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星霜のコンソメ

第1話 第1話

第1話

第1話

合成タンパクの塊を三百十二度で成形しながら、リクはまた、自分の舌が嘘をついていると感じた。  軌道都市ニューエデン最下層、第七区画量産キッチンD-14。剥き出しの配管から漏れる冷却蒸気が、天井の黄ばんだLEDを滲ませている。蒸気は甘ったるい合成油の匂いと、機械油と、古びた消毒薬の匂いを一緒くたに運んできて、鼻の奥をざらりと削った。成形機から吐き出されるピンク色のブロックは、規格通り一辺六センチの立方体。ラベルには「本日のステーキ風タンパク」とプリントされるが、ステーキを食ったことのある人間など、この階層にはひとりもいない。  リクは作業用の薄い手袋越しに、立方体のひとつを指で押した。返ってくる弾力は、いつもと違っていた。ほんの零コンマ数ミリ、沈みが浅い。彼の舌は、まだ嚙んでもいないのに、その差を欠陥として告げていた。繊維が詰まりすぎている、と。  「リク、三番ラインの凝固圧が落ちてる。お前、また設定値いじっただろう」  主任のゴーツが、義眼を赤く明滅させながら怒鳴った。安物の光学ユニットが走査音を立てて、リクの指先まで舐めるように追ってくる。  「いじってません。デフォルトだと繊維が均一すぎて、嚙んだときに味がしない気がして──」  「味?」  ゴーツの義眼が、侮蔑の光を帯びる。口の端から、昨夜の合成ニンニクの匂いが漏れた。  「下層のゴミに味がわかるか。お前の口の中のは、ただの安物センサーだ。インプラントも入れられねえ落ちこぼれが、料理人を名乗るな」  周囲のラインで働く同僚たちが、ちらりとこちらを見て、すぐに視線を落とした。誰も庇わない。庇えば次は自分の番だからだ。リクは唇を嚙み、ライン速度を規格値に戻した。ベルトコンベアの上を、ピンクの立方体が亡骸のように流れていく。味覚拡張インプラント──上位区の連中が当然のように脳に埋め込んでいる嗜好増幅器──を、彼は買えない。月給の四十倍だ。たとえ一年、水だけで暮らしても届かない数字だった。  それでも、舌の奥で、誰かが囁き続けている。  こんなものは、料理じゃない、と。

 シフト明け、リクは安居酒屋「ノード・セブン」の隅に腰を下ろした。  合成麦酒のジョッキから立つ泡は、どれも同じ大きさで、同じ速度で消える。アルゴリズム最適化された「泡持ちの良さ」だ。口に含めば苦味は規格通り、後味は規格通り、酔いの立ち上がりまで規格通り。何もかもが、あらかじめ決められた曲線の上を滑っていく。舌の表面を撫でていくはずの感動が、どこにも引っかからずに、するりと喉の奥へ落ちていった。壁際の古いホロスクリーンには、今夜も上位区の生配信が流れていた。  『──ご覧ください。ヴェルシーニ家本邸、第七十二回プライベート・ガストロノミー。本日のアミューズは、木星軌道で採取された水素プラズマを閉じ込めた、微重力コンソメです』  画面の中、銀髪の給仕が透明な器を差し出す。中で青白い光がゆらめき、客たちはインプラントを軽く叩きながら恍惚の表情を浮かべた。味覚データが、脳の報酬回路に直接流し込まれているのだ。  リクには、音も、匂いも届かない。ただ光だけが、眼球の裏を刺した。  それなのに、胸の奥が、焼かれたように痛む。  見たことも、嗅いだこともないはずの料理。にもかかわらず、彼の舌は「知っている」と主張している。透明な器の底、わずかに沈む塩の粒の正確な粒径まで、なぜか分かってしまう。直径〇・八ミリ、恒星風で研磨された六角晶系──。いや、それだけではない。沸点に至る直前で火を落とす正確な秒数、黄金比で割りつけられた出汁と水素プラズマの比率、器を持つ手の温度が液体に与えるべき最大許容誤差──知識が、堰を切った水のように頭の奥へ流れ込んでくる。舌の両脇の唾液腺が、見えない何かに反応して疼き、奥歯の裏に、嗅いだことのない香草の苦味がじわりと滲んだ。自分の中に、別の誰かの味蕾が目を覚ましつつある──そんな、あり得ない確信だけが、体の芯でうなりを上げていた。  (なんだ、これは)  リクはジョッキを握りしめた。指先が、自分の意思とは無関係に、空中でかすかに踊る。見知らぬ包丁の柄を撫でるように。千切りの、ありえないほど速いリズムで。手首の角度、刃を落とす深さ、まな板を打つ音の間隔──どれもが、彼の習った量産調理の手順には存在しない動きだった。  幻覚だ。過労だ。そう言い聞かせても、指は止まらない。むしろ、抑えようとすればするほど、別の筋肉が勝手に目覚めていく。肩の奥、肘の裏、親指の付け根。眠っていた何かが、ひとつずつ起き上がる気配がした。  「兄ちゃん、熱でもあんのか」  隣席の配送ドローン整備工が、合成焼酎をあおりながら笑った。油染みたつなぎの襟元から、機械油の匂いに混じって、かすかに本物の汗の匂いがした。それすら、リクには珍しかった。  「この階層でそんな上等な配信見てると、脳がバグるぜ。インプラント無しで味覚模倣信号を拾おうとすると、たまに古い記憶が──」  「古い、記憶?」  リクは振り返った。整備工の顔は、油で黒く汚れている。落ちくぼんだ目の奥で、何かを面白がるような光が揺れていた。  「俺の聞いた話だけどな。下層の一部の人間は、帝国時代の記憶残滓ってやつを、体の中に引きずってるらしい。何百年も前、銀河帝国がまだあった頃の誰かの、嗜好パターンの切れ端だとさ。科学者は否定してるが──まあ、上の連中にとっちゃ都合が悪いんだろ。下層のゴミが、自分たちより高級な舌を持ってたら、体裁が保てねえからな」  整備工はそう言って、黄ばんだ歯を見せて笑った。ジョッキの縁に触れた彼の指の爪は、整備油で縁取られ、割れていた。その割れ目の奥に、リクはなぜか一瞬、白い厨房の床タイルの目地を幻視した。  整備工は笑ったが、リクの耳にはもう届いていなかった。胸の奥で、さっき感じた痛みが、ゆっくりと脈打ち始めていた。まるで、長い眠りから覚めようとしている、別の心臓のように。

 深夜零時過ぎ、カプセル型の自室に戻ると、リクは硬い寝台に崩れ落ちた。  天井まで四十センチ。呼気で結露した樹脂の壁が、自分の顔を歪ませて映す。胸の動悸が収まらない。指先の幻のリズムも、まだ止まっていない。  引き出しから、リクは一枚の写真を取り出した。紙焼きの、酷く古い写真。施設で育った彼が、物心ついたときから握りしめていた唯一の私物。写っているのは、見知らぬ厨房だ。壁に飾られた五つの紋章。中央に立つ白衣の男は、顔の部分だけ経年劣化で真っ白に剥落している。  この写真を見るたびに、舌の奥で何かがざわつく。  今夜は、それが言葉の形をしていた。  ──星霜のコンソメ。  呟いた瞬間、リクは自分の声にぞっとした。聞いたこともない言葉だ。なのに、口の中に広がる唾液の味が、確かに塩辛く、深く、何百年も煮詰めたような記憶の香りをまとっている。喉の奥に、遠い星の光を溶かしたような後味が残った。飲み下すと、胃ではなく、こめかみの裏側が熱を持った。その熱は頭蓋の内側をゆっくりと這い、耳の奥で、聞いたこともない厨房の物音──銅鍋に湯が落ちる高い音、遠くで誰かが呼ぶ低い声、オーブンの扉が閉まる重い反響──を、次々と呼び覚ましていった。  視界の端で、安物の壁時計が二時を指した。  リクは写真を胸に伏せ、目を閉じる。閉じた瞼の裏に、上位区の配信で見た青白いコンソメが、何度もちらついた。そしてその隣に、顔の無い料理人が、静かに包丁を研いでいる。砥石を滑る刃の音が、耳の奥ではっきりと聞こえた。しゅ、しゅ、という規則正しい擦過音は、子守唄のように優しく、同時に、刃物の持つ冷たい覚悟を運んでくる。  (俺は、誰だ)  問いは、自分の声で発されたはずだった。だが返ってきた答えは、明らかに別人のものだった。低く、老い、錆びた鋼のような──けれど確かに、リクの脳の内側で響いた。  ──思い出せ。  ──お前が、本当は何を作っていたのかを。  リクの指先が、また勝手に動き出した。今度は、千切りではない。何かを──誰かを、刺す角度で。掌に伝わる仮想の重みは、包丁のそれより重く、柄は手に馴染みすぎていた。指の記憶は、刃先が肉を裂き、骨を避け、心臓の裏側へ滑り込む最短の軌道を、ためらいなく描いていた。  リクは息を呑んだ。自分の手が、自分のものではない気がした。喉の奥から、かすかに鉄の味がせり上がってくる。嚙んだ覚えのない唇の内側が、いつの間にか切れていた。  その夜、ニューエデン最下層の上空を、観測ドローンが一機、音もなく通過した。機体の底面で、小さな赤い光が、リクのカプセルの番号を静かに記録していた。

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