかに湿る。
胸の奥で、ずっと燻っていた熱が、今朝はじめて、小さく鎌首をもたげた気がした。これまで誰かを守るためにだけ使ってきた熱。それが、今はじめて、別の方向を向こうとしている。
──兄さん。あなたは、なにを、僕から奪うつもりですか。
奪われた理論のことではない。奪われた名誉のことでもない。もっと奥の、まだ自分でも名付けられていない何か。それを、兄はとっくに知っていて、今朝それを刈り取りに来たのだと、レオンは直感した。
鐘が鳴る。一限の終わりを告げる音が、冬の空にひどく遠く響いた。霜を踏む足音が、背後から近づいてくる。振り返らなくてもわかる。カイルたちだ。
レオンは封筒を懐にしまい、静かに息を吐いた。白い息が、夜明けの最後の藍を裂いて、ほどけていった。その藍の裂け目の向こうに、今朝はじめて、彼自身の明日の輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がした。