第3話
第3話
夜の大聖堂は、昼とはまったく別の生き物のように息をしていた。
香の残り香が柱の影に沈み、祈りの合唱が引き上げた後の天井は、呼吸を忘れたかのように静まり返っている。色硝子はもう光を通さず、ただ闇の中で鈍い鉛の骨組みだけを浮かび上がらせていた。祭壇の蝋燭が一本、また一本と、夜番の神官の手で消されていく。最後に残されたのは、中央の聖杯の脇に立つ、細い蝋燭ひとつきり。
『これで、よろしゅうございます』
私は夜番の老神官にそう告げ、ひとりで祭壇前に残ることを許された。聖女の夜の祈りを妨げぬように──そう口にしただけで、老人は深く礼をして下がっていった。紋章のもつ重みとは、つまりこういうことなのだと、私は改めて思い知る。かつて公爵令嬢であった頃でさえ、ここまでの沈黙は買えなかった。
絹の祭服がひやりと冷え、足裏から石の冷気が項まで一筋、駆け上がってくる。昼の所作をやり遂げた反動か、膝の裏が微かに笑うのを感じたが、私はそれを吐息ひとつで鎮めた。処刑台の石段を登った娘の膝だ。まだ甘えることは許さない。
祭壇の下、大理石の円の中央。昼間、聖女として最初の祈りを捧げた、あの場所に、私はもう一度膝を折った。
『さて。──検分を始めましょう』
手の甲の紋章が、夜気の中で、小さく脈を打っている。薔薇と剣の金の意匠は、蝋燭の炎をほのかに映して、生き物のようにゆらりと縁を震わせた。
*
私は両手を胸の前で組み、低く唱えた。
「──照らしたまえ」
言葉は祈りですらなく、問いかけに近かった。神に願うのではなく、自分の内側の刃に「切れるか」と尋ねる心地。その自覚を、私は恥じなかった。むしろ、恥じない強さこそを、神は聖女の器に求めたのかもしれない。
紋章が、こたえた。
熱は指先から肘へ、肘から肩へと登り、胸の奥の鼓動とひとつに溶けた。やがて組んだ両手の間から、乳白色の光がほろりと零れ落ちる。絹の袖を透かし、石畳の上にひとすじの円を描く光。眩しさはない。むしろ月光よりも柔らかい、絹のような明かりだった。
その光の縁に触れた途端、祭壇脇に立てかけられていた聖典の頁が、ひとりでに震えるのを、私は確かに見た。古い革表紙の書が、呼吸をするように、かすかにひらいては閉じる。咎めるのでも、歓ぶのでもない。ただ、「聞いている」と応じる仕草。
『聖光……これが』
試しに、蝋燭の炎へと光を差し向けてみる。炎は翳らない。石畳も、聖杯も、私の祭服も、何ひとつ陰らせずに光は滑っていった。ああ、この光はそういう光ではないのだ──物を照らす光ではなく、物の中の「あるもの」を照らす光。そう直感した時、私は試すべきことを一つ、思いついた。
私は組んでいた指をほどき、自分自身の掌に、そっと光を向けた。
──白い。
掌は、ただ白く輝いた。翳りはひとつもなく、爪の半月のかたちまで、輪郭が誇らしげに浮かび上がっている。
『……では、私の中には、いま、嘘はない』
胸の奥が、ことりと軽くなるのを感じた。奇妙な安堵。処刑台に送られるほど嘘を重ねられた娘が、自らの掌を光にかざして「私は濁っていない」と確かめる夜。笑ってしまいそうになるのを、私は眉の奥でこらえた。
次に、祭壇脇の花瓶に活けられた白百合へ、光を差し向けた。花弁は白いまま、茎は青いまま。葉の一枚の裏に、ごく小さな染みがひとつ。光はその染みの上でだけ、ふっと翳った。腐りの始まりだ。──嘘ではない。けれど「朽ちかけた真実」も、この光はそっと示す。真実の鮮度さえも、この紋章は見分けようとしている。
私はいよいよ息を詰めた。
祭壇の上、献納の木札が並ぶ一角に、今日貴族たちから捧げられた短冊がある。神への祈願を記した細長い紙。私は立ち上がり、静かにそこへ歩み寄った。祭服の裾が、夜の石畳に滑らかな音を落とす。
指先から伸ばした光を、短冊の束の上にそっとかざす。
ほとんどの短冊は、淡い乳白色のまま、光を受けて穏やかに輝いた。「息子の剣の稽古が実を結びますように」「母の胸の病が癒えますように」「今年の葡萄が豊かに実りますように」──そうした素朴な祈りは、光をまっすぐ返してくる。
けれど。
束の中ほどで、二枚。ふたつの短冊が、光の下で、ぬるりと黒く翳った。
インクが汚れたのではない。紙が古いのでもない。光が触れた瞬間、その短冊の上だけ、まるで墨を一滴落としたように、言葉の上に影が滲む。私は息を止めて、その二枚を手に取った。
一枚目。『聖女様のご降臨を、心より言祝ぎ申し上げます』──差出人に、宰相派の一貴族の名。
二枚目。『この国の安寧と、王太子殿下の御代の栄光を』──王太子エドワルド殿下ご自身の名。
『……ああ』
胸の奥で、静かに剣の柄が鳴った。
祝いの言葉が嘘なのではない。けれど、その言葉の下に、言葉にされなかった別の思いが澱のように沈んでいる。それをこの光は見逃さない。「祝う」と書きながら「煩わしい」と思った心の翳り。「安寧」と祈りながら「この聖女を早くどうにかせねば」と考えた心の翳り。──人が口にできぬまま飲み下した言葉の残滓を、聖光は、ひとしずくも見逃さずに拾い上げる。
*
短冊を元の場所に戻した時、私の指先はもう震えていなかった。
震える段階は、昼のうちに終わっていた。昼、祭壇を下りる一段目で、私は自分の震えを封じ込める作法を身につけた。夜は、夜の作法で進まなければならない。怒りではなく、見積もりの夜だ。
『この光があれば──覆せる』
胸の内で、初めて、その言葉を噛みしめた。
偽の証言。偽の書簡。偽の証人。私を処刑台に送った、あの紙束の山を、もし聖光の下に並べたなら、いったい何枚が翳ることだろう。何枚が、黒く滲んで、言葉の下の濁りを露わにすることだろう。想像しかけて、私は自分を叱った。まだ、早い。光の切れ味は確かめた。けれど、剣は振る場所を選ばなければ、ただの乱暴になる。
乱暴は、聖女の所作ではない。
私は祭壇の中央に戻り、もう一度、膝を折った。掌の上に、ほのかな聖光をひとすじだけ残したまま、静かに目を伏せる。蝋燭の炎が、夜気にそよいで小さく身をよじった。
『最初の一振りは、どこに置くべきかしら』
候補は、数えるまでもなかった。
宰相派の貴族たち──彼らに振るえば、貴族社会に大きな波紋が立つ。立ちすぎる。民は喝采するだろうが、王家は聖女を警戒しはじめる。警戒された聖女は、やがて幽閉される。歴史書の頁を私は知っている。騒がしく振るわれた聖剣は、たいてい、早々に鞘ごと折られた。
エドワルド殿下──いいえ、まだ。殿下はこの国の未来の顔だ。顔をいきなり砕けば、砕いた者の手の方が先に疑われる。
ミレーヌ──彼女はもっとも憎い。けれど、もっとも憎い相手は、もっとも最後にとっておかなければならない。それが、王妃教育で老教師が私に囁いた「怒りに時間を与える」ということの、本当の意味だ。
ならば、最初の一振りは。
私は、短冊を戻した祭壇の隅から、さらに奥の献納の帳面へと視線を移した。今日、聖女降臨を祝して捧げられた寄進のうち、孤児院と聖堂付属施療院への分配を記した、分厚い帳面。開かれた頁の上に、ほんの僅か、聖光をかざしてみる。
頁の中ほど。孤児院への配分額の行。
そこだけ、紙が──ぬるりと、翳った。
『……あら』
心の中で、私は初めて、声を立てずに笑った。品位を崩さぬ、祭壇に似合う微笑で。
寄進の横領。聖女降臨の当日に、神に捧げられた銅貨の一部を抜いた誰かが、確かにいる。その誰かは、たぶん、たったひとりでは動けなかった。背後には、必ず、帳簿を書き換えることを命じた上の者がいる。──つまり、ここから糸を手繰れば、宰相派の金の流れへと、静かに、けれど確実に至る。
最初の一振りに、これ以上ふさわしい場所があるだろうか。
派手ではない。貴族社会を騒がせない。王家を警戒させない。民には、孤児院を清めた聖女として映る。誰もが、私を讃えこそすれ、恐れない。──恐れられぬ刃ほど、深く入る刃はない。王妃教育の老教師は、そこまでは教えてくれなかった。それは、処刑台の石段を登った娘だけが、自分で学び取る類の教えだった。
*
私は掌の中の聖光を、ゆっくりと閉じた。紋章の熱が、名残惜しげに指の付け根まで退いていく。
蝋燭の炎が、ふと風もないのに揺れた。高い天井のどこかで、古い木組みがかすかに軋む。夜の聖堂は、もう祈りの場所ではなく、ひとりの娘の静かな戦評定の場になっていた。
『明日。──孤児院の視察を、願い出ましょう』
立ち上がりながら、私は心の中で、次の一歩の位置を定めた。大司教に願えば、聖女の慈愛としてすぐに整えられるだろう。宰相派は、まさか光が帳面の上で翳るとは思っていない。彼らの油断は、まだ、たっぷりと私の味方だ。
扉の向こうから、夜風がひと筋、回廊を抜けてきた。祭服の裾が、祈りのようにふわりと揺れる。手の甲の紋章が、もう一度、とくん、と小さく脈を打った。──最初の標的を、主の意志として承知したという、静かな応えのように。
『ごきげんよう、宰相閣下』
私は誰もいない祭壇に向かって、ひそやかに、貴族令嬢の挨拶を捧げた。
『今宵、あなたの帳面は──もう、私に知られております』